スキップしてメイン コンテンツに移動

アンティオキア教会への手紙(使徒の働き15:22~29)

 

「アンティオキア教会への手紙」

使徒の働き15:22~33

エルサレム会議は、聖霊の導きの中で無事終わりました。決議事項としては、「異邦人には割礼や律法の負担を負わせない。ただし4つのこと、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける」ということでした。わざわざアンティオキア教会まで行って、「割礼を受けなければ救われない」とふれ回った人々は、この決議を前に恥じ入ったことでしょう。

 今日のテキストでは、この決議事項をアンティオキア教会に伝える場面が描かれています。今みたいに、メールで議事録を添付して送るわけにはいきませんから、手紙を書きました。そして配達人も厳選したようです。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダ、そしてシラスの二人でした。大事な内容ですし、補足説明や質疑応答もあるでしょうから、信頼できる人でなくてはなりません。22節では「全教会とともに」とありますし、25節でもこの二人を送ることを「全会一致で決めました」とあります。とても慎重に人選をしたことが分かります。こうして選ばれた二人はどんな人だったのでしょうか。

 この二人は共に預言者だったと32節に書かれています。「預言者」とは文字通り、神のみことばを預かって解き明かす人です。聖書から、また時には直接神のことばを聞き、それを教会の人々に解き明かしていました。信仰も成熟しており、神さまとの深い親密な関係を持っており、教会では指導的立場にあった人たちです。25、26節では、「主イエス・キリストのためにいのちをささげている、バルナバとパウロと一緒に」彼らを送るのだとありますから、この二人は、バルナバやパウロと比べても引けを取らない忠実な主のしもべだったことわかります。

 さて、この選ばれた二人のうち「ユダ」ですが、彼は「バルサバと呼ばれる」と言われています。聖書に精通している人は、「あれ聞いたことあるぞ」と思ったかもしれません。そうです。イエスさまが昇天し、御霊が下り、教会が誕生したあと、12使徒を補充する必要が出ました。その時の候補にあがっていたのが、「バルサバと呼ばれ、別名ユストというヨセフ」(2:23)でした。このヨセフはユダの兄弟ではないかというのが一般的な見方です。結局くじによって選ばれたのはもう一人の候補者マッティアでしたが、それでも使徒の候補にあがったぐらいですから、皆から信頼される、信仰も人格も成熟した人だったのでしょう。「バルサバ」の意味は「安息の息子」ですから、この兄弟は共にエルサレム教会に安息をもたらす存在だったと言えます。

 そして「シラス」ですが、彼は別名シルワノ(ラテン語)と呼ばれており、パウロの手紙では時々この名前で呼ばれています。なぜラテン語名を持つかというと、彼はローマの市民権を持つギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)だったからです。またⅠペテロの終わりには、「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は(この手紙を)簡潔に書き送り、勧めをし」とありますから、「ペテロの手紙」を書き記すときにも少なからず関わったようです。彼はこの手紙を届けた後、パウロに同行して伝道旅行をします。つまりシラスも宣教のパッションに溢れる素晴らしい人物だったのです。

 とにかくエルサレム教会は非常に慎重に人選をしました。キリストの教会はトップダウンの組織ではありません。エルサレム教会が教理や重大なことを決めて、あとは下々の教会に通達するようなものではないのです。大きな中枢の教会であっても、地方の小さな教会であっても、同等であり、公平であり、互いに尊重し合う関係があったということです。

  さて、この手紙は、アンティオキア教会だけではなく、シリア、キリキアなど、同じ問題を抱えているであろういくつかの教会に送られました。差出人はエルサレム教会の使徒たちと長老たちです。「使徒」には権威がありましたから、信頼できる筋の手紙との現れと言えます。また「兄弟である使徒たちと長老たち」とも付け加えられ、宛名にも「異邦人の兄弟たち」と書かれています。そこには、優劣も上下関係もない、キリストを主とする兄弟姉妹の親しい関係が現わされています。「あいさつを送ります」は、ギリシャ語では「喜びがありますように」です。キリスト者の交わりには喜びがふさわしい。本当にそう思いますし、そうありたいと思います。

 そして24節では、驚きの事実が述べられています。なんと「割礼を受けなければ救われない」と言ってアンティオキア教会に混乱をもたらした人々は、エルサレム教会が派遣した人々ではなく、教会とは関係なく、勝手に出て行って、持論を述べた人たちだったというのです。しかしながら、彼らがエルサレム教会のメンバーであることを思うと、エルサレム教会は責任を感じないわけにはいきませんでした。ですから彼らはこれを教会の問題として扱い、会議を招集し、きちんと解決したのです。

