「約束の子の誕生」
創世記21章1~21
21章の1節から8節までは、喜びと笑いに満ちています。とうとう、アブラハムとサラとの間に子どもが生まれたからです。この子の誕生は、まさに神さまによる奇跡でした。聖書はそのことを強調しています。1節「主は約束したとおりに」、「主は告げたとおりに」、2節「神がアブラハムに告げたその時期に」。また、それが神の御力の表れであることを示すために、神さまが「来年の今ごろ」と告げたまさにその時期に生まれたこと。また、その時アブラハムは100歳だったこと(サラも90歳だったこと、)。そして、生まれた子が、主が告げたとおりに、男の子だったことを語っています。
そしてもう一つ。聖書は、このイサクの誕生は、アブラハムのためだけではない、サラのためであったことも示しています。1節では「(主は)サラのために行われた」、6節では、「神は私(サラ)に笑いをくださいました」とあるように、神さまは、サラを覚え、顧みてくださったのです。
生まれてきた子は、イサクと名付けられました。「彼は笑う」という意味です。日本で、この「笑う」という字を使ってイサクと読ませる名前を持っている男の子はいるか調べてみました。ありました!笑いを作ると書いて、「笑作(いさく)」と読ませています。
「笑い」とは言ってもいろんな種類の笑いがあります。17章ではアブラハムが笑い、18章ではサラが笑っています。どちらも不信仰から来る笑いでした。神さまが、アブラハムとサラの間に子どもを授けると約束しているのに、そんなことあるはずがない…と言って彼らは笑ったのです。けれども今回の笑いは、喜びと賛美の笑いでした! よくクリスチャンは、3K(固い、厳しい、暗い)と言われますが、私たちクリスチャンこそ、この喜びの笑いがふさわしいのではないかと思います。私たちの教会の役員会は、よく笑います。がはは、がははと笑いながら、1時間半ぐらいが、あっという間に過ぎていきます。神さまはご真実なお方で、私たちの教会の必要をご存じで、よい計画を持っておられる、それを信じているから笑いが絶えないのだと思います。アブラハムは祝福の基と言われましたが、笑いの基でもありました。私たちクリスチャンも、家族に笑いを届け、学校や職場に笑いを届けるものでありたいですし、私たちの教会も、地域に笑いと希望を届ける、そんな明るい教会でありたいなと思わされます。
さて、昨年は、二人の孫が生まれましたが、長男のところは、出産のときに、母親が出血多量で生死をさまよい、4リットルもの輸血をして、九死に一生を得たことでした。また、長女のところは、母子とも元気で出産したと思いきや、赤ちゃんの方に問題が見つかり、NICUで、2週間も入院することになりました。医学は進歩しているとはいえ、お産は命がけなのだな~と思ったことでした。けれども、当時は今とは比べ物にならないぐらい、乳児の死亡率が高い時代です。当時の乳離れは、3歳ぐらいだったようですが、ここまで来れば、何か事故でもない限り、健康に大人になれる、そんな期待が持てたのが、この時期ではないかと思うのです。ですから、「乳離れの日」は盛大な宴会が催されました。
ところが、この喜びの日に、一つの事件が起こりました。9節「サラは、エジプトの女ハガルが、イサクをからかっているのを見た」とあります。この「からかっている」という言葉は、原語を見ると、「笑い」の強意形だそうです。またも「笑い」です。当時、ハガルの子イシュマエルは13歳か14歳ぐらいだったと思われますが、彼が、3歳のイサクをからかっていたのです。どの程度のものかはわかりません。遊びの延長のようなものなのか、いじめと言えるものなのか。けれどもサラは、ここで逆上します。おそらく、「何をしているの!?」と間に割って入り、自分が産んだ息子、イサクを抱きかかえて、その場を離れたと思うのです。そして、そのままアブラハムのところに行きました。そして訴えたのです。10節「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから!」 おそらく、ずっと言いたかったことだと思うのですが、きっかけがなかったのです。当時は、奴隷の子どもでも、家長の子どもであるならば、長子が跡を継ぐというのが慣例でした。もし、その子に継がせたくないのであれば、その奴隷を解放し、自由を与え、家から出すしか方法がなかったのです。つまり、サラは、跡目争いを恐れていたのです。イサクが約束の子で、アブラハムの祝福を受け継ぐのだと、頭では理解していたけれど、実際、長子のイシュマエルが、イサクをからかっているのを見たら、この後、この子は、自分の権利を主張し、反乱を起こすかもしれない。そうだ、きっとそうなる。そしてイサクが殺されでもしたら…と、サラの想像は膨らみます。そして思うのです。自分はもう年だし、いつまでもイサクを守ってあげることはできない。今のうちに何とかしなければ。イシュマエルを追い出さなければと。
アブラハムは非常に苦しみました。サラの子ではないとは言え、自分の遺伝子を持ち、自分に似ている我が子です。十何年も一人息子としてかわいがってきたのです。15年ぐらい前、同じようにサラに「私の女奴隷ハガルで子をもうけるように」と詰め寄られた、あの時のことを思い出したことでしょう。あの時おまえの提案で、ハガルによって子をもうけたのに、自分が子を産んだ途端にお払い箱なんて、勝手すぎないか! サラを責めたい気持ちもあったことでしょう。
