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朽ちるものが朽ちないものに

「朽ちるものが朽ちないものに」
コリント人への手紙第一 155058

 先週はイースター礼拝でした。説教ではヨハネの福音書のトマスから学びました。懐疑論者トマスとの異名を持つ彼は、実は誰よりも主を愛し、復活の主に会えると信じて待ち続けた信仰の人でした。そして、「見ないで信じる者は幸い」とトマスに言われたイエスさまは、今を生きる私たちも聖霊によって復活の主を信じることを求めておられます。私たちは聖霊によって、復活の主を信じ、「私の主!私の神!」と告白することができるのです。
【序論】
さて、今日の聖書箇所も、私たちの復活信仰に関わる重要な個所です。申し上げるまでもなく、イエスさまの復活があってこその私たちの復活です。言い換えると、もしイエスさまが復活しなければ私たちの復活もないということです。ですからこのコリントの手紙を書いたパウロは15章の35節で、「最も大切なこと」として以下のことを言っています。「キリストは聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられたこと、またケファに現れ、それから12弟子に現れたことです。」ここでパウロは、キリストの復活がゆるぎない事実であることを確認しています。ところが12節以降を見ると、「キリストは死者の中からよみがえられた」のに「死者の復活はない」と言う人たちがいたとあります。現代人にとって復活は信じがたいことであることは私たちもわかります。けれどもそれは当時の人々にとっても簡単なことではなかったのです。「死んだ者が再びよみがえるなんてありえない!」という人が少なからずいました。パウロはそんな人々に、キリストは確かに十字架にかかって死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、そしてイエスの復活については多くの証人がいるのだということを熱く語っています。そして、その流れの中で、キリストが復活されたならそれを信じる信仰者の復活も必ずあるということを1228節で語っています。そしてその後、具体的に復活のからだについて、3549節にかけて説明しているのです。それはからだの復活であり、そのからだは、朽ちないからだ、栄光あるからだ、力あるからだ、そして御霊に属するからだだと説明しています。そして今日は、その続きの5058節、この章の結論でもある最後の部分を見ます。
【本論】
15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
ここに「血肉のからだ」が出てきます。この血肉のからだは、いわゆる「霊的」に対する「肉的」のような、パウロが書簡でよく表現する「罪深い人間性」を指しているわけではなく、血の通った生身のからだ、つまり私たちのこのからだを指しています。パウロはこの「血肉のからだ」をいろいろと言い換えています。「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」などがそれです。それはまるで切り花のようです。切り花は切ったばかりの時は美しく咲いていますが、根がないので、やがては枯れていきます。どんなに美しくても、根から切り離された時点でいのちがないからです。私たちの体も、生まれたときから死に向かっているという点では、この切り花と同じです。「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」なのです。私たちは、この血肉にからだの特質をよく知っています。それは疲れやすく、病気になったり、けがをしたり、老化したりして、やがては死んでしまうのです。
しかし聖書は、私たちがこの体と付き合わなければいけないのは、この地上に生きている間だと言っています。なぜなら血肉のからだは、神の国を相続できないからだと。神の国を相続するとき、私たちは私たちを悩ませているこの肉体とおさらばできる!だったら神の国を相続したいものだとみなさん思うでしょうか。でもそのためには条件があります。それは神の子どもとされることです。例えば世界的な大富豪、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツの相続人になるにはどうしたらいいでしょうか。それは何としてもまずは、彼の養子にしてもらうことです。はい、おそらくそれは不可能です。でも「神の国を相続する」というのは、実はそれ以上に不可能なことです。なぜなら罪人である私たちは義なる神さまの子どもになることはできないからです。第一コリント6章9節10節にはこうあります。「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません」。神さまは義なる神様ですから、罪人である私たちは神の子になることも、神の国を相続することも本来できないのです。しかし、神さまは、独り子イエス・キリストを私たちのために犠牲にして下さり、私たちのすべての罪をその身に負わせ、私たちの一切の罪を処理して下さり、神の子とされる道を開いてくださいました。そして神の子となる特権を与えてくださったのです。ヨハネ1章12節にはこうあります。「しかし、この名を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」イエス様を受け入れた人、イエス様の名を信じた人は、罪赦され、神の子どもとされる特権が与えられ、神の子どもとして御国を相続することができるのです。私たちにはなんの努力もいりません。それは神さまが用意してくださった養子縁組の書類に私たちがサインするようなものです。皆さんはもうサインをしましたか?そしてすでにこの特権をいただいているでしょうか。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
ここで、神の奥義が語られます。「奥義」とは言っても、別に謎めいたことではありません。それはイエスさまの再臨の時に生きている人たちが、いったん「眠る」、つまり「死ぬ」のではなく、「変えられる」ということです。
イエスさまが再臨されるとき、まずはラッパの音が鳴り響くとあります。ラッパは、古来イスラエルにおいて、人々の招集、戦いの合図、王の就任などの目的で用いられてきましたが、イエスさまの再臨の時には、イエスさまを信じる者たちの招集と勝利の合図として鳴り響きます。そして、まずはイエスさまを信じて、すでに眠った者、つまりすでに死んでいる者がよみがえり、続いてその時生きている者がよみがえるのです。このように一応順番は決まっていますが、一瞬のうちにとありますから、ほぼ同時にこのことが起こります。その時、死者は朽ちないものによみがえり、私たち生きている者もこのままのからだではなく、新しいからだに変えられます。つまり今の疲れやすい、病気になったり、老化したりするからだではなく、「朽ちない」「死なない」「栄光のからだ」が与えられるというのです。復活のイエスさまと同じ、栄光のからだです。
 クリスチャンたちがよくしている誤解として、再臨の時、私たちの魂だけが体から抜け出して天国に行くという考え方があます。また、お墓から魂だけが人魂(ひとだま)のように出て来て、天国に上って行くのだと思っている人もいるかもしれません。けれどもそれは、正しい理解ではありません。私たちは、毎週使徒信条で告白しています。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」。そうです。私たちはからだをもってよみがえるのです。この古い血肉のからだを脱ぎ捨てて、「朽ちないもの」を着るのです。「死なないもの」を着るのです。ハイデルベルグ信仰問答の問57にはこんな問答があります。

