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明けの明星(ヨハネの黙示録2章18~29節)

 


「明けの明星」(ヨハネの黙示録2:18-29

はじめに

18節(読む)

 ティアティラは、前回のペルガモンから南東約85キロの内陸の町です。手紙が宛てられた七つの町の中でもっとも小さい目立たぬ町でした。ティアティラは商業の町、商人たちの町です。使徒の働き16章に登場する紫布を扱う商人リディアという女性がいますね。彼女は、ピリピの町の川の岸辺でパウロの説教を聞いて救われました。そのリディアはティアティラの出身です。小さいながらも商いが盛んなティアティラには、同業者が作る「ギルド」いわゆる組合が多くありました。革製品を扱うギルト、またリディアも属していたであろう紫の染め物を扱うギルド、陶器のギルド、それからキリストの足にたとえられる真鍮(=銅と亜鉛の合金)のギルドもあった。

 その商業の町ティアティラに現れるキリストの姿は厳しい印象です。目は燃える炎のよう。それはすべてを見抜いていく、厳しく鋭い眼光を表しています。さばくべき罪や悪を見つければ、すぐに鎧兜を思わせる真鍮のような足で蹴散らし罰する。そこに罪や悪あらば「わたしが裁こう」という厳しさ。確かに、ティアティラには厳しく裁かれなければならない現実があったのでした。

 ただ、厳しいだけではありません。何かしらの良い実りがあれば、それも見逃さずにしっかりと評価するお方でもあったのです。

19節(読む)

「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」。しかも、今だけを見つめているわけではない。「近ごろの行い」が「初めの行い」にまさっている。初めの頃から今日まで、これまでの旅路にもしっかりと目を留めているのです。このお方は公平かつ視野が広い。鋭い眼光は厳しいだけでなく、すべてを公平に広く見つめている。それゆえに私たちは、厳しい叱責があっても、それを聴くことができるだろうと思います。「このお方の言うことには間違いがない」と。

1.   イゼベルへの裁き

20-21節(読む)

 「イゼベル」を憶えておられますか。イゼベルは、旧約の第一列王記16章以降に登場する、北イスラエルの王妃です。しかもイゼベルは、偶像のバアル宗教をイスラエルに持ち込んだ悪しき王妃でした。そのイゼベルを彷彿とさせる女性がティアティラ教会にもいたのです。実名は分かりませ。イゼベルは一種の暗号、コードネームです。でも、聞けば誰もが、「ああ、あの人か」と思い当たったのでした。たちの悪いことに、ティアティラのイゼベルは女預言者を名乗っていた。「主はこう言われる」と、神の言葉を取り次ぐかのように偽りを語っていたのです。そのイゼベルを、ティアティラ教会は「なすがままにさせている」。厳しい口調でキリストは叱責します。なすがまま、誰も止める者のいない、野放し状態でした。

このイゼベル問題、商業の町に多くある同業者組合のギルドが温床になっていたようです。日本でもそうですが、商いの世界は商売繁盛の「神頼み」に走りやすい。殆どのギルドが偶像と結びつき、集まりでは偶像崇拝が行われていたそうですね。また、同業者の集まりではお酒が入ることもしばしば。規律が緩むと性的な乱れが起こり、キリストはそれを叱責しているのです。同業者のギルドを中心にした偶像崇拝と性的乱れ。そこで活躍したのが偽預言者イゼベルです。キリストは指摘します。イゼベルは「わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている」。偶像崇拝は実質のないものだから気にするな。性的な事柄も信仰を汚すわけではないからと、預言者づらしてお墨付きを与えていたのでしょう。確かに聖書を見ると、パウロが第一コリント8章4節で、「世の偶像の神は実際には存在せず」と言っています。もしかしたら、これを逆手に取ったのかもしれない。偶像などは実体がないのだから、拝んでも何の害にもならない。こんな偽りの教えに、キリストの僕たちが惑わされたのでした。「惑わされる」と言う言葉、黙示録で使用されるのはこの箇所だけ。珍しい言葉です。惑わされ方がひどかったのでしょう。しかも、惑わされた者たちは皆、「わたしのしもべ」。キリストの胸の痛みが伝わってきます。「わたしのしもべ」を惑わした!

