使徒の働き 14:11~18
14:11 群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
最近の若い人は、ちょっとすごいことが起こったり、できたりすると、すぐ「神~!」と言いますが、リステラの人々は、この足の不自由な人が癒されるという奇蹟を見て、本当にパウロとバルナバを神様(現人神?)だと思ったようです。これはユダヤ人の会堂で話し、会堂の中で奇蹟を行ったとしたら起こりえない反応です。一神教の背景では、人が不思議なことや奇蹟をやって見せても、だからと言ってその人が神だとは思わないからです。その点、リステラの人々は日本のような多神教の国と共通するものがあると言えるでしょう。
ところが、この時点では、パウロもバルナバも彼らが何を騒いでいるのか、何を言っているのか、全く分からなかったようです。なぜなら、彼らはリカオニア語が分からなかったからです。この地域は周辺諸国と同様、ローマの支配下にあり、公用語はギリシャ語でしたから、人々はパウロたちのしゃべっているギリシャ語は理解できました。けれども彼らが日常的に使っていた言葉はリカオニア語だったのです。この状況、私はよくわかります。というのは、私たちは長く台湾で生活していましたが、私たちが現地で学んだ言葉は、中国語(北京語)でした。台湾の公用語は中国語だからです。(ちなみに日本占領下の50年間は、日本語が公用語でした。)ところが、台湾には台湾語という言葉があって、仲間内の会話は台湾語を使うのです。特にご年配の方とコミュニケーションをとるためには台湾語の方がいいですし、商売をしようと思ったら、台湾語ができないと話になりません。というわけで、台湾語のできない私たちは、よく疎外感(アウェー感)を感じたものです。説明が長くなりましたが、とにかく、パウロたちはこのリカオニア語が理解できませんでした。彼らは、今まではユダヤ人の会堂で、知った宗教、文化、言語の中で伝道してきましたが、この期に及んで本格的な宣教師としての活動が始まったともいえるでしょう。そして、この出来事を通して、外国での宣教の難しさを体験的に知ったのではないでしょうか。
「ゼウス」というのは、ギリシャの神々の「主神」、「ヘルメス」というのは、そのゼウスの息子で、「雄弁の神」と言われていました。ですから彼らは、説教をしていたパウロを「ヘルメス」と呼び、もう一人は「ゼウス」だろうと理解したのでした。
実はこのリカオニア地方に伝わる神話があります。二人の神々が旅人の姿で村にやって来ました。そして一軒一軒戸を叩いては、一夜の宿をお願いするのですが、どの家も断るのでした。最後に村の外れにあった貧乏な老夫婦の家に行くと、彼らはこの見知らぬ旅人を家に入れ、喜んでもてなし、泊めてあげたのです。その後、この神々は不親切なその村を洪水で滅ぼすのですが、この老夫妻だけは、高い山に避難させ、難を逃れさせたという話です。
おそらくリステラの人々は、この神話を連想したのでしょう。ですから、この二人は神々の化身に違いないと思い込み、粗相をすると災い招くことになるかもしれないと恐れ、雄牛数頭と花輪を持って来て、彼らに供えたというわけです。笑い話のような話ですが、私たち日本人にはなじみのある展開です。日本の神社や土地の神々には、少なからずこのようなおとぎ話のような逸話があって、人々は、時代が進んでも、変わらずに、神々の祟りを恐れて、大事に祭っているではありませんか。
けれども、人間が考え出した神さまというのは、たいていは人間の思い、考えや願望の投影です。ですから、そのような神々は人間以上にはなり得ないのです。ギリシャの神々も非常に人間臭く、時に些細なことで起こったり、神さま同士争ったり、人間に恋をしたり、嫉妬したりするのです。そしてそれらの神々は、人間が考え出した神ですから、敬われなければ祟ったり、敬われればご利益を与えたりする神なのです。
