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ヤボクの渡し場で(創世記32章1~32節)


「ヤボクの渡し場で」

創世記32132

 

ヤコブはこれまで、ハラン(パダン・アラム)の地、叔父ラバンのもとを「出る(脱出する)」ことに必死でした。苦しい20年間、何度も叔父に騙されて、奴隷のように扱われた20年でした。ここから抜け出せさえすれば…、とりあえずそこだけに集中し、時をうかがって、叔父を欺き、やっとの思いでハランを脱出したのでした。そして、さあ、これで安心とカナンの地に向かって旅を続けたのですが、いざ故郷を目指すことになると、言いようのない「恐れ」に包まれました。そうです。そもそもヤコブはどうして、故郷を離れてハランに向かったのでしょうか。それは、このまま家にいたら兄エサウに殺されると思ったからでした。ヤコブは、兄エサウを2回も騙して、長子の権利と祝福を奪いとったからです。ヤコブはこのエサウの復讐を恐れて、故郷を旅立ちました。そして今、故郷に帰るにあたって、ヤコブはその現実に向き合わなければならなかったのです。

ところが、神さまはいつもお優しいお方です。ヤコブが不安と恐れの中で旅を続けていると、神の使いたちがヤコブに現れました。2節を見るとヤコブは、「ここは神の陣営だ」と言っていますから、み使いは、大人数の軍隊のようだったようです。そういえば、創世記の28章でも、神さまはヤコブに語りかけられました。その時には、故郷を離れて心細くなっていたヤコブに、天から梯子を下ろされて、多くのみ使いが、そこを上り下りしている幻を見させてくださいました。今回は、軍隊です。なぜでしょうか。ヤコブがエサウとの再会を恐れていたからです。ヤコブはこの幻を見た場所を「マハナイム」と呼びました。これは「二つの陣営」という意味です。ヤコブはこの幻によって勇気づけられ、兄エサウに使いを送ってメッセージを伝えさせました。4節「あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。 私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。」

ほどなく、ヤコブがエサウのもとに送った使者が帰って来ました。彼は言いました。6節「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」何ということでしょう。兄エサウが400人も引き連れてやってくる。これは私と戦うためではないのか!?ヤコブはそう思ったことでしょう。7節「ヤコブは非常に恐れ、不安になった」とあります。神さまがマハナイムで武装したみ使いを見せてくださったのは、このためだったのか、とわかります。「マハナイム」は「二つの陣営」という意味でした。だからでしょうか。ヤコブは宿営を二つに分けます。けれどもヤコブが宿営を二つに分けた理由は、8節「たとえエサウが一つの宿営にやってきて、それを打っても、もう一つの宿営は逃れられるだろう」という思惑があってのことでした。そしてヤコブは祈ります。9‐12節「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた【主】よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」 切実な祈りです。ピンチの時には、祈るしかない。そして、人の力を超えた神さまを見上げて、神さまの今までの守りと祝福を思い出し、そして神さまのお約束に、もう一度立ち戻るしかないのです。

けれどもヤコブは、それだけでは不安でした。神さまから、天の軍勢を見せられ、かつての主の恵みと守り、そして約束を思い返しても、彼の不安は払しょくされません。そして、知恵の働くヤコブは、再び策を練り始めます。エサウの怒りをなだめるには、贈り物がいい。そうだ贈り物だ! そして、大量の家畜を準備したのです。しかもそれらの家畜を小分けにして、群れと群との間には一定の距離をおき、少しずつエサウをなだめようとの魂胆です。20節「自分の先に行く贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」ヤコブはそう思ったのです。

 

こうして、三つの贈り物の群れを、先に旅立たせました。そして、自分たちは、そこにとどまり、宿営を張ったのです。けれども、ヤコブはそれでも不安で、不安で、仕方がありません。彼は、夜中になってから、何を思ったのか、大事な家族と所有物を先に川の向こうにやります。この川が「ヤボクの渡し」と呼ばれる川でした。そして、ヤコブ一人だけが、ヤボクの渡しのこちら側にとどまったのです。不安で、不安で、仕方のない時、人はかえって一人になりたいと思うのかもしれません。一人になって、神と向き合い、なりふり構わず、泣いて、叫んで祈るのかもしれません。

すると不思議なことが起こりました。突然ある人が、ヤコブに襲いかかってきたのです。ヤコブは、驚きましたが、すかさずこれに応戦します。ヤコブは羊飼いでした。時には羊を守るために野獣とも戦うのが羊飼いです。そして彼らは取っ組み合いの格闘を始めたのです。二人は互角でした。どうしても勝負がつきません。あまりのしつこさに、格闘の相手は、ヤコブのもものところを打ちました。この「打った」という言葉は、原語を見ると「触れた」ぐらいの打ち方です。そんな軽いタッチで、ヤコブのももの関節(股間節)は外れてしまったのです。「このお方は!?」ヤコブはこの時点で自分が戦っている相手が神さまご自身であることに気づいたのでしょう。けれども、それでもヤコブは、組み合う手を放そうとはしません。そして夜通し戦って、東の空が白んできた頃、その人は言いました。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」けれども、ヤコブは答えます。「去らせません。私を祝福してくれなければ」

