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わたしは戸の外に立って(ヨハネの黙示録3章14~22節)

 


「わたしは戸の外に立って」(黙示録3:14-22

 

はじめに

 20節「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。

 この20節は、本日の箇所において最も有名な御言葉です。19世紀イギリスの画家ホルマン・ハントが、この「戸の外に立って叩くキリスト」を絵にしました。20節は絵になるほどに有名な御言葉なのです。

この御言葉は、しばしば伝道メッセージの中で、まだ信仰を持っていない方を信仰に導くために用いられてきました。「さあ、今こそ心の戸を開いてキリストを信じなさい」という招きを、私もかつて聞いたことがあります。

 ところが、ところが…。改めてこの箇所を読んでハッとしたのです。この御言葉は本来、まだ信仰を持っていない未信者に語られたものではないのです。キリストは戸の外に立ちながらラオディキアのクリスチャンたちに語っていたのでした。未信者に、ではなく、クリスチャンたちに心の戸を開けなさいと語り続けるキリストです。いったい、ラオディキア教会では何が起こっていたのか。

 ラオディキアの町は、手紙が宛てられた七つの町の中でも最も東にありました。今のトルコの南西部です。町は二つの交易路の交差点にあったため、商業が盛んで産業も育ち、七つの中で最も豊かでした。産業は毛織物、その他、薬も有名で、特に目薬は評判でした。薬なので医学も発展し、町には医学の学校もあったそうです。

 その豊かな町の教会もまた富んでいました。多くの献金が集まり、財政的にも潤っていたのです。しかし、何ということか。豊かですべてがあるかのように思われた教会に、もっとも大切なお方、すなわちキリストがいなかったのです。キリストはどこに? そう、戸の外です。長い時間立ち続け、「開けておくれ」と叩き続けるニュアンスを聖書原文は伝えます。いったい何があったのでしょう。

 ラオディキア教会は、キリストのいない教会。その教会に、主は戸の外から語りかけていくのです。

 

1.   貧しくて盲目

14節「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──』。

これがラオディキア教会に語るキリストの姿です。「本当のこと」を意味するアーメン、そして確かで真実…。ここに際立つのは真実、誠実なキリストの姿です。そのキリストが語るのですから、当然語る言葉も真実でした。そこには誇張が一切ないのです。

締め出されてしまったのか、戸の外に立って叩くキリストでした。この姿ゆえに弱弱しいと感じる方もあるでしょう。しかし違いました。キリストは「神による創造の源」、世界を造られた神の御業を一緒に担ったお方でもありました。世界を造るほどに力あるお方が、戸の外に立って真実に語りかけている。力を出せば、いともたやすく戸を打ち破ることができるのに、それをせずに戸を叩いている。まずはこのキリストの姿を心に焼き付けたいと思います。

このお方は真実です。それゆえにキリストが伝える教会の様子も誇張のない、本当の姿でした。

 

15-17節「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」。

「冷たくもなく、熱くもない」というのは、信仰の持つ霊的な熱量です。冷たいか熱いか、そのどちらかであって欲しいとキリストは語ります。信仰の熱量において、熱い方がいいのはよく分かります。しかし、果たして冷たくても良いものか、私たちは疑問に思うのではありませんか。

後にキリストは19節で「悔い改めなさい」と命じます。伝道者がしばしば経験することですが、冷たい反応の人の方が、逆に悔い改めに近い、ということがあるのです。時折、信仰に対して冷めている人、あるいはネガティブに反対する人がいます。しかし、そういう人が意外に、いったん信じると熱く燃え始めることがあるのです。その良い例が使徒パウロでしょう。彼はかつてキリスト教の迫害者でした。しかしキリストに出会って一転、熱心な伝道者となっていく。そう、冷たい人の方が実は悔い改めに近いのかもしれない。

それよりも本当に厄介なのは「生ぬるい人」だとキリストは言います。自分のほどほどの信仰で満足する人は、実は悔い改めから遠いとキリストは言われるのです。

ラオディキア教会は生ぬるい教会でした。そんな教会を主イエスは相当に忍耐しているようです。でも我慢も限界に近づいて、今や口から吐き出す寸前でした。イエスさまの堪忍袋も尾が切れようとしていたのです。

ラオディキアの人々は、生ぬるさがどれほど不快であるのか、それをイメージできたと思います。ラオディキアは物質的には何でもある町でしたが、ただ一つ欠いているものがあったのです。それは飲み水です。ラオディキアには良い水源がありませんでした。水がなければ生きていけませんから、近くの町の温泉から、石の用水路で温泉水を運んでいたのです。生活用水にはなったのでしょうけれど、飲み水にはなりません。温泉に含まれるミネラルが強すぎて到底飲めない。口に含むとぬるくてまずい。すぐに吐き出すことになったのです。

まずい温泉水を口に含むかのように、キリストはこらえていました。生ぬるいラオディキア教会の信仰に対し、我慢を重ねていたのです。

しかし、自分の姿は見えにくいもので、教会の自己認識は全く違いました。「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もない」。何という違いでしょう。確かに経済的には豊かだったでしょう。けれども主イエスの前には貧しい。ここで問題になるのは、霊的な信仰における貧しさです。ラオディキア教会は、自分たちの貧しさに全く気付いていないのです。このあたり、すでに学んだスミルナ教会とは全く逆でした。スミルナは経済的に乏しく貧しい教会です。しかしスミルナ教会は信仰においてキリストの前に「豊か」でした。教会の豊かさ、貧しさは、私たちには簡単には見極められない。「豊かだ」と思っても、実は貧しいことがある。「貧しい」と項垂れていても、実は豊かなことがあるのです。

