「普通の人」(創世記26:26~33)
齋藤五十三師
お祈りします。
「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え」(詩篇37:3)。天の父なる神さま、感謝します。あなたは御言葉を通して、私たちを養ってくださいます。どうかこの朝も、霊の糧を通し、聖霊によって私たちの目を開いてください。説教者の欠けも、聖霊が豊かに補ってくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!
1 信仰者の力強さ
創世記26章の描くイサクの人生は、苦労続きの労働の日々でした。苦労の発端は、16節の出来事です。イサクの暮らしていた土地の王アビメレクから、突然出て行ってくれといわれたのです。もともとアビメレクは、イサクとその妻を保護するように、国中に命令を出していたのです。ところが、イサクが豊かになっていくのを見て、心中穏やかでなくなっていく。これは妬みです。手のひらを反すように、アビメレクはイサクを追い出していく。
14-16節:14彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。15それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。16アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」
イサクは、ただ追い出されたのではありません。せっかく掘った井戸もふさがれ、結果、耕した畑も手放さねばなりませんでした。これはイサクの一生の中で、最大のピンチであったろうと思います。しかしイサクは、一切争うことなく土地を後にしていくのです。そして、場所を変えて再び井戸を掘り、汗を流していくのです。この時代、井戸掘りは生涯にわたって続くきつい仕事でした。そうやって額に汗して働き続ける人生、それがイサクの生涯です。そのさなかに井戸を埋められるという嫌がらせを受け、挙句に追い出されてしまう。しかし、主は生きておられました。苦難の続くイサクを、主は24節の御言葉で支え続けます。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいるからだ。」イサクはこのように、神の言葉に支えられて、厳しい人生を生きて行ったのです。私たちもまた、神の言葉に支えられて、厳しいことの多い、この人生を生きていくのです。
そんなイサクの人生が、ある日、思わぬ展開を見せていきます。
26~29節:26さて、アビメレクがゲラルからイサクのところにやって来た。友人のアフザテと、その軍の長ピコルも一緒であった。
27イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。私を憎んで、自分たちのところから私を追い出したのに。」
28彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。
29私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています。」
王アビメレクが再びイサクを訪ねて来たのです。これはイサクにとって驚きでした。「なぜ」と、イサクは尋ねます。王の答えが28節です。「私たちは、主があなた(イサク)とともにおられることを確かに見た」のだと。
アビメレクは、イサクを恐れて一度は追い出したのでした。しかし、その後のイサクに、さらなる恐れを覚えたのです。神を信頼して生きるイサクに、普通の人には真似の出来ない力強さを感じたのです。「もう、これは叶わん」、という感じです。
それにしても驚きです。イサクは武力のような力を誇った人ではありません。彼のしたことは、争いの度に身を引いて場所を変えたこと。そして、神を信じ、ただ井戸を掘り続けた。しかし、そんなひたむきな生き方の中に、実は本物の強さがあることを、私たちは教えられていくことになります。
私たちも覚えたいのです。神を信じて生きるということ。それは、それだけで、実に力強いことです。一人の信仰者がそこにいる。決して力を振るうわけでもなく、ただひたむきに、神を信じて生きている。ただそれだけなのに、周りに伝わっていくメッセージがある。
もう十六年以上前、宣教師になって、台湾に行ったばかりの頃は大変でした。言葉も出来ません。宣教師とは名ばかりで、生活するだけで精一杯でした。そんな私を励ましたのは、先輩宣教師の一言でした。「生活すること自体が宣教ですよ。」自分の国を離れ、母国の言葉も捨てて、苦労しながらただ生きている。そうした宣教師の姿を見せるだけで、周りの人たちに大事なメッセージを伝えることが出来るのだというのです。
これは宣教師だけではないのです。キリスト者が、自分の置かれた場所で、ただ神を信じて生きている。その姿だけで、何かを周りに伝えることが出来るのです。神を信じ、前を向いて生きている、あなたの存在が、時に周りの人を驚かせ、感動させていくことがあります。信仰をもって生きる皆さん自身が、福音を伝える一枚のトラクトなのです。
2 心の広さ
信仰者イサクの生きる姿は、一国の王アビメレクさえも恐れさせました。それと共に、もう一つ印象に残ったのは、イサクの心の広さです。
27節でイサクは口にしています。「あなたがたは私を憎んで、追い出したのに」と。この一言は、追い出されたことが、イサクの心に深い傷を残したことを物語っていると思います。私はここを読みながら思いました。イサクのような自己主張の少ない人は、我慢することも多い。だから、傷つくことも多いのです。イサクの生涯は、何と厳しいものであったかと思います。