そんな時に、神はアブラハムに仰せられました。12節「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」箴言の19章21節には、こんなみことばがあります。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」サラの思い、アブラハムの思い、人の思いは様々です。けれども、そんな人の思惑を越えて、主のご計画が実現する。だから主は言われます。「今は、サラの言うことを聞き入れよ。あなたの思いもわかっている。私はイシュマエルも祝福するよ。彼も一つの国民とするよ。だから安心して今は、ハガルとその子を家から出しなさい。」
こうして、アブラハムは、神さまの守りとイシュマエルの祝福を信じて、親子を送り出す決心をします。翌朝早く、まだサラもイサクも、家の者たちも起きる前でしょうか。アブラハムは、パンと水の革袋をハガルに持たせて、恐らく、二人の祝福を祈って、送り出しました。イシュマエルは何度も振り返ったでしょうか。アブラハムの目には涙があふれたことでしょう。こうして、父アブラハムは、神さまの守りを信じて、二人を主にゆだねたのでした。
さて、ハガルとイシュマエルは、当てのない放浪の旅に出ました。そして彼らは、ベエルシェバの荒野をさ迷いました。ほどなく、アブラハムが持たせてくれたパンも革袋の水も底を尽きました。イシュマエルは弱って、歩くこともできなくなりました。そこで、ハガルはその子を一本の灌木の下に放り出しました。灌木というのは、背丈の低い木のことで、つつじやアジサイなどのような木だということです。見渡す限り荒野で、高い木の下の木陰なんてものはなかったのでしょう。せめてと、低い灌木の枝を払いのけて、その下に息子を横たわらせ、「ここで休みなさい。ちょっと休むと元気になるから」と声をかけ、自分は、矢で届くぐらい、つまり目が届くぐらいのところに座りました。息子の前では気丈にしていたけれど、離れたところで息子を見ていると涙がこみ上げてきます。そして彼女は、声をあげて泣いたとあります。
けれども「イシュマエル」の名前の意味は何でしたか?「主は聞かれる」でした。17節「神は少年の声を聞かれ」、天の使いを通してハガルに語りかけるのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」そして、「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。」
恐れや不安、失望の中にあると、本来そこにある主の祝福が見えなくなってしまうのかもしれません。ハガルは、すぐそこにあった井戸にも気づかなかったのです。私たちも同じです。私たちは神に愛されている神さまの子ども。特別の守りと祝福が与えられている。けれども、私たちの生活を襲う恐れや不安、失望の中で、主の祝福が見えなくなる時があります。けれども、主の恵みと憐れみは尽きることがありません。(哀歌3:22~23)目を上げて、汲めども尽きせぬ主の恵みの井戸を見つけたいと思います。
20-21節「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。彼はパランの荒野に住んだ。彼の母は、エジプトの地から彼のために妻を迎えた。」神さまの約束どおり、イシュマエルも一つの国民の祖先となり、後に12部族の族長となります。そして、25章、28章を見ていくと、なんとイサクとの関係は、非常に友好的です。彼らには敵対関係にはありません。そして、イサクの息子エサウは、イシュマエルの娘と結婚しているのです。そして、父アブラハムが召されたときには、イサクとイシュマエルが一緒に父を葬っています。どうなることかと思いましたが、何となく平和な行く末のようでほっとします。
今日の聖書箇所のポイントは、やはり先ほど引用した箴言19章21節のみことばだと思います。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。人の不信仰、思惑、罪さえも超えて、主のご計画が実現していくのです。なぜでしょうか。私たちは、神の民、神さまの子どもだからです。主のものだからです。
永原郁子さんという方がおられます。今、神戸で「小さな命のドア」という、授かったいのちとそのいのちを育てることができなくて困惑しているお母さんを助ける働きをしています。永原さんは、助産師で、かつては、産婦人科医の夫と結婚し、二人の女の子がいました。ところが、夫は外に他の女性がいて、家庭は破壊され、永原さんは傷つき、心病み、ある日思わず家から一人飛び出します。当てもなく一人で歩いているときに、気が付くと教会の前に立っていたというのです。牧師が気づき、教会の中に招き入れます。そして事情を察した牧師は、根掘り葉掘り聞くこともなく、黙って永原さんを母子室に泊めてあげたのです。一週間もそこにいたでしょうか。彼女は何もしないで心を休めました。すると、讃美歌が聞こえてきました。「飼い主わが主よ」という賛美歌です。「我らは主のもの」というくだりで、永原さんは、はっとさせられたのだそうです。そして思いました。そうだ、「私は神さまのもの。だから大丈夫なんだ。」そして、彼女は「こんなことをしていてはいけない。動き出さなくては…」と心を奮い立たせて、家に戻り、子どもを引き取り、助産師として生計をたてなおしたのでした。もちろん、イエスさまを信じ、その後は忠実なクリスチャンになりました。そして今は、予期せぬ妊娠をして困っているお母さんとあかちゃんを助けるために、日夜奔走しています。
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」 のです。お祈りしましょう。
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