スキップしてメイン コンテンツに移動

エルサレム会議②(使徒の働き15:12~21)

 

「エルサレム会議②」

使徒の働き15:12~21

 世界初の教会会議がエルサレムで行われました。事の発端は、エルサレム教会からアンティオキア教会に下って来たユダヤ人クリスチャンが、「割礼を受けなければ救われない」と主張したことにあります。多くの異邦人クリスチャンたちは、割礼を受けていませんでしたから、「自分たちは救われていないのか!?」と不安になりました。これを聞いたパウロとバルナバは、これは早急に解決しなければならない問題だということで、他の教会の代表者も連れてエルサレム教会へ向かいます。こうして第一回エルサレム会議が行われたのでした。いわゆる割礼派の人々は、何とか異邦人たちにも割礼を受けさせ、律法を守るよう命じるようにと主張するのですが、バルナバやパウロは断固として「信じるだけで救われる」という線を譲りません。ついにペテロが立ち上がり、自分の意見を述べます。神は確かに異邦人にも聖霊を与えられた。自分はそれを見た。聖霊が与えられたということは、救われたということ。これで神が差別しないお方だということが証明された。それに、そもそも割礼や律法というのは、あなたがたユダヤ人が負いきれなかったくびきではないか。どうしてそれを彼らに負わせようとするのか、と指摘します。そして最後に「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです!」と一撃を加えると、割礼派の人々はもう何も言い返せなくなり、場内はシーンと静まり返りました。するとその隙にということでしょうか、バルナバとパウロが、先の伝道旅行で神が自分たちを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話し、人々はそれに耳を傾けました。 

  こうして二人が話し終えると、ヤコブが手を挙げて発言を求めました。議長が誰だったのは分かりませんが、「はい、ヤコブくん」と指名して、彼は、「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。」と話し始めたのです。

  ところでこのヤコブとは、どのヤコブなのでしょう。以前12章でペテロが迫害にあって牢に入れられた時、御使いが彼を牢から救い出して難を逃れたことがありました。その時ペテロは、エルサレムを一時立ち去るのですが、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言づけます。それがこのヤコブです。エルサレム教会のリーダーです。また彼はガラテヤ書では、「主の兄弟ヤコブ」と言われています。イエスさまの血を分けた兄弟でした。そして、「ヤコブの手紙」の記者でもあります。そんなヤコブの発言ですから、ユダヤ人も異邦人も一斉に彼に注目しました。ひょっとしたらバルナバやパウロは、ちょっと心配だったかもしれません。なぜならヤコブはユダヤ人たちから評判がよく「義人ヤコブ」とのニックネームを持つほど律法に忠実な人だったのです。(ヨセフス「ユダヤ古代誌」より)しかもヤコブは、もともとの語順ですと、「シメオンが説明しました」と話し始めるのです。「シメオン」って誰でしょう。「ペテロ」のことです。皆さんご存知のように、「ペテロ」のもともとの名前は「シモン」ですが、この「シモン」というのもギリシャ語。「シメオン」というのは、その「シモン」のへブル語(アラム語)の呼び方です。ペテロはユダヤ人教会では、「シメオン」と呼ばれていたのかもしれません。ヤコブは言いたかったのでしょう。ペテロは、我々と同じユダヤ人なんだよ。その彼が「異邦人に割礼を強要するな」と言っているのだと。

 そしてヤコブは、ペテロが説明した内容についてもう一度まとめます。そして「神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについて」語りました。「神が初めに…異邦人を召した」つまり、「神は初めから異邦人を救いに招いていた。異邦人の救いのご計画を持っておられた」と言っているのです。そして、15~18節のアモス書の預言を引用して、それを証明しています。これはヘブル語そのままの引用ではなくて、70人訳と呼ばれるギリシャ語訳の聖書を用いた引用です。ヘブル語そのままを引用したとしてもこの聖句の主旨は変わらないのですが、ヤコブは敢えて、新約の光を当てて、この預言を紐解こうとしたのでしょう。つまりアモスの預言は、イスラエルはやがて滅んでいく。しかし、神はやがてダビデ王国(イスラエル)を復興してくださる。そしてそれを終末における神の国の成就の幻と重ね合わせているのです。そこでは単にイスラエルが建て直されるばかりでなく、「わたしの名で呼ばれるすべての異邦人がみな、主を求めるようになる」のだと言っているのです。

そしてここで思い出されるのはアブラハム契約です。創世記17章4~5節「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」。ヤコブは言います。今起こっている異邦人の救いは、アブラハムとの契約から始まり、アモスの預言に引き継がれ、今成就したのだ。異邦人の救いは神の計画だった。だから、もうこれ以上「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。」(19節)それが結論でした。人はただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じることによって救われる。それ以外の割礼に代表されるような律法は必要ない。もっと言うと、ユダヤ人はユダヤ人のままで救われる。異邦人は異邦人のままで救われる。異邦人がユダヤ人になる必要はないということです。 

これで終わればすっきりするのですが、ヤコブは「ただし…」と付け加えます。「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように」というのです。この4つの項目は、「使徒教令」と呼ばれています。旧約聖書の律法は、大きく分けて礼拝や祭儀に関わる事柄を定めた儀式律法と、神の民としての生活に関わることを定めた道徳律法とに分けられますが、「淫らな行い」は道徳律法、それ以外の3つは儀式律法に関わるものだと言えるでしょう。

