スキップしてメイン コンテンツに移動

夢を解くヨセフ(創世記40章1~23節)

 


「夢を解くヨセフ」

創世記40章1~23

39章を読んでから40章を読むと、ある一つのことに気が付きます。39章では、あれほど繰り返し「主がヨセフとともにおられた」と、また「主がヨセフを成功させ」とあったのに、40章になるとぱったりそれが出てこないのです。主はいなくなってしまったのでしょうか。主はもうヨセフとともにおられないのでしょうか。私たちの人生にも、思わずそう思ってしまう時があります。

幸い私は、それほどの心の闇を経験したことがありません。けれども私の知り合いで、双極性障害をもっておられる方おられます。その人は、とても敬虔な信仰の持ち主で、元気な時は小さなこと一つ一つ主に感謝して、主と共なる人生を楽しんでいるのですが、一旦うつ状態になると、落ち込みがひどく、本当に死にたくなるのだと言います。その人は言います。「何がつらいかって、神がいなくなってしまうことだ」と。暗闇のどん底で、神が見えなくなってしまう。どんなにつらくても主がともにいてくださると信じられれば、闇から抜け出す手がかりも見つかるのだけれど、どんなに泣こうが喚こうが、神は答えてくださらない。「神はいない」、それは絶望でしかないのだと。

ただ安心してください。神はおられます。私たちとともにおられます。私たちがそれを感じられなくても、信じられなくても、神は私たちの傍らにおられるのです。そしてともに苦しみ、ともに悲しみ、ともに泣いておられます。

主が39章で、「主はともにおられる」と何度も繰り返されたのは、40章で迎える圧倒的な暗闇、絶望としか思えない状況でも、主がともにおられることを思い出すことができるようになるためです。何もうまくいかない、八方ふさがり、希望のかけらも見つけられない、そんな時にも、主がともにおられることを忘れないためだったのです。

 

ヨセフは冤罪で監獄へ入れられました。先回も触れましたが、ひょっとしたらポティファルはヨセフの無実を知っていたのかもしれない。ヨセフがポティファルの妻にいたずらをしようとしたというのは、妻の虚言かもしれないとうすうす気づいていたのかもしれない。それはこの後のヨセフへの処遇を見ると、ますますそう思われてきます。

ヨセフが入れられた監獄は、ポティファルの管轄にありました。その監獄は、私たちがイメージするような、薄暗いじめじめした牢獄ではなかったようです。それは、ヨセフが投獄された後に、エジプトの王ファラオに仕える献酌官と料理官がこの監獄に入れられたことからも分かりますし、彼らに付き人、つまりお世話係がついたことからも分かります。言ってみれば、彼らは高級官僚です。囚人と言えども、決してぞんざいに扱ってはいけない人たちだったのです。そして4節を見ると、「侍従長(ポティファル)がヨセフを彼らの付き人にした」とあります。ポティファルは自分でヨセフを投獄しておきながら、ヨセフへの信頼は未だ顕在だったということです。

こうしてヨセフは、冤罪で収監されながらも、自分の人生を呪うこともなく、「正直に生きてなんになる」と人生を投げることもなく、ただ淡々と、日々、神の前にも人の前にも忠実に生きたのです。

 

こうして、ヨセフがいつものように、朝の支度をするためでしょうか、朝食を運ぶためでしょうか、彼が付き人して仕えている二人のもとに行くと、二人の様子がいつもと違いました。聖書を見ると「彼らは顔色がすぐれなかった(さえなかった)」とあります。ヨセフは、付き人の身分ではありましたが、勇気を出して聞いてみました。この行為はヨセフの思いやりからのものでした。今は亡きマザーテレサは、「愛の反対は無関心だ」と言ったというのは有名な話です。ヨセフは、単に仕事として二人に仕えていたわけではなく、愛と尊敬をもって二人に仕えていたことがよくわかります。コロサイ3:22-24でパウロは奴隷の身分にある人たちにこんなことを書き送っています。「奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」なにも奴隷制度を肯定するものではありませんが、私たちキリスト者が誰に対しても心がけなければいけない態度でしょう。ヨセフのこの言葉かけの中にも、そんな真心から仕える姿勢がうかがえます。

二人はそんなヨセフの真心のこもった気配りに心を許し、それぞれ自分の見た夢について語ります。まずは献酌官です。9節から「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」

ヨセフは夢見る人でした。ヨセフがエジプトに奴隷として売られる前、彼は二つの夢を見て、それを家族に分かち合っています。そのころは、意味のある夢を見ながらも、それを解き明かすところまではいかなかったようですが、年月を経、さまざまな経験のうちに、人格も成熟し、神さまとの関係もより密になってくるにつれて、夢の解き明かしができるようになっていたようです。賜物も、また賜物を扱う人格と信仰も磨かれ、成長するということです。ヨセフは、献酌官の夢の内容を聞くとすぐに、それを解き明かします。12節~「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。」

