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主にあって、人をつなぐ(ローマ人への手紙16:1-2)

 

「主にあって、人をつなぐ」 (ローマ16:1-2

齋藤五十三

  最初に、今日、新船橋キリスト教会にあって礼拝を共にしている皆様によろしく、とお伝えします。

オンラインにて礼拝しておられますお一人お一人によろしく。また、礼拝堂に集っておられるお一人お一人にもよろしく。

  「五十三先生、今朝はどうしたのか ... 」と不思議に思われた方もおられると思います。確かに、少し普段と違う挨拶で始めました。実は私たちの教会の実習生として良い交わりをいただいております、木田友子姉の出身の教会のグループである「ミッション東北」という団体があります。毎年秋に、ギリシャ語で交わり、或いは共同体を意味する、「コイノニア」という名前の集いを10月に持っておられるそうです。今年は、それをオンラインの「礼拝」として行うので、御言葉から語って欲しい、という依頼を受けました。そのコイノニア礼拝のために準備したのが、本日の説教です。お会いしたことのないミッション東北の教会の方々を思いながら準備をしたのですが、その準備の中で、私自身、教えら、また励ましをうけるところが多くありました。それは、私たちキリスト者の交わりを深いところで繋いでいるものは、いったい何かいうことです。準備する中、私も励まされましたので、「ぜひ」新船橋キリスト教会の皆さんにも分かち合いたいと願った次第です。

 冒頭の「よろしく」「よろしく」の意味は、本日、共に御言葉に聴いていく中で、明らかになると思います。ご一緒に御言葉に聴いて参りましょう。 

お祈りします。

  天の父よ、感謝します。主にある新船橋キリスト教会の皆様と礼拝を共にするこの交わりのうちに、聖霊が豊かに働き、私たちの心を照らし、キリストの御声を聴かせてください。生ける御言葉、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン! 

1.    教理と実践の向こうに

1節 「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。」 

  ローマ人への手紙をずっと読み進めてくると、最後の16章に入って、その冒頭、フィベという個人名が出てきます。そして「推薦します」とパウロが語っていく。私は、これを読んだ時に最初、意外に感じました。

  それはローマ書という書物の性格によるものです。ローマ書は、聖書の中でキリスト教の教えの体系を最も整った形で語る書物です。そして、その教えをどのように実践するかも語られている。それは、この一書をもって、キリスト教とは何かを語れてしまうほどです。ローマ書はそれほどに神学的に深い書物。でも、そのローマ書の結びに「フィベを推薦します」と個人名が出てくる。私は、それが「意外だ」と感じたのでした。

  でも、いろいろ思いめぐらす中で気づいたのです。ローマ書を通じてパウロが神学や実践を語る時、そのパウロの目には、手紙の向こうにいる、リアルな人々の顔が浮かんでいたのです。パウロは何も机の上で、頭だけの神学をこねくり回していたのではなかった。パウロは、具体的な「人」を見つめながら、神学を語っていたのです。それは、私も一緒です。今、このように語る時、私は、礼拝堂に会している方々だけでなく、オンラインで礼拝をささげておられる方々も思い浮かべながら語っています。 

 まことに深く豊かなローマ書の結びに「フィベを推薦します」との一言。 これは、キリスト教がどのようなものかを、実によく物語っています。キリスト教とは、学問でも単なる思想でもない。それは、神の恵みに生かされたキリスト者たちが、互いに繋がり合い、豊かな交わりを育んでいく。キリスト教は、そうした生き方です。今日は特に、キリスト教とは、人と人をつないでいく生き方。この「つなぐ」をキーワードに、御言葉を思いめぐらしたいのです。

 2.    人をつなぎ、支え合う 

 キリスト教とは、神の恵みに生かされたキリスト者たちが、人と人をつないでいく「生き方」である。それがよく現れているのが、冒頭の言葉です。「フィベをあなたがたに推薦します。」パウロはこのようにローマ教会に向け、彼らがこのあと出会うことになる一人の姉妹を推薦することで、新しい交わりを生み出そうとしている。そう、「交わり」を生み出そうとの、パウロの思いがここに込められています。

