Ⅰヨハネの手紙5:1~5
まずすべては「神から生まれる」から始まります。この「生まれた」という動詞の時制は完了形で、過去に起こったことが今も続いているという意味で「現在の状態」を表します。つまり、私たちは神から生まれて、今も神の子どもということです。そしてこの動詞は、神さまが主語の時は能動態、人間が主語の時は受動態です。つまり生む主体は神さまということです。私たちは赤ちゃんの側なので、生まれることについては、何もできないということです。私も4人子どもの母親ですが、赤ちゃんが自分の意思と努力で生まれてきた子は一人もいません。赤ちゃんはただ受け身で生まれるのです。
神さまは私たちを選んで、この救いに至る道に導いてくださり、さあこの道に乗っかりなさいと促してくださいました。例えば、飛行機に乗る場合、私たちには何もすることがありません。ただ飛行機に乗れば、飛行機が私たちを目的地に連れて行ってくれるからです。もし私たちにできることがあるとすると、飛行機を信頼してそこに乗ることです。この信頼が「信じる」「信仰」ということです。先、先週の祈祷会で「救いと信仰の関係」について学びました。「救いを受けるのは、水に溺れて、誰かに助けてもらわないとどうにもならない状況にあるのと似ています。もはや自分では何もできず、泳ぐこともできないので、溺れるほかなく、ただ身を委ねて救い出してもらうしかない状況です。唯一私が救いに貢献できるとしたら、自分の罪深い性質を差し出すことくらいでしょう。」私たちはイエスさまを十字架につけたその罪をイエスさまの前に差し出し、赦しを乞い、「ありがとうございます」と、その救いを受け取って新しく生まれるのです。
さて、信仰によって神から生まれたわたしたちに、2つのことが起きました。一つは、「神の命令を守る者」とされたこと。もう一つが「愛する者」にされたことです。
5:1(後半)生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。
神から生まれた者は神の命令を守ります。そして神の命令を守るということは、神を愛し、人を愛することだと書かれています。私たち現代人は「命令」などと言われると反発したくなります。上下関係や権威というものを嫌うからです。かつては私たちも自分が自分の人生の主でした。自分のしたいことをして、何でも自分で決めて、自分で人生を切り開こうとしました。でも、今は違います。私たちの人生の主は神さまなのです。そこには超えてはならない秩序があり、私たちは神の命令に聞かなければいけません。
どんなことを命令されるか恐い気がするかもしれません。でも三節には「神の命令は重荷とはなりません。」とあります。他の訳では「難しいものではありません」とあります。どうしてですか。神さまと私たちには愛の関係があるからです。ひとり子を惜しまず私たちに与えて下さった神さまが、私たちに無理難題を押し付けて困らせることはあり得ないのです。それは私たちが幸せになるために神さまがくださった命令なのですから。
さて、神さまの命令とは、具体的に何でしょうか。それは、「愛する」ということです。私たちは神から生まれて、「愛する者」にされました。神のすべての命令は「愛しなさい」というこの一事に集約されているのです。「神の命令を守ること」は「愛すること」、「愛すること」は「神の命令を守ること」なのです。
皆さんは、「神の命令」というと何を思い浮かべるでしょうか?「十戒(じっかい)」ですよね。十戒は神さまの命令の基本です。十戒を大きく分けると二つに分けられるということは聞いたことがあるでしょう。前半は神を愛すること」と後半は「人を愛すること」です。(①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。②あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。③あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。⑤あなたの父と母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。)
一節に「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。」とあるように、神を愛することと人を愛することはセットです。神さまだけを愛して人を愛さないということはあり得ないし、人だけ愛して神を愛さないとしたら、その愛はどこかずれています。この二つは本来切っても切り離せないものなのです。こんなことを言っている注解者がいました。「神は見えないですから、神を愛するとは言ってもそれは見えません。ですから私たちは見える人を愛することを通して、神への愛を現すのだ」と。