言葉のわからなかったパウロたちも、ゼウス神殿の祭司や町の人々が、彼らにいけにえを献げようとしていると聞いて、やっと事態を呑み込みました。そして、なんてことをするのだと衣を裂いたのです。衣を裂くというのは、激しい抗議や反対の意思表示だと言われています。そしてそのビリビリに引き裂かれた服を着たまま群集の中に飛び出して行って叫びました。「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です!」 まことの神を知らないとはこう言うことなのかとパウロは思い知ったことでしょう。そして訴えます。「このような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返りなさい!」「空しいこと」というのは、他の訳では「偶像」となっています。また「愚かしい事ども」という訳もあります。つまり、偶像崇拝や迷信、占いや魔術、縁起やゲン担ぎ、そういったものから離れなさいと言っているのです。そして、人間が考え出した、祟ったり、ご利益を与えたりする薄っぺらな神々ではなく、天地万物を造られた生ける神に立ち返るようにと訴えているのです。人間が考え出した神々にはいのちはありません。人格もありません。あったとしてもそれは人間が考え出したものです。私たちの信じる神は、「生ける神」です。人格を持たれる神です。人と人格と人格の関係を持たれる神なのです。
14:16 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
神さまは、人を愛する対象として造られたのに、人は神を離れて、自分勝手に生きることを選びました。けれども、神は力づくで人を自分の思い通りにしようとはされなかったのです。これが「自由意思」と呼ばれるものです。神は人に自由意思を与えました。神さまは、子どもが強権的な父親に怯え、顔色を見ながら従うような、そんな関係を人と持ちたいとは思われませんでした。放蕩息子が、家を出て行くと言えば、お金を持たせて送り出す神なのです。力づくで家に留まらせる父親ではありません。家を出れば苦労し、傷つき、ボロボロになると知っていても、本人が望めば送り出す、そんな父親なのです。神はそのようにして、子どもたちが悔い改めて、自発的に父のもとに帰って来られるように、見えないところで彼らを守り、あらゆることを通して働きかけておられるのです。
神は、私たちにご自分を現わしておられます。何を通してですか?天から雨と実りの季節、また食べ物と喜びで心を満たすことを通してです。この「証しする」という言葉は、複合動詞で、「善いこと」と「行う」に分けることができることばだそうです。神は善いことを行うことを通して、ずっと私たちに働きかけてこられた、そうしないではいられなかったということです。これを神学用語では「一般恩恵」あるいは、「一般啓示」と言います。神がすべての人に、信者にも未信者にも、悪人にも善人にも、万人に注がれている恵みのことです。太陽や空気、水、森や草花なの自然、また文化や芸術、音楽などがそれにあたります。一般恩恵なしには、世界は存続し得ません。人間が意識していなくても、感謝していなくても、神は大きな御手をもって、この地球を支え、宇宙を秩序をもって治めておられるのです。そして人間が、神からお預かりしているこの世界を、自分たちの貪欲のためにどんなに痛めつけ、破壊しても、今もこうして地球を保っていてくださるのです。それは神の恵みですです。神はこのようにして、私たちに絶えず、み恵みを注ぎ、ラブコールを送っておられるのです。
私たちは大丈夫でしょうか。神はこうあってほしい、私の好みの神はこういう神だ、こういう神は私の感性に合うとか合わないとか、勝手に神をイメージし、自分の願望を神に投影していないでしょうか。それは結局は、自分を神にすることです。もっと言うならば、それは偶像礼拝です。「空しいこと」です。聖書は私たちに「空しいことから離れなさい」と言っています。まことの神は、人間が創り出した神ではありません、人間を創った神です。そして神は人々にご自身を啓示されます。私たちの信じる神はご自身を啓示される神なのです。まずは被造物を通して、御自身が「善いお方」であることを証しされます。そして、みことばを通して、聖霊を通して、御自身のご性質を、またみこころを、愛を、余すところなく示されます。そして、究極の啓示、イエス・キリストを通して、御自身を完全に現わされたのです。今朝私たちは、空しいことから離れて、天と地と海とを創造された主を見上げたいと思います。
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