献酌官の夢の解き明かしを聞いた料理官長は、それならば自分もと、自分の見た夢を話します。16節~「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」ところが、この夢の解き明かしは、料理官長にとって良いものではありませんでした18節~「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」

果たして3日後、二人の夢はそれぞれ実現します。この事によって、神はヨセフに特別な賜物を与えておられることが証明されました。

さて、聖書は賜物について何と言っているでしょうか。賜物は「神さまから一人ひとりに恵みとして与えられた霊的な能力や才能」です。ヨセフは、二人の夢を解き明かす時に言いました。8節後半「解き明かしは、神のなさることではありませんか」。ヨセフは知っていました。この夢を解き明かすという賜物は、神から恵みによって与えられたものであるということ。そして実際にこの賜物を運用する時にも主が助けてくださるということ。そして、この賜物を用いることによって、自分ではなく主の御名がほめたたえられるべきであるということです。

よくクリスチャンのスポーツ選手がいいプレーをして観客の賞賛を受けるときに、天を指さしたり、胸に手を置いて天を見上げたり、その場に跪いて祈ったりする姿を見ますが、まさに彼らは、自分の能力、才能は、神から与えられたものであることを知っていて、自分のプレーを通して主の御名があがめられることを願っていることがよくわかります。

私たちにはどんな賜物(神からのプレゼント)があるでしょうか。以前私たちの教会ではゴスペルクラスがありました。ハレルヤゴスペルファミリーの先生が来て、指導をしてくれましたが、このゴスペルを通してのミニストリーを始めたのはケン・テイラーというフィリピン系アメリカ人でした。彼は自身の賜物であるゴスペルを通して福音を宣べ伝えたいと願わされました。宣教地を祈り求めているときに、二つの候補地が与えられました。それは、自分のルーツ、フィリピンと一度ミッショントリップで行ったことがあるだけの日本でした。そして彼が主のみこころを求める祈りの中で示されたことは、「もしフィリピンに行けば、自分の力100%、神さまの力0%でできてしまう。けれども、日本ならば、自分は0%、何もできない。だからこそ神さまが100%働いてくださる。それなら日本に行こう!」そう思ったのです。ヨセフは言いました。「解き明かしは、神のなさることではありませんか」。私たちも、与えられている賜物を用いる時には、ヨセフと同じ告白をしたいと思います。

 

さて、献酌官が獄を出るときに、ヨセフは一つのことをお願いしました。14節「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。」そして、献酌官は実際に復職し、幸せになりました。ところが、ヨセフのことを忘れてしまったのです。23節「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。」…ああ無情! 人は、他の人から受けた意地悪やつらい仕打ちはいつまでも覚えていますが、人にしてもらった親切や恩は、簡単に忘れてしまうものなのかもしれません。献酌官長は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。しかも2年も!(41:1「それから二年後」)ヨセフはどんな思いで過ごしたでしょうか。初めの頃は、今日こそ、迎えが来るのではないか!今日こそ!と期待をしていたと思いますが、気が付けば、三か月経ち、半年経ち、一年も経つと、もう忘れられてしまったとあきらめてしまったことでしょう。

人は簡単に約束を忘れます。けれども神さまは忘れません。神さまはご自身の約束にいつも誠実であられました。詩篇27章10節「私の父私の母が私を見捨てるときは【主】が私を取り上げてくださいます。」ヘブル13:5「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」ですから、私たちは失望しなくてもいいのです。

目の前の状況は絶望的かもしれない。暗いトンネルに入り込んで、出口が見えないかもしれない。けれども主は、決して私たちのことを忘れてはいない。覚えておられる。そして、主のご計画(摂理)の中で最善の時に救い出されるのです。主は信頼できるお方です。私たちは主に信頼しつつ、希望を失わないで主の時を待ちましょう。私たちは待つのは苦手です。けれども神さまが私たちに用意しておられるすばらしいご計画は、待つ価値のあるものです。

そしてもう一つ。神さまもまた、待ったということ、今も待っておられるということです。人がエデンの園で主を裏切ったその日から、主は、イエス・キリストを通して救いの計画を実現するまで、どれほど待たれたことでしょう。また、私たちがまだ神さまを知らない日々、知っていたのに背を向けて自分勝手に歩んでいた日々、神さまに反抗し、無視し、神なんかいなくても生きていけるとうそぶいていた日々、主は忍耐をもって待ってくださいました。そして主は、今も待っておられます。この不条理な世の中、強い者が弱い者を虐げ、いのちが軽んじられ、争いが絶えないこの世界を、主は悲しみをもって見つめながらも、それでも忍耐して一人でも多くの人々が主に立ち返るのを待っておられるのです。私たちを待つ価値がある大切なひとり一人だと思ってくださっているからです。

