「御霊に導かれて荒野に」~神の言葉を握って~(マタイ 4:1-2)
この箇所は、この後に続く「人は … 神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を中心に語るべき所です。しかし、本日は聖霊が降ったことを記念する聖霊降臨日です。少し目線を変えて、御霊に導かれて荒野を歩んだ主イエスの姿から学びたいと思います。
1. 試み? 誘惑?
1-2節:「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。」
いろいろ思い巡らす中での私の結論はこうです。実はこれが、この世で生きる信仰者の現実なのだと。イエスさまがそうであったように、神の子とされた私たちもまた、説明しようのない荒野の苦難の中に入っていくことがあるのです。
皆さんはイスラエルの王ダビデが晩年に、人口調査をして罪を犯した事件を御存じでしょうか。イスラエルの民が、神の民ではなく、まるで自分の所有であるかのように数えたのです。あれは王座に長くいたダビデの高ぶりを示す事件でした。で、それを書き留める聖書の二つの箇所は、全く違う書き方をしていて私たちを悩ませる。第二サムエル24章によれば「主の怒りがダビデをそそのかし」罪を犯させた、と言い、第一歴代誌21章は、サタンがダビデをそそのかした、と言う。いったい、どちらが本当かという話です。でも、どちらも実際です。そして、私たち人間には見分けがつかない。それが神から来た信仰の訓練か、それとも私たちに罪を犯させようとのサタンの誘惑なのか。私たちには見分けがつかない。
イエスさまは、祈りの教科書である主の祈りの中で、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」という祈りを教えました。裏を返せば、私たちの周囲にはいつも悪しき力が働いていて、私たちに罪を犯させようとしているのです。しかも、弱い私たち人間ですので、私たちもいつ罪を犯すか分からない。そうした危うさの中を日々私たちは生きています。
結局、私が言いたいのはこのことです。信仰者であっても、日々歩む道のりは厳しい。人生はさながら荒野のようで、信仰者に罪を犯させようとのサタンの罠がしかけられている。そして、それは時に、神による信仰の訓練なのかもしれない。とにかく、私たちは見分けることができません。そして、いずれにしろイエスは、荒野の道を進んで行かれたのです。御霊に導かれながら。
主イエスは、それとは逆のことを教えています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。そしてイエスご自身、御霊に導かれて向かったのは、厳しい荒野の現実でした。
信仰者は荒野の厳しい現実を生きている。でも、同時に安心して欲しいのです。希望はあるのです。私たちの目指すべき見本として前を進んだ主の姿を見つめるなら、荒野にも希望があることに気づく。
ここで4章1節、御霊に導かれて荒野を歩んだイエスさまの姿には、実は、別の三つのストーリーが重ねて意識されています。それぞれに生きた時代は違いますが、かつて失敗、挫折した人々のストーリーを、この荒野のイエスさまに重ねて聖書を読むと、私たちは目が開かれて、イエスさまが世に来られた意味が、よく分かる。そして、なぜ私たちに聖霊が与えられたのかも分かります。イエスさまの背後には三つのストーリーがある。
創世記3章でアダムは、蛇に姿を変えた悪魔に誘惑され、禁断の果実を食べてしまいました。神の言葉に従いきれなかったのです。でも、その直後、3章の15節ですぐに「女の子孫が蛇の頭を砕く」と、遠い将来の勝利が預言されます。そういう聖書の大きなストーリーを思い出すと、きっと響くものがあるはず。何しろマタイ4章ではマリア、つまり女の子孫として生まれたイエスが、悪魔と対決していくのですから。まるでエデンの仇を、荒野で打つかのような、そんな響き合う重なりがここにあります。これが重ねられた第一のストーリーです。
荒野の誘惑の背後にある第二のストーリー。それは第一のものより鮮明です。出エジプトの後、神に導かれて荒野を旅したイスラエルのストーリーです。彼らも荒野で数々の試みを受けました。そして指導者モーセは四十日四十夜の断食をシナイ山で経験したのです。
実は、このマタイ4章で悪魔と対峙する中、イエスは三つの旧約の言葉を引用しますが、三回とも申命記、荒野での教訓をモーセがイスラエルに語る場面からの引用です。
あのシナイの荒野で、イスラエルは神の言葉に従い通せたのでしたか? 皆さんご存じでしょう。従うどころか、神の言葉に逆らい、多くの民が荒野で倒れたのです。あの失敗を、まるで挽回するかのように、主は荒野で四十日四十夜の断食と祈り、そして試みに耐えた。このようにイスラエルの荒野のストーリーが、鮮明にイエスさまの背後に見えてくるのです。
さて、荒野を行く主の背後に見える第三のストーリー。それはアダムよりも、イスラエルよりもさらに近い。それは、今を生きる私たち自身です。イエスさまは神の子キリストですが、人として歩んだその背中に、私たちは、自分自身を重ねて読むことができます。
この荒野の場面は、イエスが神の子である以上に、人として荒野に身を置いたことを強調します。例えばこの誘惑の前に主は、ヨルダン川で洗礼を受けました。それは罪の悔い改めの洗礼で、本来、イエスには全く必要のないもの。しかし、そのイエスさまが、敢えて罪人の列に交じって洗礼を受けようとしたのです。気づいた洗礼者ヨハネが、「私こそ、あなたから洗礼を受ける必要がある」と言ってとどめようとします。でも、それに対するイエスさまの答えがいいのです。本当にいい。「今はそうさせてもらいたい」。ヨハネの言うことは尤もだけれど、今はそうさせてもらいたい。御霊によりマリアを通して生まれ、人の子としてなすべき務めがあるから、今はそうさせて欲しい。「神の子」である以上に今は「人の子」。人として、本来あるべき人の生き方を示したい。だから「今はそうさせてもらいたい」と、まるで私たちと同じ、一人の罪人のように悔い改めの洗礼をお受けになったイエスさまでした。
さらに、4章2節では、断食の後、空腹を覚えるイエスの姿も胸に響くはずです。「ああ、私と同じだ」と。
私は、お腹が空くと手足にしびれがくるのです。他の人は違うそうですね。でも私はしびれる。だから思わず想像するのです。イエスさまも、手足にしびれが来たんだろうか。とにかくイエスさまはスーパーマンではなかった。断食すれば空腹を覚え、疲労していく。私と同じだなと。洗礼の後、主を待っていたのは、バラ色の人生ではなかった。そこには荒野の試練、苦しみがあった。そして、それは私たち信仰者の誰もが通る道なのです。その道の途上で、私たちは躓き、失敗し、罪に負けて挫折したこともあったと思う。
しかし、そんな私たちの弱さを思いながら、「わたしから学びなさい」と荒野へ踏み出し、試みに耐えていかれた。そんなイエスの姿を、この聖霊降臨の日に心に留めたいと思うのです。私たちと同じく、イエスさまもまた、御霊に導かれながら荒野の厳しさに身をさらしていった。
そして、後に続く私たちが、荒野の人生を歩いていけるようにと、聖霊を約束してくださったのもまた、イエスさまの心遣いでした。ヨハネ福音書14章16節「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は、真理の御霊です。」
神の子どもとされた私たちが、この人生の荒野を歩き切れるよう、先に荒野を通った主は、私たちへの配慮として、助け主の聖霊を約束した。
終わりに宗教改革期の信仰問答の傑作、ハイデルベルク信仰問答の問53を読みながら、聖霊が与えられたことの恵みを覚えたいと思います。アウトラインに引用があります。説教者が読みますので、皆さんは黙読をもって、聖霊の恵みを心に刻んでください。
問53 「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしにも与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。
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