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自分にできることを(マルコの福音書14章1~9節)

 


2026315日 塚田響

新船橋キリスト教会 礼拝説教

「自分にできることを」

マルコの福音書141〜9節

. はじめに

 私たちは、自分の生き方が「神さまの心にかなっているだろうか?」と自問する時、しばしば答えることに悩むことがあるかと思います。一方、「神さまの心にかなった生き方がしたいですか?」と聞かれれば、迷わず「はい」と答えられる気がします。それでは、なぜ最初の質問にはなかなか答えられないのでしょう。「神さまの心にかなっている」ということ、「神さまに受け入れられている」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。

 今朝は、「イエスさまに受け入れられた女性の行い」からともに学んでいければと思います。

. マルコの福音書14章の背景

 マルコの福音書の14章は過越の祭りがいよいよ間近に迫っていることを知らせるとともに、祭司長たち、律法学者たちの策略が記されているところから始まっています。

・過越の祭り

 まず、背景となっている事柄として、過越の祭りについて簡単に確認をしたいと思います。過越の祭りは、出エジプト記の12章にその由来となる出来事が記されています。文脈を要約しますと、イスラエルの民がエジプトの支配から解放されるために、神さまが行った十回目の災いの場面のことが、出エジプト記12章に記されています。エジプトはこの災いによってさばかれましたが、イスラエルの民は、神さまから命じられた通りに行うことによってそのさばきを免れることとなりました。その命令とは、傷のない一歳の雄羊を屠って、その血を家の門柱と鴨居に塗るということでした。塗ったその血は、さばきを下す神さまが過ぎ去るため、民にとってのしるしとなり、こうして、神さまのさばきが過ぎ去って、イスラエルの家々は救われたのでした。それから後も、このことはイスラエル人々の記念となり、過越の祭りは毎年同じ時期に、行われるようになりました。

 さて、このような過越の祭りがいよいよ近づく中で、マルコは同時に祭司長たちと律法学者たちがイエスさまを殺害する計画を練っていたことを並べて記しています。マルコはこのように、過越の祭りの出来事とイエスさまの死を重ねつつ、キリストの死が表している事柄を指し示そうとしているようです。

 また、もう一つ背景として確認しておきたいことは、イエスさまの死について、あらかじめイエスさまご自身が繰り返し語ってきていたということです。そのことはマルコの8章から繰り返し見られますが、それらを見ていってわかることは、主イエスの死は、その「よみがえりとともに」あらかじめ語られてきたということです。ですから、今朝の箇所は、主イエスの死が間近に迫る緊張感を表している場面であると共に、それが死で終わるのではないことを前提としています。

. 祭司長たち、律法学者たち

 それでは、早速今朝の箇所に移って参りたいと思います。マルコの福音書14章1、2節をお読みいたします。

過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。

 ここまで確認してきたように、1節には、過越の祭りの始まりが迫ってきていることと、祭司長たち、律法学者たちの企みについて記されています。祭司長たちは殺害の良い方法が見つかり次第、行動に移すだけの意思が固まっていたようです。しかし、彼らは殺意に身を任せて、計画を即実行に移すようなことはしません。かえって祭司長たちは慎重な態度を取っています。2節では、「民が騒ぎを起こす」可能性が懸念されており、祭りの期間中は計画の実行を諦めています。(実際は、ユダの裏切りがあり、彼らは祭りの期間中においてイエスさまのことを捕らえることになりますが、)このような祭司長たちの群衆を気にかける姿は、少し前の箇所でも繰り返し確認することができます。細かく見ていくことはしませんが、祭司長たちは、自らの立場を脅かし得るイエスさまが目障りであると同時に、同じように、手に負えなくなる可能性のある群衆を恐れ、慎重になっているのです。

 祭司長たちを突き動かしていたものは何だったのでしょうか。このことは、続く登場人物である女性と対比的に描かれているため、全体を見たのちに最後に考えていきたいと思います。

. ある女の人の行為と周りの反応とイエスさまの言葉(3〜9節)

 さて、それでは続いて、3節に移っていきたいと思います。

さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。

・ある女の人の行動

 ベタニアはエルサレムから3キロメートルほど離れた場所にある村で、イエスさまがよくこの村に立ち寄られていたこともわかっています。しかし、ここに記されているシモンという人物は、シモンという名が一般的であったこともあり明確には誰だかわかっていません。ただわかるのは、当時は避けられていた病を持った人の家でイエスさまは食事をなさっていたということです。さて、その食事の中、「ある女の人」は突如現れます。マルコは、この女性が誰であるのか、どうしてその家にいるのか、その女性の名前も、何も詳しい情報は記していません。ただ、前触れもないその行いは非常に詳しく記されています。

