聖書箇所 第二サムエル7:1-16
説教題「しかしわたしの恵みは」
導入
今朝、皆さんと一緒にお読みした聖書箇所は、いわゆる「ダビデ契約」という、聖書全体においても重要な出来事を取り扱っています。このひととき、共にみことばから教えられながら、神さまがダビデにどんな約束をなさったのか、そしてその約束は私たちにとってどのような意味をもたらすのかをみていきましょう。
背景
まずは、この箇所の背景を見てみましょう。この前の章で、ダビデは神の箱を都に運び込んだばかりでした。神の箱には、出エジプトのときにモーセが神から授かった十戒が刻まれた石板が納められています。神様が共にいてくださることを意味する大切な箱でした。しかしこの箱は、政治の中心から離れた場所に、長い間放置されていたのです。神の箱を運び込むというのは、ダビデのたっての願いでした。ダビデはサウルの家との長い戦いを終え、イスラエル全体の王となりました。そして都をエルサレムに移すとすぐ、神の箱を運び入れたのです。今や、神は私たちと共におられる。その喜びのあまり、ダビデは人目も憚らず跳び上がり、踊り回ったといいます。
ダビデの願い(1-3)
さて、ダビデの次の願いは、神の家、神殿を建てることです。ダビデは自分の家に住んでいました。もう敵から逃れて身を隠す必要はありません。1節には、主は周囲のすべての敵からダビデを守り、安息を与えていたとあります。もう自分たちは移動する民ではない、神がアブラハムに約束された、あの約束の地に定住する王国となるのだ。神が統治する王国で次にすべきは神殿の建設である。周辺の異教の文化においても、神々に対し、大きく立派な神殿を建てるということはなされていました。このダビデの願いは、一国の王として当然のアイデアだったと言えます。
しかし同時にこの願いは、ダビデ個人の信仰の表れでもありました。ここまでイスラエルの民を導いてくださった神への感謝を表したい。羊飼いの家の末っ子だった自分が、神の代理者である王として選ばれ、今安息が与えられている。それなのに、自分は立派な家に住んでいて、神の箱は天幕の中に住んでいる!ダビデの純粋な信仰が伝わってくるようです。2節の「天幕」という言葉に注目してみましょう。聖書が元々書かれたヘブライ語では、ただの素材としての幕、カーテンを意味するような言葉が使われています。自分が住む立派な杉材の家と、神の箱を覆う頼りない幕との対比がそこにはあります。これでいいはずがない、そんな訴えのようです。
それを聞いた預言者のナタンは「心にあることをみな行いなさい」と、ダビデの提案を後押しします。ここでは預言者ナタンは神に御心を尋ねる、ということはしていません。ナタンは神に聞かずとも、これは神の御心に当然沿う提案であると思ったのでしょう。しかし、神の御心にはダビデやナタンとは違うご計画がありました。
当然正しく良いことであると思ったことが、主の御心とは違う。同じようなことが、私たちの信仰生活に起こり得ます。「これは神さまに聞くようなことではない」、「何がすべき良いことかはわかりきっている」。そのようにして、主の御心を特に尋ねない場面は沢山あることでしょう。しかし、神様に祈り、主の御心を尋ね求めることができるというのは、信仰者の特権です。自分の望むまま、願うままに事が運ぶよりも、全能の神に委ね、御心がなされていくことの方がよっぽど幸いなのです。だからこそ、私たちは「御心がなりますように」と祈るのです。「ここからは神さまあなたは関わらなくて良いです」という態度ではなく、私たちの日常のどんな小さな領域でも、主の御心がなされることを願っていきたいのです。
神のみわざ(4-11a)
7節で、神はこのように告げました。「わたしが一度でも『わたしのために家を建てなかったのか』と言ったことがあっただろうか。」神さまは、これまでのイスラエルの民の歩みを振り返り、一度もご自身のための家を求めたことはないと語ります。神の箱は、旅の間中、天幕の中に置かれてきました。しかし本当は、神は民に運ばれていたのではなく、神が民を「連れ上」り、民と共に「歩んできた」というのです。イスラエルの旅の主導者は、神ご自身でした。
ダビデ個人の歩みにおいても同じです。8節をお読みします。「今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の主はこう言われる。わたしはあなたを、羊の番をしていた牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。」神を主語として、「わたしはこのようにしたのだ」と、動的な、アクティブな神が描写されています。わたしはどこかに留まる神ではない、「あなたとともに」いる神なのだとダビデに思い起こさせるのです。神さまは、歴史を動かす大きな神でありながら、一人一人と共にいてくださる近い神でもあります。9節の「大いなる名」という言葉に、新船橋キリスト教会の皆さまは聞き覚えがあるのではないでしょうか。そうです。アブラハム契約です。「あなたの名を大いなるものとする。」(創12:2)あの時に、アブラハム個人に、そしてまだ見ぬ子孫に与えると約束された「一つの場所」、「約束の地」にダビデは立っていたのです。神様のみわざは、いつもなんとスケールが大きく、しかし同時に個人の人生をも顧みるほど緻密で、丁寧なのでしょうか。この神様の大きく、しかし繊細なみわざは、今も続いています。私個人は、ぽつんと存在しているのではない。この私の小さな小さな歴史も、アブラハムから始まる神の民の歴史のうちに置かれ、丁寧に取り扱われていることに今一度感動させられるのです。