 この手紙が、ここに書かれているだけの内容だったのか、もっと長かったものをまとめて記されたのかは分かりません。けれどもここには今回のエルサレム会議の決議事項が、簡潔にまとめられています。その内容は「あなたがたには、4つの使徒教令以外、どんな重荷も負わせない」というものでした。しかもこれは「聖霊と私たち」によって決めたことだと、はっきりと宣言しています。そしてエルサレム教会で最も適任と思われたユダとシラスを送って口頭でもそれを伝えました。先の割礼派の人々によって傷ついた教会は、ユダとシラスとの交わりの中でその傷が癒されていくのを感じたことでしょう。

 このエルサレム教会の丁寧な対応に、私たちは学ばなくてはいけません。教会の一部の人たちが、勝手にしたことだから関係ないというのではなく、教会の問題として、教会の管理不足、教育不足から出た問題として、エルサレム教会はきちんと向き合い、解決したのです。

 話は飛躍し過ぎかもしれませんが、私は日本の教会の戦争責任について考えさせられました。太平洋戦争下において日本の教会は、国家神道体制に取り込まれ、特にアジアの諸教会に神社参拝を強要するなどの罪を犯しました。それだけでなく、日本の教会は戦後も長くその罪に向き合うことなく、公的な悔い改めと罪の告白をしてこなかったのです。そして戦後70年たって、同盟教団はやっと、教団100周年記念宣言という形で、公に戦争責任を表明するに至りました。内容は一部抜粋して週報にも載せました。「日本同盟基督教団は、太平洋戦争時に、国家神道体制の下で教会の自律性を失い、国策に協力しました。とりわけアジア諸国と、その教会に不当な苦しみを負わせました。その罪を認め、ここに悔い改め、教会のかしらであるイエス・キリストこそ、唯一の主権者であることを告白します。」

 過去のことだから関係ないとか、自分は直接このことに加担したわけでないから知らない、ということではなく、教会の一部が罪を犯し、道を外したならば、それを真摯に受け止め、教会としての問題はどこにあったのか、何を悔い改めるべきなのか、改善するべきなのかをしっかり向き合って考え、解決していくことが大切です。エルサレム教会が、一部の人が勝手にしたことだと認めつつも、それを重く受けとめ、中枢の教会も地方の教会も全体で神のみこころを求めて会議をし、結論を出したように、私たち教会も道を逸脱してしまった兄弟姉妹がいた場合、その人を切り捨てて終わりにするのではなく、教会全体の問題として取り組む姿勢が求められているのではないでしょうか。

  教会はキリストにあって一つです。それはトップダウンの上からの統制による「一つ」ではなくて、お互いの違いを寛容に受け入れ、尊重し合う「一つ」です。そして「イエス・キリストこそ主」、そこに一致する「一つ」なのです。


コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

父よ彼らをおゆるしください(出エジプト記32章30~35節)

説教題「父よ、彼らをお赦しください」  聖書箇所 出エジプト32章30節~35節  おはようございます。今日は「TCU Day・神学校を覚えて祈る日」です。いつも東京基督教大学と神学生たちを覚えてお祈りして下さりありがとうございます。本日はそれにともないキリスト者にとって祈り、その中でもとりなしの祈りについて共に考えてまいりたいと思います。 お祈り 恵み深い天の父なる神さま。本日も私たちを主の御前に集めて下さり感謝いたします。これからみことばを聞きます。主が私たちのこころに語って下さい。みことばを取り次ぐこの者も神への恐れと兄弟姉妹への愛を持って語れますようにこの唇をきよめ用いて下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 祈りについて  祈りって本当にいいものですよね。一人静かなところで祈る祈りは神さまとの距離をグッと近くに感じますし、ともに祈る祈りは兄弟姉妹との交わりにもなります。また、目に見えないけれど祈りは必ず天につまれていますし、祈りはキリスト者にとって神の御業に共に与れる素晴らしい働きの一つですね。  この祈りについて、カルヴァンという昔の教会の偉い人は祈りを「神との対話である 」と言いました。また、『ナルニア国物語』を書いた作家のCS.ルイスは、「祈りは神の御心を知り行うためのもの  」と記しました。最後に貧困や病に苦しむ人々の救いに生涯をささげたカトリックの修道女マザー・テレサは「祈りは信仰を深めます。信仰から愛が生まれ、愛からは奉仕が生まれるのです」と祈りが愛の行動を生み出すことを教えてくれました。  このように祈りには多種多様な理解と、神と私たちとの関係において沢山の良いことを生み出す力が存在します。  また、新船橋キリスト教会にも、それぞれが大切にしている祈りの場所、祈りのスタイルがあることだと思います。その中で私たち神学生も水曜日の夜は牧師夫婦のご自宅に集まって新船橋キリスト教会を覚えて祈りをささげてきました。そこでは祈りだけでなく、みことばの学びや近況の分かち合いなど、お茶とお菓子も提供されて、豊かな交わりの時を持たせて頂いています。 とりなしについて これらの祈りの中で、今日共に考えていきたいのが「とりなしの祈り」についてです。「とりなし」とは、聖書では「神に対して罪を犯し、神と敵対している人...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...