スキップしてメイン コンテンツに移動

信仰者が見る世界(創世記24章)


2025/8/24

創世記24:1-67「信仰者が見る世界」

この主の日の朝、新船橋キリスト教会の皆さまとご一緒にみことばに聴けることを主に感謝しています。今日私たちが開いているのは、創世記24章です。新船橋キリスト教会では創世記を順番に読み進めていると伺っていますが、実は私がお仕えしている教会でも創世記を読み進めています。今回、こちらでどの箇所から説教をするか千恵子先生にご相談したところ、せっかくなら創世記の続きをそのまま読み進めようということになりまして、今日は先週の23章に続いて、24章を開いています。ご一緒にみことばに聴いていきましょう。お祈りします。

 

無茶なミッション?

この24章、大変長い1章です。五十三先生の素敵なお声で1章全部を朗読していただくのもいいかなと思いましたが、中身を見ると、情報が繰り返されている部分もありますので、抜粋して1-28節と、50-61節を読んでいただきました。

まず、事の経緯を確認しておきましょう。24章は、アブラハムがしもべにある重大なミッションを託すところから始まります。1節を見ると、「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた」とありますから、アブラハムは遺言に近いような思いでこのミッションを託したのかもしれません。実際、今日の箇所の最後にアブラハムは出てきませんから、アブラハムはこのしもべが出かけている間に息を引き取ったのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、アブラハムは「自分がこの世を去る前に何とか」という思いで、しもべにミッションを託しました。

ミッションの内容は、いわゆる「嫁探し」です。彼らが今滞在しているカナンの地ではなく、アブラハムの生まれ故郷に行って、息子イサクの妻になる女性を探してきなさい、という内容です。結婚というのは家と家が結ばれることでしたから、カナンの女性と結婚する場合、アブラハム一族はカナンの人々と同化することになってしまいます。すると、カナンの人々が信仰していた異教の神々や風習がたくさん入ってくることになります。それでは、神さまの祝福の約束を子孫に受け継いでいくことができません。だから、私の生まれ故郷に行って探してきなさいと命じたわけです。また、たとえその相手がこの地に来ようとしなかったとしても、逆に息子イサクを連れて戻るようなことをしてはならない。それもまた、「あなたの子孫にこの地を与える」という神さまの約束を蔑ろにすることになってしまうからです。

これは冷静に考えると、かなり無茶なミッションです。そんな誘いに応じてわざわざこちらに来てくれるお嫁さんなど果たして見つかるのか。しかしアブラハムは言います。7節「天の神、主は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。」神さまがあなたの前に御使いを遣わしてくださる。だから大丈夫。きっと神さまがこの旅を成功させてくださる。アブラハムは神さまに信頼していました。

けれども、アブラハムが言うように、この後の物語の中で御使いは登場するでしょうか。登場しません。それどころか、今日の箇所で神さまご自身は一切表に出てきません。神さまのことばは一切記されていませんし、「そこで主は〇〇した」ということも書かれていません。登場人物リストに神さまは出てこないわけです。しかし、この箇所の登場人物、アブラハム、しもべ、リベカ、ラバンは全員、この事の背後に神さまがいることを認め、信じています。神さまがすべてのことを導いておられると確信している。

 

しもべの信仰

まずはしもべです。しもべは町に到着した後、町の外の井戸のそばで神さまにしるしを求めます。「この井戸に水を汲みに来た女性の中で、私と私のらくだに水を飲ませてくれた人こそが、あなたがイサクの妻として定めておられた人です」。こういった神さまにしるしを求めるという行為は少し注意が必要です。場合によっては、自分の思い通りに神さまを動かそうという思いが働いてしまうことがあるからです。「神さま、あなたならこうしてくれるはずでしょう!」神さまをコントロールしたいという思いが背後に潜んでいる可能性がある。

しかしこのしもべは違いました。まず、彼が求めているしるしには明確な根拠があります。注目すべきは、しもべだけでなく、らくだにも水を飲ませるという点です。犬に水を飲ませるのとは訳が違います。皆さんはらくだが一度にどれだけ水を飲むかご存知でしょうか。100ℓほどは飲むようです。しかもしもべは何頭のらくだを連れていたか。10頭です。もちろん10頭みんなが100ℓずつ飲んだとは思えませんが、それにしても相当な回数井戸から水を汲み上げる必要があります。かなり大変な作業です。しもべはそれを理解した上で、「それだけ広いもてなしの心をもっている女性こそ、イサクの妻にふさわしいはず!神さま、きっとそうですよね!」神さまに確認を求めたのだと思うのです。神さまを試すような意図はなかったはず。