驚くべきことにキリストは、そんなイゼベルにさえ恵みを示していたのでした。「わたしは悔い改める機会を与えた」。キリストは心の広いお方。しかし、それを踏みにじって、イゼベルは無視したのでした。それゆえに、これ以上傷を広げないためにも裁かなければならない。「この女を病の床に投げ込む」という、裁きの宣告が発せられます。

22-23節(読む)

裁きの対象はイゼベルだけではありません。二種類の人々が言及されています。最初は「この女と姦淫を行う者たち」。これは、惑わされて罪を犯した人たちでしょう。彼らには悔い改めの機会が与えられます。もう一種類はイゼベルチルドレン。実の子どもではなく、イゼベルの教えにドップリと浸りきってしまった弟子たちです。彼らにはもはや悔い改めの余地すらなかった。それゆえ死の病による裁きが告げられていきます。

一方には悔い改めの機会、もう一方には死病。キリストの取り扱いは十把一絡げ、まとめて裁くのではなく、それぞれの状況に合わせた個別の判断でした。大牧者であるキリストは、一人一人を見ているのです。

こうした取り扱いを見て私たちは「厳しい」と感じるでしょうか。私は、背筋を正される思いがしたのです。キリストはまさに「人の思いと心を探る」お方です。一人一人を深く見つめるキリストの裁きに誤りはない。ふと思い出したのが、使徒の働き5章で、献金を偽って聖霊を欺いた、アナニアとサッピラの夫婦でした。欺き方がひどくて、夫婦は二人とも裁かれてしまう。でも、それによって教会に刷新され、信仰の目覚めへと繋がっていくのです。主キリストは時に教会を厳しく扱う。それは霊的に刷新する訓練です。同時に、必要な人には悔い改めの機会も与えられていく。炎のような目は私たちを見通して、それぞれに相応しく扱う。ある人には悔い改め、ある人には厳しい裁き。こうした主の視線を知る中で、信仰の背筋は真っすぐに正されていくのだと思います。

2.   残りの者たちへ

24-25節(読む)

 「残りの者たち」とは誰でしょう。彼らは、イゼベルに反対は出来なかったものの、偽りの教えに従うことなく踏みとどまった人たちです。ティアティラ教会にはそんな人々もいた。面と向かって戦う勇気はない。されど、誤った教えには従わない。教会の様子が垣間見えます。この教会は、「近ごろの行い」が初めに優ると言われる。愛、信仰、奉仕、忍耐においてはエペソ教会に優っていたのでしょう。けれど、エペソ教会のように戦うことができなかった。これは、愛が豊かな人の典型的な弱点ではないでしょうか。愛があっても戦えない人がいます。その一方、戦えるけど愛に欠ける人もいる。キリストは、それぞれに相応しい牧会の手を延ばしていくのです。だからキリストの御言葉による牧会には偏りがない。

「サタンの深み」とは何でしょう。いつの世にもこうした囁きがあります。敵に勝利するには、まず、敵から学べ、という声。サタンという戦う相手を知ってこそ、神の恵みも分かるのだから、と。私も駆け出しの頃、先生はお若いから、と言われたものです。もっと世の中を深く知らないといけない、と。そうしたアドバイス全てが誤りとは思いません。でも、時折り何だか「御言葉だけでは不十分」と言われている気がして、複雑な思いでした。御言葉だけでは不十分。もっと世の中を知りなさいと、御言葉を握る手を少し緩めると、いつしかミイラ取りがミイラになってしまう。気が付けば偶像や異教の教えに毒されている。教会の長い歴史においては、そんなことがしばしば起こったのです。

 御言葉だけでは不十分でしょうか。炎のような眼を持つお方は答えます。「ただ、あなたがたが持っているものを… しっかり保ちなさい」。そう、今私たちが持っている「神の言葉」で十分。ティアティラ教会が今持っているものとはなんでしたか。それは愛とそれに伴う奉仕、そして信仰と、信仰がもたらす忍耐。これらはいずれもキリストの教え、御言葉から生じる生き方です。それで十分。それ以上の重荷は負わせないと、私たちの主は語ります。神の言葉に根差した「愛・信仰・奉仕・忍耐」で十分。負い切れぬ他の重荷を背負う必要はない。