  このフィベという女性、ケンクレア教会の中心的な奉仕者のようです。ケンクレアは、コリントの近くにある港町。おそらくフィベは、港から船で旅立ち、ローマの教会へ、パウロの書いたこの手紙を携えて行った人物だろうと言われています。それを思えば、「フィベを推薦します」というのは、自然なことであったでしょう。 いや、実はローマ書だけでなく、パウロはしばしば手紙の終わりで、人の名前を挙げては紹介や推薦をしていました。たとえばコリント人への手紙、第一の最終章では、テモテをよろしくと、パウロは紹介していたでしょう。

  そのように手紙の終わりで人を推薦するのは、ごく自然なことですが、このフィベに関してはかなり念入りです。フィベを歓迎した上で、助けが必要なら、どんなことでも助けて欲しいと、頼んでいるこの内容だけを取り出して読むと、「まあ、よくここまで頼むな」と思ってしまう。でも、流れの中で読むと、少しも押しつけがましくないのです。どうしてでしょう。それは「主にあって」、「どうか、聖徒にふさわしく、主にあって」、この一言が、隠し味のように効いているのです。そう、人と人を結ぶ、結びめは「主」です。「主にある」から、人と人がつながり、交わりが広がっていく。 

  皆さんも経験がおありでしょう。相手が、「主にある」信仰者である。ただ、このことのゆえに、初めて会った人でも、初対面とは思えない親しさを感じる。そして、祈りも共にできる。さらには「主にある」からこそ、これから出会う人をも支えていける。そこには兄弟姉妹としての交わりが、すぐに育っていくのです。 

  2節でパウロが口にした「助けてあげてください」という言葉、これはまことに親しい響きのある言葉で、「寄り添ってあげてください」とも訳せる。フィベを歓迎し、「どんなことでも寄り添ってあげてください」とは、なかなかに良い響きではありませんか。

  こういう親しさ、まだ会ったことはなくとも、「寄り添って欲しい」という交わりの広がり。これは一つの教会の枠を超えて広がっていく交わりです。実に親しく、温かい。私たちの教会にも、近隣の親しい関係にある五つの教会の繋がりがありますね。よく「五教会」(五つの教会)と呼んでいます。私たちの中にも、そうした一つの教会を超えた交わりが、「主にあって」すでにあるのです。そして、そこにたとえ、まだ出会ったことのない方がおられても、主にあって、潜在的に出会っているのです。

  でも、どうしてパウロは、このようにして心を砕いて、人と人を「主にあって」つなごうとしていくのでしょう。それが「主にあって」は自然のことであるとはいえ、パウロの心配りには、強い思いが込められていると感じます。 

  私は今、パウロの過去を思い出しています。パウロはかつて、キリスト教の迫害者でした。パウロ(当時はサウロ)のゆえに、おそらくは命を失ったキリスト者たちもいたことでしょう。そのため、彼がダマスコ途上で復活のキリストに打たれて伝道者となった後も、誰もサウロを信用せず、近づく人はいなかった。でも、そんな時に、「つないで」くれた人がいたのです。「慰めの子」と呼ばれるバルナバでした。使徒9章27節に「しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き」とありますね。パウロには、バルナバによって自分がつないでもらったという、忘れ得ぬ過去の経験があったのです。

  カウンセリングの世界では、人をケアするカウンセラーの資質の一つは、誰かにケアされ、支えられた経験があることだそうです。人にケアされた経験のある人は、人の痛みが分かり、今度は人をケアする人になることができる。パウロには、つないでもらった過去があった。だから今度は、人と人をつなごうとしていく。 実は、これはパウロだけではない。主にあって、教会の交わりに生きる私たちは誰でも、振り返ると、誰かにつないでもらい、支えられた経験があるのではないですか。 私も支えられっぱなしです。いろんな方々に。  ケンクレアの教会には、フィベに支えられた人たちが多くいた。「彼女は、多くの人の支援者で、私(つまりパウロ)自身の支援者でもあるのです。」

