「人の弱さと主のあわれみ」
創世記20:1~18
今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。
さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。
ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。
サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こんなことも言っています。13節「神が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『このようにして、あなたの真実の愛を私に尽くしてほしい。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい』と言ったのです。」なんと、主がアブラハムを召し出して、ウル、あるいはハランを出発するときから、彼は、マニュアルのように、こういう場面ではこうすると決めていたというのです。ですから、ひょっとしたら、これは常態化した罪、お決まりのことで、この2回以外でも、何度か同じ手を使い、それによって、自分の身を護って来た可能性もあるのです。
しかし、少なくとも今、この手を使うのは、非常にまずいです。なぜでしょう。サラは来年の今ごろアブラハムの子を産むと、神さまからお約束をいただいているからです。ひょっとしたら、すでに妊娠していた可能性だってあるじゃないですか。こう見ると人は、いつも神さまの約束実現の邪魔しかしませんね。けれども、人がどんなに邪魔をしても、神さまの約束は成るのです。
神さまは、アブラハムではなく、異邦人の王、アビメレクの夢に現れます。究極の手段です。3節「その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。『見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。』」アビメレクは、驚いたことでしょう。そして答えて言うのです。「主よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」 まあ、大勢いる側室の一人に、自国に寄留してきた女性を、未婚だからというので召し抱えることを、「全き心と汚れない手で」と言えるのかどうかは疑問ですが、彼らの道徳基準からすると、何の後ろめたいこともなかったのでしょう。そして、神さまも、彼の言い分を認めます。6節「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。」と。そして、アビメレクは、すぐにアブラハムを呼び寄せて抗議します。9節「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」全くもって、恥ずかしいことです。信仰の父とまで言われたアブラハムは、神を信じない人に、罪について責められているのです。
確かに、未信者でも、クリスチャンよりもいい人、立派な人はたくさんいます。持って生まれた人格か、教育の賜物か、世の中にはすばらしい人がいるものです。時には、神さまはそんな人たちを通して、私たちの罪、愛のなさを示されることもあるでしょう。そんなときは、謙虚にへりくだって耳を傾けるべきです。ひょっとしたら、その人たちを通して神が語られているということもあるからです。そういえば、イエスさまがベツレヘムでお生まれになったときに、遠く東の国の異邦人の天文学者(占星術師)が、幼子イエスさまを訪ねたではありませんか。また、イエスさまは、ローマの百人隊長に「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」と言われたではありませんか。私たちは、恵みによって救われただけの罪人であることを覚えるべきです。
アブラハムの子を宿すと約束されているサラを守ったのは、神さまでした。6節後半「それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」アビメレクがサラを召し抱えると、すぐに宮廷で謎の体調不良者が続出しました。そして、彼の妻や側室、女奴隷たちの胎が閉ざされたのです。アビメレク自身も、体調不良でしょうか、サラを寝室に呼ぶ気にもなれなかったようです。そして、夢での神のお告げによって、サラは守られました。神さまは、アブラハムの弱さを超えて、ご自身の約束を実現されたのです。
神さまは、夢でアビメレクに告げました。7節「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」アビメレクは、自分の良心に従って、行動したのかもしれません。けれども、神の前には罪ある者でした。事の善悪を完全に判断できるのは、神さまだけです。彼は、知らずにしたこととはいえ、神の大きな救いのご計画を阻むような大罪を犯そうとしたのです。ですから、アビメレクも神にゆるされなければ、滅びるべき存在なのです。ですから、アブラハムに祈ってもらうようにと、神は命じます。アブラハムは、間違ったことをしたかもしれない、恐れの中にあり、弱さを持っているかもしれない。けれども、彼は、神さまの選びの器です。ですから、彼にとりなし、祈ってもらい、いのちを得よと、神さまはアビメレクにおっしゃいました。
アブラハムはどんな気持ちだったでしょう。「またやってしまった!」「恐れにとらわれて、失敗した!」「またも、神さまに尻ぬぐいをさせてしまった!」しかも、神を知らない異邦人に注意をされて、たしなめられて…。もう終わりだ! 彼は打ちのめされていたことでしょう。けれども、神は、アビメレクのために祈れとおっしゃいました。彼は、自分の弱さに打ちひしがれながらも、自分が何者であるかを思い起こすのです。そう、私は神の民。祝福の基となるべく、神に立てられている選びの器なのだと。こんな私だけれど、私はとりなし祈る者として召されているのだと。そして、彼はアビメレクと彼の全家のために祈るのです。すると神さまは、彼の願いを聞き、女たちは癒され、また子どもを産むようになったとあります。(17節)
今日は、耳の痛いお話でした。私たちは、同じ失敗を何度も繰り返します。そしてその度に、うちに住む聖霊によって心刺され、主の前に悔い改めるのです。そして今度は二度とこんな失敗はしないぞと心に誓います。でも、ほどなくして、また同じ罪を繰り返してしまう、その連続ではないでしょうか。あえて言います。それでいいのです。Ⅰヨハネの手紙1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」私たちはイエスさまを信じていても罪を犯します。罪人が、絶えず罪に傾くのは、むしろ自然なことです。けれども、私たち救われた神の子は、罪に抗います。なぜでしょうか。それは、神さまが、聖いお方であり、罪をお嫌いになるからです。神さまは、私たちを傷つけ、人を傷つける罪が大嫌いです。私たちをご自身の子として愛しているからです。子どもが傷つくのを黙って見ている親がいるでしょうか。私たちは、そんな天のお父さまの愛を思いつつ、罪に抗うのです。自分の力では罪と戦えません。でも大丈夫。私たちには聖霊がついています。聖霊が助けてくれます。そうやって、私たちは罪と戦い、何度負けても、何度も立ち上がって、その度に少しずつ、キリストに似たものに変えられていくのです。大丈夫です。私たちがどんなに失敗しても、罪を犯しても、私たちの罪の代価は支払い済みです。イエスさまの十字架の完全な贖いによって、私たちの借金はすでに完済してます。私たちは罪に定められることはありません。私たちの罪との戦いは、言ってみれば「勝ち戦(いくさ)」なのです。イエスさまによって、すでに勝利している戦いなのです。だから安心して、勇敢に、罪と戦いましょう。
そして、私たちは、アブラハムの霊的な子孫です。祝福の基です。どんなに弱くても、どんなに失敗を繰り返しても、まわりのクリスチャンではない人の方が、ずっと立派に見えても、私たちは、人をとりなし、祝福するために立てられている神の祝福の器です。神さまはアビメレクに言いました。7節「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。」と。私たちは、自分が弱くても、小さくても、預言者として人々に、神に立ち返るよう悔い改めを迫り、とりなし祈り、人々がいのちを得るように、神の祝福の基として立てられています。ですから、今週も私たちは、神の召しにしたがって、罪に抗い、人をとりなし祈ると神の子どもとして、生きていきたいと思います。祈りましょう。
天の父なる神さま、私たちは、あなたの恵みと憐れみによって、救われた罪人です。パウロも「私は自分のしたい善を行わないで、したくない悪を行ってしまう」と告白しているように、私たちは致命的な弱さを持っています。けれども主は、なお、私が聖であるからあなた方も聖であるようにと迫ります。そして、イエスさまによって、完全な聖さを与えてくださったのです。感謝します。私たちは弱いです。何度も転びますが、それでも何度でも起き上がり、イエスさまに似た者へと造り変えていただくことができますように。そして、まわりの人を潤す祝福の基として、私たちを用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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