 でも、そんな「愛・信仰・奉仕・忍耐」でも十分重い。疲れ果ててしまわないかと。そんな私たちの限界も見通すお方は、「わたしが行くまで」と言われます。重い荷物も間もなく終わりを告げる。「わたしはすぐに行く」と、黙示録において何度も語られる言葉が、私たちにも語り掛けてきます。そして、最後に二つの約束が示されていくのでした。

3.   共同の相続人

26-29節(読む)

「勝利を得る者」とは、「最後までわたしのわざを守る者」です。「わたしのわざ」とは何か。それは、ティアティラ教会が秀でていた「愛・信仰・奉仕・忍耐」です。彼らが今すでに持っているもの、それが「わたしのわざ」。キリストのわざだと言って、励まし背中を押してくださるお方です。ここにも、きめ細やかな牧会を覚えることができるでしょう。

「勝利を得る者」に与えられる約束は二つです。一つは、「諸国の民を支配する権威」。これはもともと、今朝の招きの御言葉と響き合う約束でした。「国々をあなたへのゆずりとして与える。…あなたは、鉄の杖で彼らを牧し、陶器師が器を砕くように粉々にする」という詩篇の約束は、もともと、救い主キリストに与えられる権威の力強さを物語っていたのです。しかし何と、その偉大な権威を、主は私たちキリスト者に譲ってくださるという。これは途方もない約束なのです。

二つ目の約束は、「明けの明星」です。明けの明星は、夜明け直前に東の空に輝く金星です。暗い夜を終わらせるため、「明けの明星」と昔から呼ばれています。この金星、闇を終わらせ朝を開く力強さから、ローマ帝国の権威の象徴でもありました。その権威を、主はキリスト者に与えるのだと言う。何だか壮大過ぎて、皆さんイメージできないのではありませんか。私もなかなかイメージできない。でも、想像を逞しくする中で気づいたのは、私たちがキリストとの共同相続人であるという約束でした。私たちは終わりの日、キリスト同じ栄光を共に受け継ぐ者となるのです。完成した神の国で、永遠の命を頂き、神の国の王子、王女として輝くというのです。この栄光の権威は、もともとキリストご自身が天の父から受けたもの。その大事な宝を、キリストは私たちに惜しげもなく分かち合うという。この素晴らしさ、なかなかイメージできないと思います。だから終わりの日の楽しみに取っておきましょう。

大事なのは、この宝を受け取るために備えることです。耳を開いて、御霊の言葉に聴き続けるのです。偽りの教えに惑わされず、混じり気のない神の言葉に聴き続ける。そして聴いた言葉を何度も握りなおしていく。それで十分です。今持っているものをそのまま保てば良いと主キリストは言われます。

結び

 本日の説教題は、「明けの明星」です。私は小学生の頃、地域の子ども科学館の「天文気象クラブ」に入っていました。星を見るのが好きだった。夜明け直前、そして日没直前にもひときわ輝く金星が、「明けの明星」と呼ばれることを知ったのもその頃だったと思います。一日二回、日の出前には東の空、日没前には西の空で輝く。この星は、私たちが最も頻繁に見ている惑星です。その輝きにご自分を重ねながらキリストは、黙示録22章ではご自分を「明けの明星」と呼んでいます。「わたしは… 輝く明けの明星である」。キリストは私たちの日常に一つのリマインダーを残したのです。旧約では、雨上がりの虹がそうだったように、新約では明けの明星を見る度に、キリストの臨在を覚えたい。この星を見る度に思い出したいのです。キリストは今も語っている。炎のような目で私たちを見つめている。その視線は厳しくも懐深く、私たち一人一人に適切な言葉を語っています。このキリストの言葉にのみ耳を傾けたい。御言葉で十分。それをしっかり握り続けたいと願った、この朝のひとときでした。お祈りします。

 

天の父よ、この終わりの時代、「愛・信仰・奉仕・忍耐」を御霊によって保つことが出来ますように。終わりの日には、私たちをキリストのように輝かせてください。世を照らす「明けの明星」、主キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


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