「いのちがけで逃げなさい!」
創世記19章
長い聖書朗読になりました。前半のソドムが滅ぼされるところと、後半のロトと娘たちの近親相姦の記事を分けて扱おうとも思いましたが、「いのち」と「滅び」について、神さまの御思いと、人間の思いの落差というカテゴリーでくくれると思い、一気に読むことにしました。
ソドムの町には、み使い二人だけで来たようです。アブラハムが天幕を張っていたヘブロンからソドムまでは、約60キロ。アブラハムのところには、「日の暑いころ」(18:1)に訪れていますから、その後ゆっくりアブラハムのおもてなしを受けたとしたら、夕暮れにソドムに着いたというのはあり得ないのですが、そこはみ使いですから、超自然現象だと理解したいと思います。
み使いたちが到着すると、ロトがソドムの門のところに座っていました。当時は、長老格の人たちが、町の広場や門のところに座り、民を裁いていたと言います。また後に、ソドムの人が、ロトを批判して「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか!」と批判していますので、ロトは、ソドムの町でも知恵と人格において一目おかれていたことをうかがい知ることができます。
またロトは、アブラハムといっしょにいたころの「神の民」として生き方や文化、習慣みたいなものも残っていました。そしてもちろん、堕落したソドムにあっても、創造主なる唯一の神を信じていました。旅人を見ると、アブラハムと同様、立ち上がって彼らを迎え、丁寧にお辞儀をして、「ご主人がた、どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。」と申し出ています。み使いたちが、ソドムを訪れた目的は、神さまのもとに届いた、虐げられている者たちの叫びが本当かどうか見極めるということでしたから、「いや、私たちは広場に泊まろう」と答えたのですが、この町の治安の悪さを知っているからでしょうか、ロトは、「そんなこと言わないでぜひ!」としきりに勧めたので、み使いたちも折れて、ロトの家に泊まることにしました。
しかしその夜、事件は起こりました。ロトの家の周りに、町中の男たちが、若い者から年寄りまで集まって来きたのです。そしてロトの家を取り囲んで叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。彼らをよく知りたいのだ!」この「知りたい」というのは、何も「お名前は?」「趣味は何ですか?」とかそんなことを知りたいわけではありません。これは性的な関係を持つときに使う「知る」という言葉です。つまり、彼らを性的に凌辱したい、辱めたい、という意味です。ソドムの例を挙げて、LGBTについて論じることがありますが、これはもう同性愛とかゲイとか、性的指向の問題ではなく、性暴力、集団レイプの問題です。
そしてこの時のロトの対応も信じられません。一人戸口の前に出て、後ろ手で戸を閉め、殺気立っている男たちに言うのです。8節「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」旅人を守ろうとするのは良いことです。けれどもそのために娘たちを差し出すとは、どういうことでしょう。当時の女性の地位は低かったのですが、客人の代わりになぶりものにされるために、父親に差し出されるほどなのかと、唖然とします。これはあんまりです。こうした娘たちへの扱いは、後にロトのところに返ってきました。ロトはこの章の後半で、娘たちが自分の子を残すために、娘たちに利用されたのです。
ロトの対応は、押し迫る人々をなだめるどころか、火に油を注ぎました。人々は、血走った眼をして、ロトに迫って来て言うのです。「お前を、あいつらよりもひどい目に合わせてやろう!」そして、人々がロトの体に激しく迫り、戸を破ろうとしたとき、み使いたちが手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて、バタンと戸を閉めました。その瞬間、閃光が走り、外にいた人々はみな目つぶしをくらいました。それでも人々は、戸口を見つけようとしばらくはうろついていましたが、やがて、力尽き、一人、また一人と去って行ったのでした。
み使いたちはロトに言いました。12-13節「ほかにだれか、ここに身内の者がいますか。あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。私たちは、この場所を滅ぼそうとしています。彼らの叫びが【主】の前に大きいので、【主】はこの町を滅ぼそうと、私たちを遣わされたのです。」み使いたちは、自分たちがソドムに来た目的を話しました。ソドムの町が本当に滅ぼされなければいけないほど悪いのかどうかを実際この目で確かめに来たのだけれど、この事件で一目瞭然でした。しかし、主のみこころは、何としても一人でも多くを救いたいということです。ですから、ロトとロトの妻、二人の娘だけではなく、もし他に身内の者がいるならば、救いたいから、みな連れ出しなさいと言われたのです。ロトには息子はおらず、いたのは娘たちの婚約者だけでした。そこで、ロトは彼らのところに行って、主がこの町を滅ぼそうとしておられると告げました。けれども、彼らは全く信じません。「悪い冗談のように思った」とあります。日ごろから自分が信仰している創造主なる神のことを話していなかったのでしょう。説得むなしく、ロトは一人で家に帰ってきます。もう夜が明けようとしていました。み使いは、ロトをせき立てて言います。15節「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」 ところが、ロトはためらっていました。どいうことでしょう。要するに彼は、「滅ぶ」ということの意味が分かっていなかったとしか思えません。あるいは、み使いの言うことを現実に起こることとして実感が持てなかったのかもしれません。とにかく、二人のみ使いは、いつまでもぐずぐずしているロトにしびれを切らし、ロトとロトの妻、二人の娘の手をつかんで、引きずるようにして、町の外に連れ出したのです。
