「聖霊に満たされて」(使徒2:1-6)
齋藤五十三師
1.
同じ場所で心ひとつに
1節(読む)
五旬節はユダヤ人の信仰生活において特別な季節でした。そのため、読んでいるといろいろな想像力をかきたてられます。 けれども、そうした季節が持つ特別の意味以上に、この一節の強調点は、共に集まる弟子たちの姿に向けられています。「皆が同じ場所に集まっていた」こと。これが一節のフォーカスです。 ここにはおそらく120名ほどが集まっていたようですが、彼らは何をしていたのでしょう。 彼らは祈っていたのです。「祈り」とは書かれていないものの、祈っていたことは明らかです。 使徒の働きの初めには、弟子たちたちが集まって、心を一つに祈っている。そういう場面が繰り返し描かれていくのです。
そのように心を合わせて祈る背景には、御言葉の約束がありました。 復活の後、天に昇られる前にイエスさまは約束されましたね。 使徒の働き1章4節、5節にこうありました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そうです。イエスさまは命じられたのでした。「エルサレムに留まるように。聖霊を受けて、わたしの証人となるように」と。 この約束に応えて120名もの弟子たちは、共に集まり祈っていたのです。 これは麗しい姿でしょう。主イエスの言葉に、弟子たちが心を合わせる祈りで応答していく。 そして、そのように祈る交わりの上に聖霊がくだり、新約の教会が誕生するのです。
使徒の働きの初めに出てくる教会の姿は実に多様ですが、やはり印象に残るのは、彼らが心を合わせて祈っている姿です。多様な働きの中にあって、彼らはいつも心を一つに祈っている。 そこに聖霊が降り、神の御業が起こる。 こうした教会の本質は、今も変わらないのです。教会が一つ思いで祈るなら、そこに聖霊が豊かに臨み、働いていく。 この教会の生きた姿を、今朝は、まず心に留めておきたいのです。
私は2004年四月に、家族とともに国外宣教師として台湾に遣わされました。宣教師の仕事は、約三年の語学の学びから始まります。一年目、私は懸命に中国語の学習に励みました。無理をしたのだと思います。 二年目の秋口から胃を悪くして体調を崩し、眠れなくなるなど、心身の不調が続きました。そして2005年暮れから、約三か月の帰国療養をしたのです。 宣教師の世界には、二年目の疲労や病気がよくあるのです。日本と異なる言語、文化、気候の中で疲弊してしまう宣教師は少なくない。 私は心療内科で適応障害と診断されました。そのようにして始まった三か月の療養期間は苦しかった。あの頃の私は、毎晩のように妻に、「宣教師をやめたい」と弱音を吐いていました。 そんな私がどうして立ち上がることができたのか。決定的だったのは、祈る教会の支えでした。 同盟基督教団の諸教会から、そして、台湾の教会からも、「祈っています」との温かい声援がずっと届いて、私たち家族を支えたのです。 無記名のお見舞い、献金もずいぶんいただきました。あの時期、本当に苦しかったけれど、同時に、それまでに経験したことのない励ましも受けたのです。自分はこんなに祈られていたのかと、、。 あれは、聖霊の慰めと励ましであったと信じています。 宣教師たちは、そうした教会の祈りに支えられて働いています。心を一つにして祈る教会を通し、聖霊は豊かに働くのです。
2.