そして、このしもべは謙虚さを忘れていません。12節「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。」神さまに対する謙虚な祈りです。また彼の謙虚さは、祈りがかなえられた後の彼の反応を見ても分かります。26節を見ると、彼はすぐさまひざまずき、主を礼拝したとあります。また52節、リベカのお兄さんラバンの許可が得られた後も、「アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した」とあります。「神さま、ありがとうございます!」すぐさま神さまに感謝をささげている。自分の計画が優れていたからではなく、自分の誘い文句がうまかったからでもなく、ただ神さまの取り計らいによってこのことが実現した!すべては神さまのおかげ!そう確信していたからこそ、しもべの心はすぐさま神さまへの感謝に向かっていったのです。

また、もし願った通りにはいかなかったとしても、「これも神さまの導きだ」と、彼はその結果をそのまま受け入れたと思うのです。その証拠に、彼は決して無理強いをしません。49節「それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのなら、私にそう言ってください。もしそうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになります。」「これは神さまが決めたことなのだから、あなたたちは絶対に従わなければならない」とは言わなかった。あくまでも丁寧に、謙虚に。ここにもしもべの信仰が表れています。「こうじゃなきゃいけない」、自分の思い、自分の願いのために神さまを持ち出し、相手を縛り付け、ひいては神さまを縛り付けるのではなく、起こったことをそのまま神さまの導きとして受け入れていく。たとえ自分の思い通りにいかなかったとしても、それもまた神さまの導きである。自分の願い通りであろうとそうでなかろうと、神さまは必ず最善の道へと私たちを導いてくださる。自分中心の信仰ではなく、神さまを中心とした信仰。このしもべは確かな信仰者でした。

 

ラバンとリベカ

他の登場人物も見ていきましょう。ラバンはどうでしょうか。このラバンというのは大変人間味あふれる人物でして、30節を見ると、「彼は、飾り輪と、妹の腕にある腕輪を見」とあります。宿を探している人がいると、妹リベカが駆け寄ってくるなかで、彼がまず目をつけたのは、彼女がその人物からもらったであろう豪華な飾り輪と腕輪だった。その上で31節、「どうぞ、おいでください。主に祝福された方」、アブラハムのしもべを歓迎していく。純粋なもてなしというよりも、「こいつはお金をもっているな」と、おそらく裏で考えていることがあったのだと思います。

しかしラバンは最終的になんと答えるか。50節「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。」この背後には神さまが働いている。それなら自分に言えることは何もない。ラバンもまた、目に見えない神さまの導きを認め、それをそのまま受け入れていきました。彼も最終的には、神さまの権威に従うのです。

最後、リベカはどうでしょうか。突然来た、見ず知らずの人の家に嫁ぎに行く。普通に考えたらあり得ないことです。到底受け入れられないこと。しかし、彼女もこれを神さまの導きによることだと受け止めました。家長が絶対的な権力をもつ家父長制の時代ですから、彼女のことばは多くは記されていません。しかし58節を見ると、「この人と一緒に行くか」という問いに対して、彼女は「はい、行きます」とはっきり自分のことばで答えています。間違いなく不安はあったはずです。今の時代の私たちからはなかなか想像できません。しかし彼女は、神さまがすべてを導いておられるのだから、きっと大丈夫。神さまが最善をなしてくださる。信仰によって決断したのでした。

 

神の導き

さて、ここまで「導き」ということばを何度も使ってきました。今日の27節と48節でしもべ自身が使っていることばです。この物語のキーワードと言ってもいい、重要なことば。

「導き」というのは不思議なことばです。周りから見たら、単なる偶然でラッキーな出来事に過ぎません。「そんなことがあったんだね。それはすごい!ラッキーだったね。本当に良かった、良かった!」それでおしまいです。周りから見ればそれだけのこと。

しかし、今日の登場人物は全員、そこに神さまの導きを見ます。目に見える御使いが現れたわけでも、神さまの声をはっきり耳で聞いたわけでもありません。ただ、自分の目の前で起こるすべての出来事の背後に神さまがおられることを確かに感じた。信仰の目を通して、神さまのみわざをはっきりと見たのです。

この神さまの不思議な導きを言い表した聖書のことばを最後に確認しましょう。週報のアウトラインの最後に載せたみことばをご覧ください。旧約聖書の箴言169節です。「人は心に自分の道を思い巡らす。/しかし、主が人の歩みを確かにされる。」「主が人の歩みを確かにされる」。この信仰をもつとき、私たちは、私たちを取り囲んでいる美しい神さまのみわざに目が開かれるようになります。信仰をもって生きるとき、これまで見えてこなかった新しい世界が見えてくる。こんなところにも神さまの導きがあった。あんなところにも神さまのご配慮があった。人生を振り返る中で、これまで見えてこなかった美しい景色が見えてくる。私たちの心は、感謝と喜びと平安で満ちあふれるようになります。単なる偶然、単なるラッキーではない。私を愛し、私をいつも見守ってくだるお方は、今日も私を導いてくださっている。最善の道へと導いてくださっている。これが信仰者の歩みです。この信仰の世界へと、神さまは私たちを招いておられます。



コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...