新たな約束(11b-13)
これまでの歴史に目を留められた神さまは、次はダビデに新しい約束を与えます。11節後半から13節までお読みします。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。
あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」ここでは2種類の「家」が出てきていることに注目します。ダビデが建てることを望んだ「神の家」と、神が、ダビデのために造る「家」です。神さまは、神の家を建てたいというダビデの願いに重ねるように、あなたがわたしの家を建てるのではなく、わたしがあなたの家を建てるのだと言います。「神の家」はこれまでの話に出てきたように、物理的な、神殿を指していることは明らかです。しかし、ダビデのための家というのは、ダビデの住居とは違うもののようです。日本語でも、家族や家系などを指すときに「家」と言ったりしますが、不思議なことに、ヘブライ語でも、似たような用い方がされています。ここでいう「ダビデの家」とは、ダビデ王朝のことを指していると考えて良いでしょう。
そして、神の神殿は、ダビデから出る世継ぎの子が建てるということが語られます。実際にダビデの子であるソロモンが後にエルサレムに神殿を建てました。しかし、ナタンとダビデは、当然そのことを知りません。自分が建てたいと願った神殿は、まだ見たことがない自分の世継ぎが建てる。多少の悔しい思いがダビデのうちにあったかもしれません。しかし、そんな自分の願いを覆ってあまりある主の恵みが、ダビデに約束されるのです。それは、これからとこしえに続く王朝が、自分から始まるのだという、ダビデ王朝確立の約束でした。この約束を、キリスト教会は「ダビデ契約」と呼んできました。
彼の父、わたしの子(14-15)
ダビデの王朝を引き継ぐ、世継ぎの子について、神は不思議な表現をもって約束しています。14節、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」父となり、子となるのに、懲らしめるのだと不思議に思われるかも知れません。現代は父親というと、優しい父親像がメジャーなのかもしれません。私もしっかり教育を受けた自覚はありますが、4人兄弟の末っ子として、他の兄弟と比べると、甘やかされてきたと思います。「優しい父親像」の時代の影響も受けたかもしれません。しかし、当時の父親というのは権威そのものでした。絶対的な家長として、社会の秩序や道徳を厳しく教える責任がありました。この当時の親子観からも、神とイスラエルの王との関係が、非常に近しく、同時に教育的な関係であることが伺えます。神の子とも呼ばれるほどの特権を手にしながら、しかし全てが見過ごされるわけではありません。王が不義を行った時は、神は父として、人を通して王を懲らしめるというのです。
神の民を導く王は、神の代理者として立てられました。神の代理者である王の務めとして、律法の厳守があります。神のみこころに従い、正義の器として民を治めなければなりません。ダビデが願い、ソロモンが建てる神殿には、神の箱とも呼ばれる契約の箱が住みます。契約の箱の中には、律法を刻んだ石板が入っていますね。出エジプト記19章と24章には、イスラエルの民がモーセを通して律法が与えられた際に、「主の言われたことをすべて行います。」と声を揃えて告白したとあります。ここで結ばれた契約がシナイ契約です。シナイ契約を受け継ぐ民を治める王は、神の約束を固く守り続けることが求められたのです。
しかし、これがダビデ契約の全容ではありません。15節、「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。」――「しかしわたしの恵みは」。通常、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、動詞が文章の最初に来ることが多いです。しかし、15節においては、日本語と同じように「しかしわたしの恵みは」と、名詞で始まっています。元の語順だとこうなります。「しかしわたしの恵みは」、「取り去られない」、「彼から」。王の律法厳守の重い責任に覆い被さるように、神の恵みの確かさが約束されているのです。ダビデの前の王であったサウルは、神のみこころから離れたことで、その恵みは取り去られました。しかし、もうそのようにはしないと、主は約束されたのです。
終わりのない家(16)
神さまは、終わりのない王国を約束されました。16節、「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」「とこしえまでも」、「とこしえまでも」。この神のことばを聞いたナタンやダビデは、どのように続く王国をイメージしたでしょうか。終わらない王家、終わらない統治、留まることを知らない王国の繁栄。聖書を通してダビデ王朝の歴史を知る私たちには、いくつか分かることがあります。まず、ダビデの家の王たちは多くの過ちを犯しました。ダビデに関しても印象的な失敗が聖書に沢山記されています。ダビデの家は決して完璧な王家ではなかったのです。しかし、それでもダビデ王朝は4世紀にわたって続きました。どんな失敗を犯しても「ダビデに免じて」と、ダビデの子孫である王たちは、何度も赦されてきたのです。しかし、その統治は終わりを迎えます。ダビデの即位からおよそ400年後、ダビデの子孫であるエホヤキンはユダ王国からバビロンに捕え移されました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
