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「神の家族」

エペソ人への手紙2章19節 

エペソ教会ができた背景については、使徒の働き19章に記されています。パウロがエペソに2~3年滞在したときにエペソで伝道して救われた人々の集まりがエペソ教会です。エペソは、ローマ帝国の小アジア州における政治、商業、宗教、文化の中心であり、国際色豊かで活気にあふれる都市でした。そしてその構成員のほとんどが、異邦人、つまりギリシャ人やローマ人などの非ユダヤ人でした。パウロは、ローマの獄中にいるときに、そんなエペソ人教会に宛てて、この手紙をしたためました。

エペソ人への手紙は1~3章までと4~6章までに区切られます。前半は恵みによる救いと、教会の一致について語られています。そして後半は、恵みによって救われたクリスチャンたちがどう生きるのかについて書かれています。今日の聖書個所は2章ですから、前半の恵みによる救いと教会の一致がテーマです。

19節は、「こういうわけで」で始まります。つまりこの19節は、1章から2章18節までのまとめの一節だということが分かります。もう一度19節を読みましょう。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」

 

「もはや他国人でも寄留者でもなく」とありますから、異邦人たちは民族的にも霊的にも、以前は、他国人であり、寄留者だったということです。「他国人」という言葉の語源は、「ゼノス」というギリシャ語で、異なる者、よそ者という意味です。この「ゼノス」という言葉から派生した言葉で、外国人嫌悪を表す「ゼノフォビア」という英語があり、その反対に外国人に対し友好的な人のことを「ゼノフィリア」と言うそうです。つまり、「同国人」に対する「他国人」の意味するところは、よそ者、異質な者。もっと言うと、排除すべき者、恐怖を感じる者、嫌悪すべき者、あるいは不快を感じる者ということになるのでしょうか。

また、「寄留者」も同じようなことです。自分たちが所有する土地、国を持たず、外国に仮住まいをする人々のことを指します。「さすらいの民」と言ってもいいでしょう。そういえば、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たちも寄留者でした。また、中国人でいえば「客家人」がそれにあたりますし、最近、埼玉川口市を舞台に何かとやり玉にあがる「クルド人」も中東の国境を越えて各地に分散・移動を余儀なくされてきた歴史を持つさすらいの民族だそうです。

今まで日本人は、他国人や寄留者と言われてもピンときませんでした。以前日本に住んでいた外国人は、アメリカ軍基地に住む人や、国際結婚をした人、それこそ外国人宣教師ぐらいだったのではないでしょうか。ところが、ここ20年ぐらいで、一気に外国人が目に付くようになりました。たまに東京の町を歩いていると、ここはどこだろうと思うぐらい周りが外国語ばかりになっていることもあります。昨年の参議院選挙、先日の衆議院選挙では、ヘイトスピーチや外国人排斥運動が問題になりました。私は、テレビやSNSを通して、そんな人々を見るにつけ、「ああこの人たちは外国に住んだことがないのだろうな」と思いました。観光じゃなく、外国に住む経験は、私たちの外国人を見る目を変えます。私は、主人の留学の関係で、アメリカに2年住みました。当時は小さな子どもが3人おり、しかもアメリカで4人目を出産しました。幸い当時は、低所得者の移民や外国人に対して政府の手厚い保護と支援がありましたので、私たちは安心して子どもを産み、育てることができました。外国に住むと、本当に現地の方の親切や国の制度としての保護や支援が身にしみます。要するに他国人や寄留者の気持ちは、自分がなってみなければわからないということです。あるいは想像力を働かせ、当事者意識を持つことです。

さて、エペソ人に限らず、ユダヤ人ではない人は、民族的に異邦人であっただけでなく、霊的にも「他国人」であり「寄留者」でした。この2章では、「他国人」「寄留者」の霊的状態について書かれています。(1~3節)彼らは、罪の中に死んでおり、この世の流れにただ身を任せ、自分の欲望と暗闇の支配者に従って生きており、その行きつくところは滅びでした。また、11~12節には、彼らは「無割礼」の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もいない者たちだったと言います。

私たちは、創世記をずっと読んでいますが、神はアブラハムを選んで、彼と彼の子孫との間に祝福の契約を結びました。ここで聖徒たちと呼ばれているのは、そんな選びの民のことです。そして異邦人は、この契約の圏外にある者たちです。彼らは、無割礼の民と呼ばれ、はっきりとイスラエルと区別され、神の救いから遠く離された者だったのです。

ところが神は、そんな神との契約外にいる異邦人(私たち)を、愛して、あわれんで、愛する御子イエス・キリストを送り、私たちの代わりに彼を十字架によって罰し、よみがえらせました。そしてこのお方を信じる私たちをキリストと共に新しく生まれ変わらせ、聖徒たちと同じ契約の民としたのです。すなわち「神の民」とし、「同市民(神の国のcitizenship)を有するもの」とし、神の民しか受けられない様々な特権をも与えられたのです。先ほど、主人の留学時代、アメリカで出産したという話をしました。生んでみてびっくりです。アメリカで生まれた子どもは、生まれながらの市民権citizenshipを有します。するとどうでしょうか、食料支援や医療支援など、アメリカ人しか受けられない手厚い保護と支援を受けられるようになったのです。同様に、聖徒たちと同じ国の民とされた私たちは、彼らと対等の立場に置かれ、彼らだけが与えられている特権をも享受することができます。神さまの特別の保護と援助を受けることができ、さらには、聖霊によってこの特権は永遠に保証されるのです。