それと正反対なのが王アビメレクです。自分で追い出しておきながら、手の平を返すように調子良く近づいて来るアビメレクの言葉は、何と軽いのでしょう。29節「(私たちがイサクに)、ただ良いことだけをして、平和のうちに送りだした」とは、何と空々しいのでしょう。これを聞いたら、普通の人なら、恨み言を返したくもなるところだと思います。
でも、イサクは言い返さない。むしろ王の願いを受け入れ、食事の席を整えます。そして契約を結び、平和のうちに王たちを送り出したのでした。
イサクには、言いたいことが山ほどあったはずです。でもアビメレクの次の言葉を聞いて、王を赦していく。「主があなた(イサク)とともにおられることを確かに見ました」という言葉です。これを聞いてイサクは、過去の非礼を赦したのでした。
こうした態度は、イサクらしいと思いました。実は、かつて同じような状況の中、父アブラハムが、正々堂々、井戸を埋められたことを抗議したことがありました。アブラハムは、そんな強さのあった人ですが、イサクは違いました。イサクの生き方で心に残るのは、人を赦す心の広さであったと思います。
信仰者に相応しい生き方とは何でしょう。感謝とか喜びとか、いろんな事があります。そしてその中には間違いなく「人を赦す生き方」も含まれるのです。主の祈りが私たちに、人を赦すように教えていました。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と。私たちは自分の罪の赦しを願う前に、まずは人を赦す必要がある。そういう生き方をイエスさまは教えてくださいました。イサクは、そんな人を赦す生き方を、私たちに見せてくれたのです。彼は、アビメレクからの仕打ちを赦しました。そして神はそんなイサクを祝福し、新しい井戸を32節で与えてくださいます。人を裁くものではなく、赦すものであるように。そんな生き方を、神が励ましておられるのだと思います。
私も、伝道者になって二十七年を超えました。人とかかわる働きですから、人間関係の挫折や傷もいろいろ経験してきました。でも、受けたのは傷だけではなかったのです。傷ついた後に祈り続けると、不思議なように、どこかで和解が用意されるのです。中には、十数年を経ての和解もありました。しかも、そうした和解は、私自身が改めて福音を経験する恵みの機会になったのです。私たちが、人を赦すことができる。これは私たちが、十字架を見上げて歩んでいる証しです。私たちは今日も、主の祈りを口ずさみたいと思います。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」人を赦す時に私たちは、十字架によって私たちを赦してくださった、イエスさまの恵みを深く経験することができるのです。
3 普通の人
創世記が記すイサクの生涯は、井戸を掘り当てた33節で、一つの終わりを迎えます。次の章から、物語の主役は、ヤコブに移っていくのです。
そう考えると、イサクの人生はまことに地味なものでした。イサクは、アブラハムやヤコブと比べるとドラマの少ない人です。穏やかな性格も影響したのでしょうか。イサクは創世記中、影の薄い平凡な人物だろうと思うのです。
ですから、逆に驚きなのです。その普通の人イサクが、王アビメレクを恐れさせていくのです。そして、アビメレクを赦していくイサクの心の広さも驚きでした。こうした平凡ではあるけれど、苦難の中で成長していくイサクを見ていると、私は改めて思うのです。神さまの人を育てる御業は、何と見事なのだろうと。
イサクは普通の人です。長所と言えば争いを好まぬこと。でも、その長所も、裏を返せば臆病という、弱点になるかもしれない。26章始めを見てください。イサクには、人を恐れて妻を妹と偽るような、そんな気の弱さがあったのです。でも、そんなイサクを、神は時間をかけて育てていく。そして最後は、王に「主があなたとともにおられるのを見た」と言わせるほどに、成長を遂げていくのです。普通の人でも、信仰を通してここまで強くされていく。私たちは、人を育てる神の力を信じたいと思います。たとえ平凡な自分でも、神が育て、成長させてくださる。この神の御業に、私たちは信頼を寄せていきたいと願います。
私の妻の父は、牧師です。伝道者人生五十年を超え、今は岐阜県の病院にいます。昔、結婚前に、その父について尋ねたことがあるのです。「お父さんはどんな牧師なの?」と。その時の、妻の答えが印象的でした。「普通の人。特別な能力があるわけではないけれど、ただ神さまを信じて、福音を伝えてきた人。」これは、心に残るほめ言葉でした。
私たちは自分を、何か優れた者であるかのように見せる必要はないのです。普通でいいのです。しかし普通の人でも、神に信頼して生きるなら、人は証しできるのです。自分を通して働く神の素晴らしさを、証しすることができるのです。
冒頭の祈りで引用したのは、詩篇37篇3節でした。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。」私は、これがイサクの生涯であったと思います。私たちは普通でもいい。神さまにより頼む信仰こそが私たちを輝かせます。自分の能力でもなく、業績でもなく、ただ信仰で輝いていけるなら、それで十分。そんな生き方を教えてくれた私たちの先輩イサクを、心に留めたいと思うのです。お祈りします。
天にまします父なる神さま、信仰を与えてくださり、感謝します。信仰をもって生きる、私たちの姿が、聖霊の助けの中で、大きな証しとなりますように。私たちが、赦しと和解をもたらし、人々に福音を伝えることができますように。私たちを十字架でお赦しくださった主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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