聖霊のバプテスマ
2節、3節(読む)
これは、教会に、そして、集うすべての信仰者に聖霊がいちどきに降った場面の描写です。これは特別な出来事で、十字架や復活同様、これと全く同じことが歴史の中に繰り返されることはありませんでした。
そう、これは特別な出来事です。 大きな響きが起こり、また天から舌が分かれて現れ、集まっていた人々が他国の言葉を語り出していく。 響きと舌と言葉。これら三つが聖霊降臨で起こった主な奇跡ですが、表現するには言葉の限界がありました。 ただの「響き」では十分表現できないので、「激しい風が吹いて来たような響き」とありますね。 「舌」だけでも足らないので「炎のような分かれた舌」。 そして、「言葉」だけでは足らず、「他国のいろいろなことば」、、。
使徒の働きを記したルカは、このように言葉の限界に向き合いながら、懸命に伝えようとしたのです。この時、いったい何が起こっていたのか。 それを読者である私たちに何とか伝えたいと、ルカは、言葉を尽くしていくのです。
ルカが言葉の限界に直面するほどの、この不思議な出来事の意味は何だったのでしょう。ここで、いったい何が起こっていたのか。 聖書が聖書を解き明かす、と言いますが、聖書全体を読むと、この時に起こったできごとの意味をさぐる、いくつかのヒントが見えてきたりします。
例えば、弟子たちのいた場所全体を揺るがす激しい風のような響きで思い出すのは、旧約の預言書エゼキエル書37章、カラカラに枯れた「骨」が、神の命の風、息吹でよみがえっていく奇跡です。 「息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」と、この神の言葉によって、枯れた骨がよみがえっていく。 ああ、神が吹かせる風は、人を再生させていくのだと。 そう言えば、新約のヨハネ3章でも、人を新しく生まれさせる聖霊の働きについてイエスさまが、「風は思いのままに吹きます」とおっしゃっていました。 風のような響きは、人のいのちを新たにしていく神の力を表すのでしょう。
それでは、「炎のような舌」はどうでしょう。 思い出すのが、出エジプト記3章、神の人モーセが、柴の燃える炎の中で、神の臨在に触れた出来事です。 炎の中、神はモーセに語ります。「あなたの履き物を脱げ。ここは聖なる地だから」と。そのように、この五旬節にも、祈る教会の上に、神の臨在が炎のように臨んでいたのです。
いのちを新たにする神の力、そして、神の臨在。 でも、まだ足らない。 ここでは、言葉で語りうる以上のことが、起こっているのです。この時、いったい何が起こっていたか。 思いめぐらす中、「あっ、そうだ」と、一つのことに気づきました。 私たちは、この不思議な光景のうちに、聖霊による洗礼式を目撃しているのだ、と。 響き合う御言葉が確かにありますね。ルカ3章16、17節、洗礼者ヨハネによる預言の言葉です。ヨハネは水でバプテスマ、洗礼を授けていましたが、そのお方、イエス・キリストは「聖霊と火でバプテスマを授ける」と。
私たちはここに洗礼式を見ているのです。十字架にかかり復活したイエスさまが、天に昇り、今、聖霊を雨のように降らせて洗礼を授けている。 聖書のこの後の文脈、使徒2章33節でもペテロが、この不思議な出来事を次のように解き明かしています。「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださった」と。 使徒の働き2章は、イエスさまによる聖霊の洗礼式の場面です。
五月に東京基督教大学で、将来の牧師を目指す兄弟姉妹と学びをする中、洗礼式を見ることの大切さを語り合いました。 自分の洗礼式はもちろんですが、他の兄弟姉妹が洗礼を受ける、その場面をしっかりと見ることも、とても大切だと。 それは、洗礼式が教会を励まし、力づけていくからです。 洗礼式を見る度、私たちは自分の洗礼を思い出して原点に返ります。 一人の罪びとが悔い改め、神に立ち返る時、天には歓声が沸き上がると聖書にありました。 その歓声が届くかのようにして、洗礼式の度に教会は励まされ、力を受けていくのです。
洗礼式を見ることは大事です。初代教会が聖霊による洗礼を受けたとき、その響きは家全体を満たし、聖霊はひとりひとりの上にも臨みました。聖霊による洗礼は、そのように教会全体を満たし、同時にひとりひとりを活かしていきます。
