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安息日の解放

 「安息日の解放」

ルカの福音書 13:10~17

 

マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と言って、イエスさまが地上でなされた業や話されたことなどが書かれています。それらには共通するエピソードが多くあるのですが、今日のエピソードはルカ独自のものです。また他の福音書にも安息日にまつわる論争はいくつかあるのですが、今日のテーマ「解放」が主題になっているのは、この個所だけなのです。いろいろと特別な個所なので、注意深く読み進めて行きたいと思います。

 

10節、「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。」

この時の安息日はまだ土曜日でした。正確には金曜日の日没から土曜日の日没までです。今のキリスト教では日曜日ですね。イエスさまの復活を記念して私たちクリスチャンは、日曜日を安息日として、仕事を休み、こうして教会に来て礼拝しています。十戒の第四戒は、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」ですから、聖書を規範として生きる私たちにとっては「安息日を守る」というのは大事な戒めです。コロナのせいで、一時期は会堂での礼拝が休止され、自宅での家庭礼拝に切り替えたこともありましたが、それでも日曜日は安息日、礼拝の日という認識は変わりません。安息日は大事に守られるべきです。

 けれども当時の人々には逆の問題がありました。十戒を真剣に守ろうとするあまり、安息日の本質、目的が忘れ去られ、安息日に関する細かい規定が独り歩きし始めたのです。その禁止事項は多岐に及んでいます。例えば、「種を蒔くこと」「収穫すること」「脱穀すること」「ふるいにかけること」「縄を結び、結び目を作ること」「文字は2文字以上書いてはいけない」「安息日に出歩くことのできる距離は1Kmまで。」などです。ユダヤ教では39の禁止事項にそれぞれ6つの細かい規定があり、39×6で234もの禁止事項があるらしいです。とにかくこんな背景があることを覚えておいてください。

 

11節「すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。」この女性に関する情報は16節にもあります。

16節「この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」

この女性はアブラハムの娘とありますから、ユダヤ人、イスラエル人です。そしてこうして不自由なからだで会堂に出て来て礼拝しているわけですから、とても敬虔な信仰の持ち主だったと言えます。ところがこの女性は、なんと18年もの間、腰が曲がったままでした。しかもその原因はサタンに縛られていたからだというのです。私たち歳をとれば自然に腰が曲がるものですが、おそらくこの女性は若いころからずっと原因不明の腰が曲がるという病いに冒されていたのです。ある注解者は、この病気は「変形性脊椎炎」ではないかと言っています。背骨の骨が溶けて、一つの塊になってしまう病気らしいです。おそらく痛みもあったでしょう。生活の不便もあったでしょう。そして腰が曲がると、ずっと地面を見ながら生活し続けなければいけならないのがつらいなと、私などは思うのです。先日は中秋の名月でしたが、みなさん空を見上げたでしょうか。「天高く馬肥ゆる秋」と言いますが、最近の突き抜けるような青空を見上げているでしょうか。また夕焼けもきれいですね。空を見上げる人生はとても豊かだと思います。私たちは天を見上げて神を思うからです。でもこの女性はいつも下を向いていました。サタンの究極の目標は、人を神さまから引き離すことなので、上を見上げさせないというのはいかにもサタンがやりそうな手口です。ところが、イエスさまがこの女性を見つけてくださいました。人ごみに紛れると、その腰の曲がった小さな体はすぐに見えなくなってしまうと思うのですが、イエスさまは彼女に目を留められたのです。

 

12-13節 イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。

イエスさまは会堂で教えておられましたが、その腰の曲がった女性に「ちょっとこっちにいらっしゃい」と呼び寄せました。そして彼女に「あなたは病から解放されました。」と言ったのです。実はこの「解放されました」との訳し方は、この2017年版の新改訳聖書で初めて出てきた訳です。それまでは、「病気が治った」「いやされました」などと訳されていました。けれどもこの言葉の原語リューオーというギリシャ語は、もともと「解放する」という意味で、そこに前置詞アポ〈から〉がついてアポリューオー「解放される」「釈放してもらう」「(借金などを)赦してもらう」などの意味を持つ言葉です。ですからこの「解放される」との訳がぴったりときます。そしてこの「解放する」というのがこのエピソードのキーワードになりますのでまた後で触れます。

 とにかくイエスさまは、彼女をまずイエスさまの権威、みことばの力で悪霊から解放してあげました。それから彼女に手を置いて、癒しを行いました。するとどうでしょう。彼女はたちまち腰が伸びて神を崇めたのです。下を向いていた人生が一転、上を見上げ、開口一番神を崇めたというのです。これで終わればめでたしめでたしなのですが、そうは問屋が卸さないというのがイエスさまの地上での生涯です。