彼は、戦いはじめのころ、エサウと戦っている気になっていたかもしれません。いや、今までラバンと戦ってきたことを思い起こし、ラバンと戦っているつもりになっていたかもしれません。けれども、格闘している相手が神だと悟ったとき、ヤコブは思ったのではないでしょうか。ああ、思い返せば、私の人生はいつも戦いの連続だった。ある時は、エサウと長子の権利をめぐって争い、ある時は、ラバンとの騙し合戦。そして目の前にはだかる世の不条理と、彼は戦い続けました。けれども、そんな人々や状況を用いて、実は、神が私と格闘しておられたのだと、彼は気づいたのです。神は、私の前にいつも手ごわい敵を置き、私が自分の知恵と力により頼んで、敵をやり込めることの限界と虚しさを教えようとしておられたのだ! それはヤコブの大きな気づきでした。

戦っている相手が神さまだとわかったヤコブでしたが、そのお方が、「わたしを去らせなさい」と言っても、彼はその掴んだ手を放しませんでした。そして懇願するのです。「私を祝福してくださらなければ!」と。ヤコブほど、神の祝福に執着していた人は他にいません。それは兄を騙し、父を騙すほどの執着ぶりでした。義理の父を知恵をもって欺き、彼の財産を根こそぎ奪うような執着の仕方でした。そして実際、彼は彼の望んだ祝福を手中におさめていったのです。けれども、それでも彼は満たされませんでした。自分の知恵と力で奪う祝福は、彼に本当の幸せはくれなかったのです。一つ祝福を奪い取っても、すぐに不安がやってくる。この祝福が取り去られることへの不安、誰かがこの祝福を奪うのではないかとの恐れをずっと抱いてきました。何かが違う。自分がほしかったのはこんな祝福ではない!彼はそう思いながら、ここまで来たのでしょう。そして彼は、神に迫るのです。「祝福をください。くださらないと去らせません!」と。そんなヤコブに、神は聞きます。「あなたの名は何というのか」。「ヤコブです」。そう、私はヤコブ。読んで字のごとく、「かかとを掴む者」。出産のときから、自分が先に出るのだと兄のかかとをつかんで押しのけようとしたヤコブ。私は奪い取る者。押しのける者。彼は、自分の名前を恥じたのではないでしょうか。しかし神は言うのです。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」「イスラ」は「勝つ」という意味。「エル」は「神」という意味です。今、ももの関節を外されて、足を引きずるヤコブは、こうなって初めて「勝利者」と呼ばれたのです。

 

神さまは、私たちを「勝利者」と呼んでくださいます。神は私たちに負けてくだるのです。ある注解者は、このヤコブの神との格闘は、祈りの格闘だと言っています。「私を祝福してくださらなければ去らせません」という必死の祈りに、主は負けてくださり、祝福を与えてくださったのです。今までの、「自分が、自分が!」という祝福ではなく、「あなたとあなたの子孫を通して諸国が祝福される。あなたとあなたの子孫を祝福の基(もとい)とする」という本来のヤコブの祝福。それは祖先アブラハムに与えられ、イサクが引き継ぎ、そしてヤコブが引き継いだ祝福でした。神からの役割と使命を帯びた、ヤコブしか担えない本物の祝福を神は与えたのです。いえ、もともとあった祝福に気づかせてくださったのです。神さまは私たちがみこころにそった願いをするなら、神さまの方が折れてくださり、負けてくださり、願ったものを私たちに与えてくださいます。

 

ヤコブは、その場所をペヌエルと名付けました。「神の御顔」という意味です。本来はその聖さゆえに人は神とは向き合えない者なのに、神は直接ヤコブに現れ、対等に格闘してくださったのです。この出来事を通して、ヤコブは生まれ変わりました。これからは、イスラエルとして生きます。もう自分だけの祝福を求め、人を押しのける者ではありません。祝福の基として、周りの人々、国々に、祝福を与えていく者となったのです。もう、彼の中に恐れはありませんでした。足を引きずるヤコブに、もう戦う力はありません。けれども、主と戦って勝った彼の背後には、神がおられる。もう何も恐れる必要はないのです。こうしてヤコブは、夜が明けると、ヤボクの渡しを渡り、家族の先頭に立ち、サウルと対面するのです。

私たちの人生も戦いの連続でしょう。先の見えない不安と恐れの中で、主よどうしてですか、いつまでですかと問う毎日かもしれません。けれどもその戦いは、実は、主との戦いかもしれません。あなたが神さまに打たれ(触れられ)、そして砕かれ、それでも、(他のものではなく)主にしがみついて、祝福を乞うとき、主は必ず、私たちを祝福してくださいます。それは自分だけが幸せならそれでいいという祝福ではなく、人々を愛し、祝福していく、キリスト者としての本物の祝福です。祈りましょう。

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