町の外に連れ出すと、一人のみ使いが言います。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」ところが、ロトはまた言うのです。「無理です!あの小さな町じゃダメですか」と。私がみ使いなら言うでしょう。「何を言っているんだ。事の重大さが全く分かっていない!もういい、勝手にしろ!滅びても知らん!」と。ところが、この時もみ使いは譲るのです。21-22節「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを受け入れ、あなたの言うあの町を滅ぼさない。急いであそこへ逃れなさい。あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできないから。」けれども、30節では、結局この小さな町ツォアルから山に移動しています。この小さな町で何が起こったのかはわかりませんが、「この町に住むのを恐れたから」だとあります。じゃあ、なぜはじめから、み使いの言うことに従わなかったのかと思います。
夜が明けるころ、ロトたちは小さな町ツォアルに着きました。するとものすごい爆音と共に、硫黄と火が天から下り、ソドムとゴモラの町は、一瞬にして滅ぼし尽くされてしまいました。何か気配を感じたからでしょうか。滅ぼされる様子を見ようと思ったからでしょうか。ロトの妻は、町に着く寸前に後ろを振り返りました。そして塩の柱になってしまったのです。17節でみ使いは、「いのちがけで逃げなさい。振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってならない。そうでないと滅ぼされてしまうから」と言い、22節では、「急いであそこに逃れなさい。あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできないから」と言いました。ですからロトの妻は、爆音で振り向いたわけではない。まだ火が下る前に、町を見収めようと思ったのか、町に残してきた家や家財が気になったのか、滅ぼされる直前の町を振り返って見たのです。そうです、彼女は置いて来た財産の方に魅かれ、いのちよりもそちらを選んだのです。聖書には、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ8:36)とあります。いのちを救うことに集中しなければならなかったということです。
アブラハムは、ソドムの町のことが気になっていたのでしょう。朝、夜明けとともに起き上がり、10人の正しい人がいたら町全体を救ってくれますか?と主にしつこく食い下がったあの丘に行きます。そして、低地を見下ろすと、なんと、まるでかまどの煙のように、その地から煙が立ち上っていました。「だめだったか…。正しい人が10人もいなかったとは。」それでも、あわれみ深い主は、きっとロト家族は救い出してくれたと、彼は信じたことでしょう。実際、29節にあるように、神はアブラハムを覚えておられ、ロトと家族をその滅びの中から逃れるようにされたのでした。
しかし、せっかく滅びから救い出されたロトと娘たちはどうなったでしょう。彼らは、結局は町には住めず、山へ行き、山に住みます。そこで、目も当てられないような出来事が起こります。客人を守るために父親によって暴漢たちに差し出されそうになった娘たちは、もう子孫を残すことによってしか、自分のいのちの価値を見出せなかったのかもしれません。そして、娘たちは、父親に酒を飲ませ、泥酔させ、父親によって子をもうけるという、恐ろしい近親相姦の罪を犯したのです。
ここに、神さまとロトたちとの温度差があります。「滅び」と「いのち」の重さ、価値、いのちを救うということに関しての温度差です。神さまは、とにかくロトたちのいのちを救いたかったのです。本当は、ロトたちを通して、堕落した町々のすべての人々を救いたいとさえ思われていました。ですから、ロトを家の中に引き入れ戸を閉め、ロトのいのちを守りました。娘たちを暴漢たちに差し出そうとするロトを阻止し、それをさせませんでした。娘たちのいいなずけたちにもチャンスを与え、救おうとされました。そして、いつまでもぐずぐずとしているロトたちの手をつかんで、引っ張って逃げたのです。とにかく、逃げろと、いのちがけで逃げろと、何度も繰り返します。振り返るな、いっしょに滅びてしまうからと、必死で逃げろ、いのちを救えと、懇願しているようでさえあります。
今の時代ほど、いのちが軽んじられている時代はないでしょう。日本の若者の4人に一人は、死にたいと思ったことがあると統計に出ています。自分は生きている価値がない、生きている意味がない、かえって人の迷惑になっている、そんなつぶやきがあふれています。いのちが軽んじられている時代です。
けれども神さまは、私たちに「生きよ!」とおっしゃっています。私たちを創られたお方が生きよと言われるのです。私たちは造り主に似せて創られました。神さまのイメージに創られたのです。私たちに生きる価値を与えたのは神さまなのです。失敗作なんて、無駄ないのちなんて一つもないのです。だから私たちのいのちは価値があります。そして、私たちを創られた神は、私たち一人ひとりを愛しています。文字通り、命がけで愛しています。自分が愛されていることも知らないで、高価で尊いことも知らないで、滅びに向かう私たちのために、神は、愛するひとり子イエスさまを与えてくださったのです。そしてイエスさまの十字架の贖いによって、私たちを滅びから救い出してくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
この地上で私たちが与えられているいのちでさえ、神さまはこれほど尊いと思ってくださっていますが、神さまが、御子を犠牲にしてまで与えてくださった新しいいのち、永遠のいのちは、この肉体のいのちに増して価値あるものです。よみがえったイエスさまが、聖霊を通して、私たちの心に住む、そのようないのちです。永遠に滅びることがないいのち、けっしてさばかれることのないいのちです。このいのちの価値を知っていただきたい。そして、滅びではなく、いのちを選んでほしい、心からそう願います。祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたは、私たちを愛するがゆえに、誰一人滅んでほしくないと思っておられます。そして、私たちが一人も滅びることなく、永遠の命を得るために御子イエスさまを送ってくださいました。いのちをもって、いのちを買い戻してくださったのです。ですから私たちは滅んではならないのです。命がけで逃げなければなりません。しかし、なんと多くの人が滅びに向かっていることでしょう。主よ。一人でも多くの人をお救いください。私たちの愛するあの人、この人に、いのちへの道を宣べ伝えることができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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