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7月, 2026の投稿を表示しています

しかし私の恵みは(Ⅱサムエル記7章1~16節)

  聖書箇所 第二サムエル 7:1-16 説教題「しかしわたしの恵みは」   導入 今朝、皆さんと一緒にお読みした聖書箇所は、いわゆる「ダビデ契約」という、聖書全体においても重要な出来事を取り扱っています。このひととき、共にみことばから教えられながら、神さまがダビデにどんな約束をなさったのか、そしてその約束は私たちにとってどのような意味をもたらすのかをみていきましょう。   背景 まずは、この箇所の背景を見てみましょう。この前の章で、ダビデは神の箱を都に運び込んだばかりでした。神の箱には、出エジプトのときにモーセが神から授かった十戒が刻まれた石板が納められています。神様が共にいてくださることを意味する大切な箱でした。しかしこの箱は、政治の中心から離れた場所に、長い間放置されていたのです。神の箱を運び込むというのは、ダビデのたっての願いでした。ダビデはサウルの家との長い戦いを終え、イスラエル全体の王となりました。そして都をエルサレムに移すとすぐ、神の箱を運び入れたのです。今や、神は私たちと共におられる。その喜びのあまり、ダビデは人目も憚らず跳び上がり、踊り回ったといいます。   ダビデの願い (1-3) さて、ダビデの次の願いは、神の家、神殿を建てることです。ダビデは自分の家に住んでいました。もう敵から逃れて身を隠す必要はありません。 1 節には、主は周囲のすべての敵からダビデを守り、安息を与えていたとあります。もう自分たちは移動する民ではない、神がアブラハムに約束された、あの約束の地に定住する王国となるのだ。神が統治する王国で次にすべきは神殿の建設である。周辺の異教の文化においても、神々に対し、大きく立派な神殿を建てるということはなされていました。このダビデの願いは、一国の王として当然のアイデアだったと言えます。   しかし同時にこの願いは、ダビデ個人の信仰の表れでもありました。ここまでイスラエルの民を導いてくださった神への感謝を表したい。羊飼いの家の末っ子だった自分が、神の代理者である王として選ばれ、今安息が与えられている。それなのに、自分は立派な家に住んでいて、神の箱は天幕の中に住んでいる!ダビデの純粋な信仰が伝わってくるようです。 2 節の「天幕」という言葉に注目し...

わたしは戸の外に立って(ヨハネの黙示録3章14~22節)

  「わたしは戸の外に立って」 (黙示録 3:14-22 )   はじめに   20 節「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。  この 20 節は、本日の箇所において最も有名な御言葉です。 19 世紀イギリスの画家ホルマン・ハントが、この「戸の外に立って叩くキリスト」を絵にしました。 20 節は絵になるほどに有名な御言葉なのです。 この御言葉は、しばしば伝道メッセージの中で、まだ信仰を持っていない方を信仰に導くために用いられてきました。「さあ、今こそ心の戸を開いてキリストを信じなさい」という招きを、私もかつて聞いたことがあります。  ところが、ところが…。改めてこの箇所を読んでハッとしたのです。この御言葉は本来、まだ信仰を持っていない未信者に語られたものではないのです。キリストは戸の外に立ちながらラオディキアのクリスチャンたちに語っていたのでした。未信者に、ではなく、クリスチャンたちに心の戸を開けなさいと語り続けるキリストです。いったい、ラオディキア教会では何が起こっていたのか。  ラオディキアの町は、手紙が宛てられた七つの町の中でも最も東にありました。今のトルコの南西部です。町は二つの交易路の交差点にあったため、商業が盛んで産業も育ち、七つの中で最も豊かでした。産業は毛織物、その他、薬も有名で、特に目薬は評判でした。薬なので医学も発展し、町には医学の学校もあったそうです。  その豊かな町の教会もまた富んでいました。多くの献金が集まり、財政的にも潤っていたのです。しかし、何ということか。豊かですべてがあるかのように思われた教会に、もっとも大切なお方、すなわちキリストがいなかったのです。キリストはどこに ? そう、戸の外です。長い時間立ち続け、「開けておくれ」と叩き続けるニュアンスを聖書原文は伝えます。いったい何があったのでしょう。  ラオディキア教会は、キリストのいない教会。その教会に、主は戸の外から語りかけていくのです。   1.    貧しくて盲目 14 節「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真...