まずは「偶像に供えてけがれたものを避ける」という意味ですが、これは偶像に供えたものを食べるなということなのか、「偶像の神殿で食事の席に着く」(Ⅰコリント8:10)ことを禁じているのかはっきりしません。そして皆さんもご存知の通り、後にパウロがコリント教会に宛てた手紙では、「偶像に供えられた肉」について多くの紙面を割いています。今日はそこまで触れませんが、とにかくここでは、偶像と関わるなということが言われています。異邦人クリスチャンたちは、今までは生活の中に異教の偶像崇拝が入り込んでいたと思うのですが、これからは何が偶像崇拝に関わることなのか見分け、区別し、そこから離れなさいということです。

そして「淫らな行い」というのは、当時異教社会で公然と行われていた近親相姦を戒めているのだという説もありますが、婚前交渉、婚外交渉など婚姻関係外の性的関係のことを言っているのだと思っていいでしょう。性行為自体が罪深い行為なのではありません。神は人を男と女とに創造され、「生めよ増えよ」とおっしゃいました。結婚という秩序の中で行われる性の営みは、神の祝福です。それが罪の堕落の影響を受けて、支配や依存、暴力やあらゆる歪みが入って来てしまったのです。

そして3つ目「絞め殺したもの」、これは旧約聖書にも新約聖書にも出て来ない言葉で、イスラエル社会では問題外、あるはずのないものだと言えます。旧約で動物の犠牲をささげるときにも絞めることはなかったのですが、異教の習慣ではよくあったようです。ですからこれも、異教の宗教儀式を避けるようにということなのでしょう。そして最後「血を避ける」ということですが、これも同じです。イスラエルに血を飲むとか食べるという習慣はありません。これもまた異教のおどろおどろしい宗教儀式でなされていたことなので、それを避けるようにと言われています。

要するにこの4つの使徒教令は二つのことを示していると言えます。一つは異教の残忍残虐な儀式、儀礼をキリスト教信仰に取り入れるなということ。また個人的にもそういうことに関わるなということです。そしてもう一つは、キリスト教はいのちを尊重する、大切にする宗教だということを示していると思われます。「いのちを大切にする」という旗印を私たちクリスチャンは掲げるのです。その点では、「血を避ける」ということを頑なに守って、輸血を拒否するなどということは、本末転倒です。 

また「淫らな行い」つまり、婚前交渉、婚外交渉も命を守るという視点で見てほしいのです。人工妊娠中絶の問題や性感染症の問題、多くの家庭が壊れ、傷ついてる問題、いのちを生み出し、愛を育むはずの性が、欲望のはけ口となり、支配し、消費するものになっている現実を見るとき、やはりクリスチャンは「姦淫」や「不品行」のような「淫らな行い」を避けなければなりません。

ですからこの4つの使徒教令は、ユダヤ人が「割礼」のことを譲ったのだから、異邦人もせめてこれだけは守ってほしいという、交換条件や妥協策ではありません。ユダヤ人は、「あれこれしなければ救われない」という強迫観念のような信仰を改めましょう! ギリシャ人も異教の習慣や価値観から離れて、新しい神の国の価値観で生きましょうということです。ユダヤ人もギリシャ人もキリストが示す新しい生き方をしていきましょうということです。コロナで「新しい生活様式」ということが言われていますが、私たちクリスチャンも、罪の影響を受けた価値観、生活習慣ではなく、神の恵みによる生き方、新しい価値観、新しい生活習慣を身に付けていきたいものです。



コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

父よ彼らをおゆるしください(出エジプト記32章30~35節)

説教題「父よ、彼らをお赦しください」  聖書箇所 出エジプト32章30節~35節  おはようございます。今日は「TCU Day・神学校を覚えて祈る日」です。いつも東京基督教大学と神学生たちを覚えてお祈りして下さりありがとうございます。本日はそれにともないキリスト者にとって祈り、その中でもとりなしの祈りについて共に考えてまいりたいと思います。 お祈り 恵み深い天の父なる神さま。本日も私たちを主の御前に集めて下さり感謝いたします。これからみことばを聞きます。主が私たちのこころに語って下さい。みことばを取り次ぐこの者も神への恐れと兄弟姉妹への愛を持って語れますようにこの唇をきよめ用いて下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 祈りについて  祈りって本当にいいものですよね。一人静かなところで祈る祈りは神さまとの距離をグッと近くに感じますし、ともに祈る祈りは兄弟姉妹との交わりにもなります。また、目に見えないけれど祈りは必ず天につまれていますし、祈りはキリスト者にとって神の御業に共に与れる素晴らしい働きの一つですね。  この祈りについて、カルヴァンという昔の教会の偉い人は祈りを「神との対話である 」と言いました。また、『ナルニア国物語』を書いた作家のCS.ルイスは、「祈りは神の御心を知り行うためのもの  」と記しました。最後に貧困や病に苦しむ人々の救いに生涯をささげたカトリックの修道女マザー・テレサは「祈りは信仰を深めます。信仰から愛が生まれ、愛からは奉仕が生まれるのです」と祈りが愛の行動を生み出すことを教えてくれました。  このように祈りには多種多様な理解と、神と私たちとの関係において沢山の良いことを生み出す力が存在します。  また、新船橋キリスト教会にも、それぞれが大切にしている祈りの場所、祈りのスタイルがあることだと思います。その中で私たち神学生も水曜日の夜は牧師夫婦のご自宅に集まって新船橋キリスト教会を覚えて祈りをささげてきました。そこでは祈りだけでなく、みことばの学びや近況の分かち合いなど、お茶とお菓子も提供されて、豊かな交わりの時を持たせて頂いています。 とりなしについて これらの祈りの中で、今日共に考えていきたいのが「とりなしの祈り」についてです。「とりなし」とは、聖書では「神に対して罪を犯し、神と敵対している人...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...