 

14節 すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

「群集に言う」というのがいやらしいじゃないですか。イエスさま本人に言わないで、群衆に向かって、「みなさん見てください!この男は!」と訴えるのです。こういう人いますね。一人じゃ何もできない人です。そしてあたなのしたことは「安息日」の規定に反するじゃないかとイエスさまを訴えたのです。そして一部の人がその意見に賛同の声をあげました。

彼の言っていることは一見正論です。創造主なる神は、天地万物を六日で創造され、七日目に休まれました。神さまは全能ですし、霊的な存在ですから、休みのいらないお方です。実際詩篇121篇では、「イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」と書いてあります。けれども神さまは、人への模範を示すため、モデルになるため、もっと言うと人に生活のリズムを教えるために、六日間働いて七日目を休まれたのです。その背後には、疲れやすい肉体を持った人への愛と配慮があります。そして一週間の内一日を聖別して、心も魂も体もリフレッシュし、安息日のその一日は思う存分神さまのあたたかいふところで安息するようにと定められたのです。けれどもこの会堂司はこの戒めの本質がわかりませんでした。イエスさまは彼に言いました。

 

15-16節 「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

偽善者たち!とイエスさまは語気を強めておっしゃいました。イエスさまが一番嫌いな種類の人間は偽善者でした。偽善者の代表であるパリサイ人や律法学者とは何度戦ったことでしょうか。偽善者は表面的には正しいことを言うのですが、その内側は愛もまことの義もない、神のことも人のことも思わない、自己中心的な人間です。イエスさまはそんな会堂司たちに言いました。「あなたたちは、安息日には自分の牛やロバを飼育桶からほどいてやって、水を飲ませるじゃないですか。」と。彼らの規定からすれば、それは許されることでした。命に関わることは許されると言うのが彼らの安息日規程の例外でした。お水をあげなければ牛やロバは死んでしまうので、これは命に関わることです。ですからOKなのです。ここで言われている「ほどき」は「解放する」と同じリューオーが使われています。つまり、以下のような対比が成立します。「牛やロバ」「アブラハムの娘」、「一日の束縛」18年の束縛」、「飼葉桶の束縛」「悪霊の束縛」、思わず牛やロバと一緒にしないでほしいと言いたくなりますが、この会堂司の言っていることはまさにこの通りです。本来その重要性、緊急性から言っても比べられないような事を当てはめて、牛やロバの方が大事なんだと言っているようなものです。イエスさまお見事!と、うならないではいられません。

 考えてみれば、安息日は解放の日です。神は六日間働かれて七日目に働きから自らを解放しました。そして人にも七日目には日常から解放されるように命じました。そして新約の光に照らせばまさにそうです。私たちはイエスさまの復活によって罪と死から解放されたのです。復活を記念するのが安息日ですから、まさに安息日は解放の日なのです。

 

17節 イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

会堂司は、イエスさまに憤慨して群衆に訴えかけましたが、彼に賛同していた人たちはみな恥じ入り、その他多くの群集の心は彼から離れていました。そしてイエスがなさった輝かしいみわざを喜んだのです。

 

安息日は解放の日です。ですから私たちは毎主日こうして神を礼拝し、解放を喜びます。そしてこうして安息日を守りつつ、地上での生涯を終えると、今度は私たちには天の安息が用意されています。この地上で生きている限り、私たちは病に悩みます。老いに悩みます。絶えずあっちが痛い、こっちが痛いと言うのです。そして人間関係に悩み、経済的な事、生活に追われ、先々の心配や思わずらいの中にあります。けれども私たちには、最終的には天での安息が約束されています。そこでは罪や死、悩み、苦しみ、思い煩いから解放され、神さまのふところで本当の安息が与えられます。そしてその安息は、イエスさまを信じる私たちにすでに始まっているのです。この地上ですでに始まっています。毎週こうして安息日に集まって、神さまを礼拝することによって、天の安息の前味を味わっています。そして今日、久しぶりに聖餐式がありますが、この聖餐式も天の食卓、天で行われるセレブレーションの前味なのです。今日は一切の束縛から解放されて、共に感謝してこの聖餐に与かりましょう。お祈りします。

 

私たちをあらゆる束縛から解放してくださいます天の父なる神さま。尊いお名前を心か賛美します。私たちは日ごろ多くの束縛の中で生きていますが、イエスさまはまずは私たちを縛ってきた罪と死の束縛から解放してくださり、最終的には御国で完全な解放を与えてくださるので感謝します。どうぞ毎主日、私たちはこの解放主なる主イエス・キリストを覚えて礼拝をささげ、御国の安息の前味を味うことができますように。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン


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