 

2.   愛する者を叱る

このようにラオディキア教会に向けて語られるキリストの言葉は、実に率直で厳しいのです。17節後半では、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸」と、五つの形容詞が並べ立てられていますね。キリストがラオディキア教会に相当な我慢をしていることがすぐに分かります。もはや口から吐き出す直前なのです。

しかし、それでもキリストはこらえるのです。こんな教会でもなんとか立ち直るようにと、適切な処方箋を示していきます。

 

18節「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」。

 教会のかかえる具体的な三つの問題、貧しさ、裸、盲目を解決するために、キリストは素早く処方箋を提案します。教会の病を見抜く名医の主イエスです。処方箋のポイントは、「買いなさい」ということ。特に重要なのは、「誰から」買うかいうことです。キリストは「わたしから」と言われました。ここに、処方箋の強調があるのです。

 

 お金の使い方は興味深いものです。お金の使い方を見ると、その人の価値観が如実に分かることがあります。

 かつて台湾にいた頃に、お金の使い方に関して子どものひとりを叱ったことがありました。旅先の遊具施設にあったゲームに、お小遣いを使っているのを叱ったのです。私はまだ若い父親でしたので、強く叱りすぎてしまったと、ときどき思い出しては今も後悔しています。旅先での小さな楽しみを見守る心の余裕くらいあっても良かったのではないかと…。

 私としては、お金の適切な使い方を教育したいとの強い思いが言葉になって出てしまったのです。それは、自分自身のかつての使い方に後悔があるからです。「どうしてあんな物を買ってしまったのだろう」との、子どもの頃の悔いが今も私の心にあります。

 主イエスは、「わたしから」買いなさい、と言われました。教会は買い物を間違えていたのです。買う相手も間違えていました。キリストが教会に向けて特に指摘する「貧しさ、裸、盲目」という病。これら病の癒しは、本当に価値あるものを、他でもないキリストから買うことによって始まるのです。

 ラオディキア教会は豊かな教会でした。お金をふんだんに使う教会でもあったでしょう。そんな豊かな教会に対して厳しい言葉を語るキリストです。あなたたちは買い物を間違えているのだ、と。キリストは今や口から吐き出す一歩手前。言葉も厳しくなるでしょう。

 ここでキリストが「買うように」と命じている品々は、主がこの町をよくご存じであることを物語っています。「火で精錬された金」は、純度の高い金です。キリストは、今の教会の豊かさが、実は不純なまがい物に過ぎないことを指摘しているのです。またラオディキアは毛織物が盛んでした。その町の教会に、毛織物ではなく、罪からのきよめを表す白い衣を買えと言うのです。もう一つの買い物は目薬です。目薬のことはよく知っていると思っている人々に、キリストのもとには、あなたの知らない目薬がある。目を開け、と語り掛けているのです。

 このように教会の問題を指摘して的確に処方箋を突き付ける主イエスでした。でも、少し心配になりました。ここまで的確だと逃げ場がなくなって、人は追い詰められてしまうかもしれない。全てにダメ出し、零点だと逃げ場がないのと同じです。そんな教会に、キリストはついにご自分の心を見せていくのです。

 

19節「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」。

教会に対して「愛する者」と語られるのは、このラオディキア教会が唯一です。もっともダメ出しの多い教会ラオディキアに、主イエスは唯一「愛」を示したのです。愛するからこそ叱る。これは本物の愛でした。今朝の招きの御言葉を思い出します。箴言3章12節。「父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る」。

 

3.   どのように悔い改めるのか

 真剣に愛しているからこその叱責でした。何とかして教会を助けたい、その思いが、この厳しい言葉となって表れていたのです。

 それほどの真剣な愛と知れば、教会も、そして私たちもそれに応えたいと思います。それでは精錬された金、白い衣、目薬をどのようにしてキリストから買うことができるのでしょうか。その答えが20節です。

 

20節「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。

 「わたしの声を聞いて戸を開けるなら」とあります。大事なのは呼び掛けるキリストの御言葉に応答することです。キリストの声を聞いてその言葉に応答すれば、精錬された金、白い衣、まことの目薬を買うことができるのです。

 キリストは「だれでも」と言われます。ひとりひとりが主の語り掛けに応答して個人的に心を開くようにとの招きです。開くなら食事を共にすることができるのです。食事、それはいのち、人生を豊かにする営みです。そうです。福音書においてイエスさまがしばしば罪人たちと食事を共にしたように、キリストとの食事は、出会う人々のいのちを潤していくのです。

 

結び

 キリストは「戸の外に立って」いる、と言われます。キリストは外に長い間立っていたのです。それなのに教会は気づいていなかった。

 ホルマン・ハントの絵画は、実は教会、クリスチャンの心の戸を叩くキリストの姿でした。私たちの教会は大丈夫でしょうか。私自身は、大丈夫でしょうか。心を探られる思いです。キリストを立たせたままで気づかずにいることはなかっただろうか。

 キリストは真実にして創造の源。入って来ようと思えば力づくでも入れるのです。それでも、決してこじ開けずに戸を叩いている。御言葉は聞こえているでしょうか。キリストは今日も語っています。キリストの真実な声に耳を傾けていきたい。キリストのいない、キリスト教会に陥ることのないように、聖霊に助けて頂きたい。そのように心から願ったこの朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。

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