 一つずつ見ていきたいと思いますが、まず、彼女が持ってきた壺に入っていたナルド油は、インドや東アジアを原産とする非常に効果な香油で、続く箇所で記されているように、その価値は1年間の労働費に相当するほどのものだったようです。また、その香油が入れられていた壺は首元が長細いものであることから、注解者たちの中には、もともと首元を割って使うものであったという人もいますが、近代の研究では、布や羊皮紙で栓がされた形で、少しずつ使う貴重なものであったことがわかっています。ですから、彼女が割って、(または砕いてとも訳すことができる言葉ですが)それをイエスさまの頭に注いだということは、異例な行為で、取り返しのつかないことだったと言えます。一体彼女にそうさせたのは何だったのでしょう。このことも、最後に祭司長たちの姿と対比しつつ見ていきたいと思います。

・周りの人々の反応

 それでは、彼女の行動を間近で見ていた周囲の人々の反応を見ていきたいと思います。4、5節をお読みします。

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。

 周りの人々は、女性の行動に「なぜ」と問いますが、彼らは単に疑問を持ったのではなく、その疑問には怒りが伴っていました。女性の行動の理由がわかるのであれば、このような怒り方はしなかったかもしれませんが、周りの人々は読者の立場同様、この女性の行動の意味をまったく理解することができません。著者は彼女の意図を書いていませんし、周囲の人たちも唐突に感じたことだったでしょう。ですから、彼らにはそれは完全にただの無駄遣いだったのです。

 憤慨したというのは、きっとこの女の人を下に見ていたからかもしれません。目上の方や、自分より賢い人が自分に理解できないことをやっていたなら、何か意味があるのかもしれないと考えるものでしょう。周りの人たちは、自分たちの方が、より良い香油の用途を知っていると確信していたのです。

 しかし、このような状況は、私たちの日常でも起こることだと言えるでしょう。誰もが共通して無駄を嫌いますし、何でもより良い方法を探すものですから、いつの間にか、自然と人の無駄が目についたり、時には理解できない行動に出会い、苛立ったりすることもあるものです。

 ここで、周囲にいる人の姿から教えられることは、彼らのように比較をして優劣をつけるそのような視点を持っては、あの女の人の行いが理解できないということです。

イエスさまはどう見ていたのか(6〜9節)

 それでは、最後に6節からイエスさまの言葉に目を向けていきたいと思います。6節から8節をまずお読みいたします。

すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

 さて、周囲の人からは理解されなかった女性の行いは、イエスさまご自身にとっては良いことだったと言われています。突如香油を頭にかけられたということは、疑問を生んでもしょうがない場面ですが、イエスさまは、この女性に対して、どうしてこのようにしたのか聞き返すこともしていません。

 彼女がどれだけ、イエスさまの時を理解していたのか、この文脈からは読み取り切れませんが、ひとつ確かなことは、香油がイエスさまにかけられたということは、これから十字架へと向かうイエスさまの埋葬の備えとされたということです。イエスさまが彼女の行為を賞賛し、受け入れているのです。

 そして、最後にイエスさまは、次のように言われました。9節をお読みします。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 ここでも、女の人の情報は一切明かされていません。「この人がしたことも、この人の記念として」と言われるように、まるで、この人の行為がこの人を表す全てであるかのように言われています。「世界中どこででも、福音が宣べ伝えられるところでは」この人のしたことも語られるとイエスさまが言われるほどの行いであったことが9節からわかります。

 

おわりに(祭司長たちと女の人の人物像)

 さて、全体の流れを確認した上で、最後に、ここまで見てきた、祭司長たちと、女の人の人物像について考えていきたいと思います。

 まず、祭司長たちは、ベタニアで登場する女の人と多くの面で対照的です。祭司長たちは、慎重な態度を保ちながら、イエスさまを殺すための良い方法を探していました。慎重さそのものが悪いわけではありませんが、彼らの目指す先は「保身」であって、最終的に優先されるのは自分自身でした。これらのことから、彼らを突き動かしていたのは、自己愛だったと言えるかもしれません。一見無害に思える自己愛が、他者を殺してでも自らを優先させる形で、彼らを突き動かしたのです。

 このようなことは私たちに当てはまらないものではありません。自分は何を守ろうとして、慎重になっているのかと、時には慎重で保身的な態度を見直す必要があります。保身的になることが、神さまを必要としない生き方となっていないか。このような状態では、神さまの心にかなっているかどうか以前の問題だと言えます。まずは、自分の生き方がどうであったのか振り返り、自分の状態に気づく必要があります。

 次に、女の人について、少し繰り返しになりますが、彼女は祭司長たちとは対照的に、なんの前触れもなく、迷いも惜しみもない形で、高価な香油をイエスさまの頭に注ぎ尽くしました。このように、彼女を突き動かしていたものは一体何だったのでしょう。あまりにも少ないこの人の情報から、読み取れることは限られていることは認めざるを得ませんが、彼女がその壺を割った(砕いた)ということは、彼女の内面を表していると言えるかもしれません。彼女はそれに未練がなく、その目の前にしていた方は彼女にとって何よりも優って高価だったのです。

 女性の行いは、客観的に見れば、多くの人々にとって理解に苦しむ、人からは評価されないものだったと思います。しかし、イエスさまだけは、彼女の思いを受け取って、彼女が自分にできることしたことを見、それを喜んで受け取ってくださいます。だから私たちは、誰の目も気にすることなく、安心してイエスさまに自分の持てるものを差し出していけるのです。


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