ファラオの夢(創世記41章1~57)

  「ファラオの夢」 創世記 41 章 1 ~ 57 節 1節「それから2年後」 ヨセフが濡れ衣を着せられて、投獄されていたときに、もともと宮廷に仕える献酌官長と料理官長の夢を解き明かしてあげました。果たして、その夢は3日後に実現し、献酌官長は再び王のもとで仕えることになりました。その時にヨセフは、自分は無実の罪でここに収監されているのだから、私がここから出られるように取り計らってほしいと、献酌官長にお願いしたのですが、献酌官長は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。それから 2 年が経過したときのことです。 17 歳で兄たちに奴隷として売られたヨセフは、もう 30 歳になっていました。長くてつらい1 3 年間でした。   その頃、エジプトの王ファラオは夢を見ました。不思議な夢でした。ファラオがナイル川のほとりに立っていると、つやつやした、肉付きの良い雄牛(水牛)が7匹上がってきて、葦の茂みの中で草をはんでいました。のどかな光景です。ところが、しばらくすると、今度は醜く痩せ細った別の雄牛が7匹、ナイル川から上がってきて、先の肥えた雄牛をそれぞれ一匹ずつ食い尽くしてしまったのです。 ファラオは、びっくりして目が覚めましたが、再び寝入ると、またも不思議な夢を見ました。そこには一本の茎によく実った7つのよい穂が出てきました。ところがそこに、焼けてしなびた7つの穂が出てきて、やはり、先の7つのよく実った穂を飲み込んでしまったとのいうのです。 さすがに続けざまに不気味な夢を見たファラオは不安になりました。そして朝になると、国中の呪法師や知者と呼ばれる人たちを呼び寄せ、ファラオが見た夢の意味を解き明かさせたのです。ところが、いつもならやすやすと解き明かす彼らが、今度ばかりは、誰も説き明かせなかったというのです。そうなると、ファラオはますます不安になります。心が落ち着かず、何とかこの夢の意味を知りたいと心焦るばかりでした。 そんな王の様子を見て、献酌官長はやっとヨセフのことを思い出しました。「王さま、私は大変な過ちを犯しました。かつて私が投獄されていたときに、私の夢を解き明かした若者がおりました。彼は、『自分は無実の罪で投獄されているのだから、あなたが再び王に仕えるようになったら、口をきいて、私をここから出しておくれ』と...

夢を解くヨセフ(創世記40章1~23節)

  「夢を解くヨセフ」 創世記 40 章1~ 23 節 39章を読んでから40章を読むと、ある一つのことに気が付きます。39章では、あれほど繰り返し「主がヨセフとともにおられた」と、また「主がヨセフを成功させ」とあったのに、40章になるとぱったりそれが出てこないのです。主はいなくなってしまったのでしょうか。主はもうヨセフとともにおられないのでしょうか。私たちの人生にも、思わずそう思ってしまう時があります。 幸い私は、それほどの心の闇を経験したことがありません。けれども私の知り合いで、双極性障害をもっておられる方おられます。その人は、とても敬虔な信仰の持ち主で、元気な時は小さなこと一つ一つ主に感謝して、主と共なる人生を楽しんでいるのですが、一旦うつ状態になると、落ち込みがひどく、本当に死にたくなるのだと言います。その人は言います。「何がつらいかって、神がいなくなってしまうことだ」と。暗闇のどん底で、神が見えなくなってしまう。どんなにつらくても主がともにいてくださると信じられれば、闇から抜け出す手がかりも見つかるのだけれど、どんなに泣こうが喚こうが、神は答えてくださらない。「神はいない」、それは絶望でしかないのだと。 ただ安心してください。神はおられます。私たちとともにおられます。私たちがそれを感じられなくても、信じられなくても、神は私たちの傍らにおられるのです。そしてともに苦しみ、ともに悲しみ、ともに泣いておられます。 主が39章で、「主はともにおられる」と何度も繰り返されたのは、40章で迎える圧倒的な暗闇、絶望としか思えない状況でも、主がともにおられることを思い出すことができるようになるためです。何もうまくいかない、八方ふさがり、希望のかけらも見つけられない、そんな時にも、主がともにおられることを忘れないためだったのです。   ヨセフは冤罪で監獄へ入れられました。先回も触れましたが、ひょっとしたらポティファルはヨセフの無実を知っていたのかもしれない。ヨセフがポティファルの妻にいたずらをしようとしたというのは、妻の虚言かもしれないとうすうす気づいていたのかもしれない。それはこの後のヨセフへの処遇を見ると、ますますそう思われてきます。 ヨセフが入れられた監獄は、ポティファルの管轄にありました。その監獄は、私たちがイメ...