ダビデ王朝による永遠の王国の約束を信じていた、イスラエルの民にとって、ダビデ契約は失敗と思えたかもしれません。しかし、旧約の信仰者たちは主の約束に信頼を置くことをやめませんでした。主が永遠を約束されたのだから、必ず主はダビデの王国を回復してくださる。そのように信じ、語り続けたのです。アモスやイザヤ、エレミヤ、ゼカリヤなどの預言者は、どんなに現実が悲惨であっても、主の約束を堅く握り続けました。「エッサイの根から出た若枝」、ダビデの子孫が、神の統治を取り戻してくださる。そんな神の約束に対する信頼と期待、希望が、旧約聖書には確かに記されています。この信仰は、今朝読んでいる7章の29節、ダビデの応答に見られる信仰と、同じものだったでしょう。7章29節、「今、どうか、あなたのしもべの家を祝福して、御前にとこしえに続くようにしてください。神である主よ、あなたがお語りになったからです。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように。」
神の民が待ち続けたダビデ契約の成就は、どのように実現したのでしょう。神のことばの預言が止み、空白の400年とも呼ばれる長い時を経て、ある一人の赤ちゃんが生まれました。新約聖書の一番初めのみことばを皆さんは覚えておられるでしょうか?マタイの福音書1章1節。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」神の子であるイエス・キリストは、この地上で律法を全うされました。その支配には終わりがなく、今や私たちの王として、神の右に座しておられます。ダビデに与えられた神の約束が、キリストにあって成就したのです。
結び
この約束の確かさは、誰かの行いによって支えられてきたものではありません。人のどんな行いも、生き方も、神の約束を打ち消さないのです。信仰生活にはもちろん、神の約束への応答として、主に従う生き方が求められます。それは、父と子の信頼関係のうちで起こりうる要求です。しかし、人の行いは、神の恵みの根拠にはなりえません。ダビデ王朝の王たちがどれだけ神に対し不忠実であっても、主はその恵みを取り去ることはなさいませんでした。そのように、神ご自身が約束して下さったのです。
あなたがわたしに家を建てるのではない、わたしがあなたのために家を造るのである。これは、ただ神さまの側にある約束への真実です。神の真実は、私たちの希望です。正義が行われているとは到底言えない状況にあっても、不正がこの世界を覆っているように見えるときでも。「主が約束されたから」と祈り、そして、「イエスさまが来てくださったのだから」と、神の契約への真実さに何度も希望を見出すことができるのです。
私たち個人の歩みを振り返るとどうでしょう。神の前に真実でいられているでしょうか。約束を守るとか、誠実を尽くすとか、言葉で聞けば非常に簡単なことのように思えます。しかし、自分の現実を見ると、決してそれが簡単ではないことを思い知らされるのです。底知れない自己中心を抱えながらも、平気で誠実そうな顔をして生きることができてしまうのです。私は、サウルの失敗も、ダビデの失敗も、「だからダメなのだ」と指を指せるような信仰者ではないと、つくづく思います。ダビデ王朝の最悪と呼ばれるどんな王とも、同じ問題を自分は抱えているはずなのに、日常生活のほとんどは、そのことを忘れて過ごしている。シナイ契約にて「主の言われたことをすべて行います」と声を揃えて告白しながらも、偶像礼拝にふけり、神を忘れ、不平不満ばかりを口にしたイスラエルの民と、どれだけ私は違うのだろうか。私は、真実とは程遠いところに立っている。
「しかしわたしの恵みは」と、主は言われました。私が真実でいられなくても、主は真実でいてくださいました。神のひとり子、イエス・キリストはまことの王としてこの世に来られました。父なる神は、「わたしの子」と呼んでくださり、とこしえに続く神の家に住まわせてくださったのです。「父の神の真実」という讃美歌があります。作詞者であるトーマス・チズムは、自らが書いたその詩について、このように語りました。「この詩は、自分の人生で神がどれほど誠実であったかを静かに証しするために書いたのです。」私たちはどうでしょうか。人生の最期に「私は真実であった」とは言えないかもしれません。しかし、主の真実により頼み続け、最期は「主はまことに真実な方であった」と告白する者となりたいのです。
お祈りします。
「天のお父様。あなたがダビデに契約を与えられた日から今日まで、いつも真実でいてくださっていることをありがとうございます。王なるイエス・キリストのみこころがどうかこの地にあってなされていきますように。どうか、平和の君なるあなたの王国がとこしえまで続いていきますように。あなたの真実に、私たちも真実をもって応えていくことがどうかできますように。
王の王、主の主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」
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