こうした最初の教会の特別な洗礼式の光景に、皆さんにも思い出していただきたいのです。 この新船橋キリスト教会の初めにも、聖霊が臨んで教会を満たし、ここに教会を生まれさせていった日があったでしょう。 その後の歩みには幾多の困難もあったでしょうけれど、聖霊が生まれさせた教会は、今日まで守られてきました。 そして、皆さん一人一人にも、洗礼の日がありましたね。一人一人がそれぞれに洗礼を受けて、この神の家族に加わり、今、共にこうして歩んでいるのです。
使徒の働き2章は、聖霊による洗礼式の特別な光景なのです。 教会全体が聖霊に満たされ、一人一人も聖霊を受けていく。これが教会の誕生であり、私たちもまた、そのようにして生まれた。 だからこそ、使徒2章の描く洗礼の場面を見つめることは大切です。 私たちも今朝、この特別な洗礼の場面を通して、私たちの教会の誕生を、そして、ひとりひとりの原点を思い起こしていくのです。
3. 他国の言葉
今朝の箇所には三つの奇跡があります。風のような響き、炎のような舌、最後の三つ目が他国のいろいろな言葉でした。 この三つ目の言葉とは、いわゆる異なる舌、第一コリント人への手紙でパウロが言及する異言のことではなく、外国語のことです。これを耳にした人々が、自分の国の言葉で「神の御業」を聞いたと11節で言っていますね。聖霊に満たされた人々は、外国語をもって神の御業を語り始める。これもまた聖霊による奇跡でした。
聖霊に満たされると、神の御業を外国語で語り始める。宣教師時代、私はこの箇所を読む度に羨ましく思ったものです。言葉で苦労しましたから。 約三年に及んだ、語学研修。まるで語学の留学生になったかのようなしんどい日々でした。日曜には教会に行くのですが、教会に行くと疲れてしまう。 説教も祈りも、何も分からぬまま、修行のように一時間ほどただ座っているだけ。 そんな時に使徒2章を読むと、「いいなあ」と。 ある日突然、流暢に中国語で説教できるようにならないだろうかと願う中、病気になって、途中、約三か月の帰国療養がありました。
諸教会の祈りに支えられ、何とか台湾に復帰した後も、しばらくは足元のふらつくような歩みが続きました。 そんな心もとない日々を乗り越え、復帰して九か月後に初めて、中国語での礼拝説教の機会が訪れました。語学研修三年目の終わり、2006年12月31日の礼拝です。説教の準備には、一か月半かかりました。 ようやく書き終えた説教原稿を握りしめて、緊張の中、その日、初めて講壇に立ったのです。
あの日、私は不思議な経験をしました。講壇で語り出すと、語っているのが自分ではないかのような、不思議な感覚があったのです。 誰かに背中を押されているかのようでした。 「聖霊が働いている」と。「自分の語学力でこんなに語れるはずがない」。 あの日私は、説教壇の上で、聖霊の奇跡を経験したのです。自分でなく、聖霊が語っている、と。
日本で、そして台湾で、私はこれまで約三十年にわたって説教をしてきました。 実は、聖霊の奇跡は今も続いているのです。三十年を振り返り、今だからこそ分かることがあります。日本語、中国語に関係なく、実は毎回の説教が聖霊の奇跡であったのです。
私は、正直に思う。 人は自分の力で神の言葉を語ることはできない。 今日も聖霊の働きによって語ることができている。 説教者は誰もが、実は聖霊によって語っている。 私は、「もう重荷をおろしてよい」と言われるその日まで語り続けていくつもりです。
聖霊によって語る。実は、これは説教者だけの体験ではないのです。皆さん一人一人が誰かに福音を、御言葉を分かち合う時にも聖霊は働いています。聖霊は、教会全体を、そして、ひとりひとりを満たして、神の御業を語らせていく。そのようにして、聖霊が今も働いていることを豊かに知り続けたい。誰かにこの福音を伝えたい。伝える度に、私たちは聖霊をより深く知っていく。 このことを教えられた、今朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。
1章8節(読む)
父なる神さま、約束の聖霊を注いでくださり感謝します。どうかこの新船橋の地にあまねく、聖霊による私たちの証しを響かせてください。キリストのからだである新船橋キリスト教会を、聖霊が豊かに満たして、神の奇跡を現してくださいますように。 イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
コメント
コメントを投稿