さらに私たちは、「神の家族」とされました。これは、神との新しい関係の中に入れられたということです。以前は、私たちは、空中の支配者と罪の奴隷でした。罪の縄目に縛られて、引きずり回されて、滅びに向かっていたのです。ところが、その縄目が解かれ、私たちは自由にされ、神の子どもになりました。また、それに付随して、神の子どもとしての特権も与えられました。たくさんある特権の中でも一番は、やはり御国の相続権でしょう。6節に「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」とある通りです。

 

教会は神の民、神の家族の集まりです。私たちは、聖書に見るイスラエルが神から受けてきた愛と恵み、あわれみ、祝福を受ける者とされました。神はイスラエルの民を愛し、ずっと導いて来られたように、私たちをも愛し導いてくれます。イスラエルの民を宝の民と呼び、瞳のように守ると言われた神は、私たちのことも「私の宝」「瞳のように守る」と言ってくださるのです。そして天の父は、イエスさまがバプテスマを受けるときに「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われたその言葉を、私たちにも語ってくださるのです。

そして、その私たちの神の国の民としての立場、身分、また父との関係は、個人的な上とのつながりに留まるものではありません。同じ主を信じる世界中の兄弟姉妹、また一つ一つの地域教会(新船橋キリスト教会)の兄弟姉妹との関係にも影響を与えます。なぜなら、私たちは、同じ主イエス・キリストのいのち、つまり聖霊を共有する共同体だからです。私たちは同じいのちを共有しています。よく「血を分けた」という言い方をしますが、私たちは「いのちを分けた」関係です。ですから、イエスさまは言われました。「あなたがたは、自分を愛するように、他の人も愛しなさい」と。私たちは同じいのちを共有していますから、自分を愛することは隣人を愛すること。隣人を愛することは、自分を愛することなのです。

また、これは言わずもがなですが、教会は、国籍、人種、歴史的背景を超えて一致する共同体です。先ほど、私たちがアメリカに住んでいたときのことを話しました。また私たちは、台湾にも14年住みました。その時の経験からすると、外国人にとって教会はオアシスです。どこに行っても、会ったその日から、同じ神を礼拝し、賛美することができ、互いに兄弟姉妹と呼び合い、言葉を超え文化を超えて、不思議な一体感を感じることができます。けれども残念ながら、排他的な教会もあります。会堂に入るとすぐわかります。ああ、歓迎されてないなと。最近は、教会にもナショナリズムの波が押し寄せ、世界中の教会で、外国人排斥の機運が高まっているとも聞きます。けれども、聖書に立った教会は、福音に立った教会は、国籍、人種、歴史的背景を超えて一致するのです。

そして教会は、20節以降にあるように、使徒たちや預言者たちという土台、つまり聖書と使徒たちの教え(正しい教理と言ってもいいでしょう)の上に建てられて、キリストを要石(かなめいし)とする建物です。当時のパレスチナ地方の建物は、石を組み合わせて作られていました。下から順番に隙間なく石を組み合わせなければ、丈夫な建物はできません。

主人は日本のお城が好きなので、宣教師時代は教会訪問の機会を利用して、全国にあるお城を訪れたようです。そんな主人にお城の石垣について聞いたことがあります。石垣には、大きさの異なる石を緻密に組み合わせる、乱積みとか野面(のづら)積みという積み方があるそうです。違う大きさの石を積むことによって、単一サイズのブロックを積むよりも高い強度と柔軟性、耐震性を発揮するのだそうです。そして何よりも美しい。教会も似ているのかもしれません。聖書を土台とし、キリストを要石として置き、そこに大きな石、小石、いびつな石を上手に組み合わせて建てあげられていくからです。お互いの違いを受け入れ合い、お互いを尊重することによって建てあげられる教会は、同じサイズのブロックのような、同じ人種、民族、言語、文化の人たち、あるいは、同じようなハイクラスの人たち、知識人が集まった教会よりも、高い強度と柔軟性、耐震性を持つのでしょう。

 

この地上においては、完成された教会はありません。21‐22節にもあるように、教会は、私たち個人の信仰の成長と同じように教会として成長します。聖化されます。そして教会の交わりは、三位一体の神の交わりを映し出すような、麗しい、愛ある交わりを目指すのです。もちろん、地上の教会を見ると、あまりに未熟です。時として罪が入り込み、福音とは異なる教えが入り込み、分裂があり、諍(いさか)いがあり、支配と依存があります。けれども、22節にはこうあります。「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」私たちの信仰と同じで、教会も成長し、聖くされ、やがては栄光の姿、神の宮、神の御住まいへと変えられるのです。私たちは地上の教会があまりに小さくて、未熟で、けがれていて、一致がなくて、分裂、分派があり、神さまが望まれているキリストの花嫁としての教会からは程遠いので、失望しそうになります。けれども、神さまは、教会の成長をあきらめていないのです。ですから、私たちもあきらめない。新船橋キリスト教会も小さく、欠けだらけでしが、成長しつづける教会でありたいと思います。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、私たちは以前は、霊的に他国人であり、寄留者でしたが、しかし今は主イエス・キリストによって救われ、神の民、神の家族とされました。教会はキリストのいのちを共有する共同体です。どうぞ、私たちひとり一人は、小さく、欠けだらけの者ですが、兄弟姉妹と継ぎ合わされて、御霊が住まれる神の宮を建てあげさせてくださいますように。そして御国では完成された教会に属する恵みに与ることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



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