最後にハイデルベルク信仰問答問28を読みましょう。

28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。

答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。


コメント

このブログの人気の投稿

サラの死と埋葬(創世記23:1~20)

「サラの死と埋葬」 創世記12章1~20節   サラが天に召されました。127歳でした。今の私たちの感覚からすると非常に長寿ですが、アブラハムが召されたのは175歳ですから、それを思うと、当時としてはそれほど長寿だとも言えないかもしれません。聖書にはたくさんの女性が登場しますが、亡くなったときの年齢が記されているのは、なんとサラだけだそうです。このことからも、アブラハムだけでなく、サラも聖書の救いの歴史の中で重要な役割を果たしていたことがわかりますね。 サラの生涯は幸せだったでしょうか。いろんなことがありました。夫が神さまから呼ばれたことによって、住み慣れた土地を離れなければなりませんでした。たいていの女性は定住志向ですから、寄留者として生きなければならないことは、サラにとってはつらいことだったことでしょう。時には、いのちの危険があるようなところに寄留することもありました。そんなときには、決まって夫アブラハムは、自分のことを兄だと言ってくれと頼むものですから、彼女は2回もその土地の王に召し抱えられる危機に遭いました。それは、サラの美しさのゆえでした。最近はルッキズムと言って、容姿が美しいことが幸せの条件のように思われています。確かに美しいことで得をすることもあるかもしれませんが、美しさゆえの悩みもあるようです。美しさゆえの誘惑があり、落とし穴があるからです。 けれども、サラの生前の一番の悩みは、やはり子どもがいないことでした。一時は自分で子を産むことをあきらめて、女奴隷ハガルを夫に与えて、彼女によって子をもうけようとしました。けれども、実際に身ごもったハガルを見るのは耐えがたく、ハガルに辛く当たり、彼女が逃げ出すぐらいひどくいじめたのでした。そんな事件があった後、不思議な3人の旅人が来て、「来年の今ごろ、サラに男の子を産む」と告げました。その時サラは、天幕の陰に隠れて、思わず心の中で笑ったのです。ところが神はご真実で、サラは本当に身ごもり、一年後には子どもが与えられました。その時サラは、すでに90歳。しかし、子どもが与えられた喜びに浸る日々もつかの間、今度は女奴隷ハガルの子イシュマエルが邪魔になります。そして、イサクの乳離れの祝いの席で、イシュマエルがイサクをからかったことを機に、夫にイシュマエルを追い出すようにと攻め寄り、とうとう二人を家か...

信仰者が見る世界(創世記24章)

2025/8/24 創世記 24:1-67 「信仰者が見る世界」 序 この主の日の朝、新船橋キリスト教会の皆さまとご一緒にみことばに聴けることを主に感謝しています。今日私たちが開いているのは、創世記 24 章です。新船橋キリスト教会では創世記を順番に読み進めていると伺っていますが、実は私がお仕えしている教会でも創世記を読み進めています。今回、こちらでどの箇所から説教をするか千恵子先生にご相談したところ、せっかくなら創世記の続きをそのまま読み進めようということになりまして、今日は先週の 23 章に続いて、 24 章を開いています。ご一緒にみことばに聴いていきましょう。お祈りします。   無茶なミッション? この 24 章、大変長い 1 章です。五十三先生の素敵なお声で 1 章全部を朗読していただくのもいいかなと思いましたが、中身を見ると、情報が繰り返されている部分もありますので、抜粋して 1-28 節と、 50-61 節を読んでいただきました。 まず、事の経緯を確認しておきましょう。 24 章は、アブラハムがしもべにある重大なミッションを託すところから始まります。 1 節を見ると、「 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた 」とありますから、アブラハムは遺言に近いような思いでこのミッションを託したのかもしれません。実際、今日の箇所の最後にアブラハムは出てきませんから、アブラハムはこのしもべが出かけている間に息を引き取ったのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、アブラハムは「自分がこの世を去る前に何とか」という思いで、しもべにミッションを託しました。 ミッションの内容は、いわゆる「嫁探し」です。彼らが今滞在しているカナンの地ではなく、アブラハムの生まれ故郷に行って、息子イサクの妻になる女性を探してきなさい、という内容です。結婚というのは家と家が結ばれることでしたから、カナンの女性と結婚する場合、アブラハム一族はカナンの人々と同化することになってしまいます。すると、カナンの人々が信仰していた異教の神々や風習がたくさん入ってくることになります。それでは、神さまの祝福の約束を子孫に受け継いでいくことができません。だから、私の生まれ故郷に行って探してきなさいと命じたわけです。また、たとえその相手がこの地に来ようとしなかったとして...

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...