人を愛することは難しいでしょうか。正直、難しいです。もし簡単だと言っている人がいたら、その人は「愛する」ということを知らない人だと言ってもいいでしょう。特に聖書はあなたの隣人を愛しなさいと言いますが、神さまはよく知っていらっしゃると思います。私たちは、少し距離をおいた関係の人を愛するのは容易いのです。しかし、身近な人、例えば自分の伴侶や親、兄弟などを愛するのが意外に難しいのです。皆さんも日々経験していることでしょう。特に聖書の要求する「愛」は、私たちの中にはありません。どうりで愛せないわけです。しかもこの個所に出てくる「愛」はすべて「アガペー」の愛ですから、神さま基準の完全なf最高級の愛です。人は不完全です。愛しているつもりでも、それが押し付けになったり、相手にとって重荷になったり、独りよがりだったり、束縛だったり、支配だったり、ともすると依存だったりするのです。仕方がありません。私たちには罪があるので、私たちの愛は、歪んでしまっているのです。神さまの要求する愛は、私たちの中にはありません。愛は私たちの外にあるのです。そう、神さまのところにある。けれども、遠い、私たちには手の届かないところにあるわけではありません。聖書には「イエスさまはぶどうの木で私たちは枝です」と書かれています。枝には愛はありませんが、幹であるイエスさまには愛が脈々と流れています。ですから私たちが、信仰と祈りを持ってイエスさまに愛を求めるなら、私たちはそこから愛をいただき、愛するという実を結ぶことができるのです。
愛することは神から生まれた私たちの使命です。「君は愛されるために生まれた」そうです。私たちは愛されるために生まれました。でももう一つ言うと、私たちは、今度は愛するためにもう一度新しく神から生まれたのです。愛しましょう。それが私たちの第一の使命であり、存在目的なんですから。
5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
神から生まれた私たちは勝利者です。4節の「世に打ち勝った」は原語では不定過去と呼ばれる時制です。つまり過去に起こった1回的な出来事、決定的な出来事を表す動詞です。つまり神から生まれた私たちは、すでに「世に打ち勝った」ということです。遠い将来勝つでしょうというのではなく、勝てる可能性があるということでもなく、すでに勝っているのだというのです。「世」というのは、全て神に反抗するもののことです。いやいや、私は負けっぱなしだと思うかもしれません。けれども実は勝ったのは、私たちではなく、イエスさまです。イエスさまは私たちの罪のために、十字架にかかって死なれ、よみがえって下さり、罪と死に勝利してくださった。そして徹底的に私たちを愛して、愛し抜いてくださった。愛することにおいてすでに勝利してくださったのです。そして今、その勝利が、聖霊によって神から生まれた私たちのものになりました。
また、信仰生活における世との戦いについて、私たちは、「守り」「ディフェンシブ」なイメージを持つかもしれません。けれどもスポーツに当てはめてみてください。もちろんスポーツでも守りを怠ると負けてしまいます。けれども守ってばかりでも勝てません。攻撃が必要です。攻めが必要なのです。それが「愛する」ということはないかと思うのです。愛することを通して積極的に攻める。こうして私たちは信仰の闘いに勝利するのです。
愛することの訓練は筋トレに似ているかもしれません。筋トレをすると私たちの筋肉は傷つきます。その筋肉を修復するためにはたんぱく質が必要です。そして筋肉は、たんぱく質によって修復されることによって、大きく強くなるのです。愛する時、私たちは痛みを感じるかもしれません。傷つくかもしれません。けれどもその傷ついたところを神の愛で修復しもらうときに、私たちの愛はますます大きくなっていくのです。愛する力は、自然には身に付きません。やはりトレーニングが必要なのです。そういう意味で、家庭は愛することをトレーニングするジムなのかもしれませんね。
台湾のチャンピオンズ教育協会のホームページには、こんなことが書かれています。
「100点取るからチャンピオン(勝利者)なんじゃない。一等賞を取るからチャンピオンなんじゃない。あきらめない私たちこそがチャンピオンなのです。」私たちは、自分の愛のなさにいつもがっかりします。けれども、愛することにおいてあきらめないなら、絶えずチャレンジしているなら、私たちは勝利者です。チャンピオンです。たとえこの世では完成されなくても、私たちがあきらめないで愛し続けるときに、天の御国では、私たちのために勝利の冠がすでに準備されていることでしょう。
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