  これが、キリスト教の神学を語る、ローマ書の最終章です。まるで、これこそが、福音を握る私たちの生き方なのだ、と語っているかのよう。ローマ12章の「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい」との言葉が思い起こされます。また、その交わりが深められる中で、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共になく」という、ローマ1215節の実りも結ばれていくでしょう。 

私は、最近気に入っていて、よく口ずさむ歌があるのです。

「イエスが愛したように」という歌。「イエスが愛したように、私たちも愛し合う。その愛の中で枝となるとき、多くの実を結ぶ。人が友のため命を捨てるほどの愛はない。共に支え合い、共に助け合う。イエスの愛で。共に祈り合い、共に笑い合う。イエスの愛の中。」クリスチャンシンガーとして長く活躍しておられる長沢崇史さんの作詞、作曲です。いい歌詞でしょう。キリストに結ばれ、一人一人が枝となり、互いに結ばれるときに、そこに支え合う交わりが広がっていく。 

3.    顔の見えない人の間にも

  最後に、この広がりの豊かさを味わって、御言葉の時を結びたいと思います。

  主にあって広がりゆく「つながり」と、そこから生まれる交わりは豊かです。それは16章の続きを読むと分かるでしょう。パウロは単にフィベの紹介だけでは終わらない。3節から16節まで、「よろしく」「よろしく」と繰り返し、総勢26名の人々をパウロは繋ごうとしていきます。しかも、それらの名前のリストには、パウロ自身ですらまだ会ったことのない人々の名前が含まれている。パウロ自身がまだ会ってはいない。それでも、「よろしく」「よろしく」という、繋がり。もう、圧倒される思いですが、この広がりの隠し味もまた、「主にあって」。

  「主にあって」私たちは、たとえ顔は見ずとも、すでに出会っている。だから16章1節でパウロは、ローマの人々に、まだ出会っていないフィベを「私たちの姉妹」、ローマの兄弟姉妹も含めて、「私たちの姉妹」と呼んでいきます。そうでした。「主にあって」実はつながっている。この広がりと、この豊かさ、要は一つです。 

  この夏、新船橋キリスト教会のある朝の祈り会の日にこんなことがありました。千恵子牧師が、いつものように教会の玄関を開けようとすると、玄関前の椅子に、五十代の、如何にもホームレスといった疲れた男性が座っていました。ちょっと緊張したそうです。でも話を聞くと、仕事が見つかって大阪から関東に出てきたが、その仕事がなくなって、しばらくの間、食うや食わずだという。しかも、クリスチャンだというのです。その男性、いや、兄弟を教会の中に入れて、そのまま、他の婦人方も加えて祈り会になりました。一緒に祈ると、すぐに分かったそうです。その兄弟が本当に信仰を持っていると。そして、初対面とは思えぬ良い祈りの交わりを持ち、その後、妻は大阪でホームレス支援をしている牧師に、その兄弟をつなぎ、送り出すことができたのでした。「主にある」とは、こういうことなのでしょう。 

 今日、いつも礼拝を共にしておられる皆さんに向かってではありますが、私はそんな思いで、新たな気持ちで向き合っています。皆さんと私の間には、深いつながりがあります。それは単に礼拝を共にしているというレベルを超えたつながり。つなぎ目は、「主にあって」。それゆえに「よろしく」「よろしく」と親しくお伝えしたい、との思いが溢れています。主にあってつながっている兄弟姉妹の皆様によろしく。「主にあって」よろしく。お祈りします。 

天の父よ、感謝します。主にあって広がりゆく、この豊かな聖霊の交わりの中で、共に愛し合い、仕え合い、キリストに似た者へと成長していく私たちとしてください。教会のかしら、大牧者であるキリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!


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