57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしの魂が、この生涯の後ただちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。

 「この体」が「再びわたしの魂と結び合わされて」というのは面白い表現です。私たちの今の「この体」が、「キリストの御力によって引き起こされ」イエスさまと同じ栄光のからだに変えられるというのです。どうせこの体は死んで新しくなるのだから、この体はどうでもいいということではありません。栄光のからだをいただくのを楽しみにしつつ、なお「この体」を受け入れ、大切にすることが私たちには求められています。

15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利にのみ込まれた。」55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
「着る」とは、「身に着ける」「着せる」の意味です。古い衣の上に新しい衣が重ねられている様子をイメージしてみてください。「死」が「いのち」に「包み込まれる」のです。私たちの「朽ちるべきからだ」「死ぬべきからだ」は、「永遠のいのち」を着せられて生きたものとなるのです。
「死は勝利にのみ込まれた」というのはイザヤ書258節の引用です。また、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」というのはホセア書1314節からの引用です。旧約聖書当時の背景としては、イスラエルの民が外敵の支配から逃れることを語ったものですが、ここでは、死を前にしての勝利の歌と言えるでしょう。どんなに健康な人も、金持ちも、社会的な地位がある人も、死を前にしては無力です。例外なく死に屈服させられます。中国の始皇帝は、絶大な権力を持ち、不老不死の薬を求め、部下たちに無理難題を押し付けましたが、最後はその薬のせいでかえって死期を早めたと言われています。最近では「アンチエイジング」や「美魔女」という言葉があって、老化にあらがうのですが、それらも多少老化を遅らせることがあったとしても、死に対しては全く無力です。けれども私たちには希望があります。死を前に勝利の宣言をすることができるのです。
ここに出てくる「死のとげ」は何のことでしょう。「とげ」とは、サソリなどの毒針を持った小動物を想像していただければいいと思います。猛毒を持ったサソリに刺されると死ぬ場合もあると言われています。けれども、もしサソリに毒針がなければどうでしょうか。その辺の田んぼにいるザリガニと同じでしょう。同じように、死にはもうトゲ(毒針)がなくなったので、私たちは恐れる必要はありません。では「死のとげ」とは具体的に何でしょうか。それは「罪」です。続いて「罪の力は律法です」とあります。私たちは、律法によって罪に定められましたが、キリストによって律法と関係なく義と認められた私たちは、もう律法にも律法の結果である死にも怯える必要がありません。つまり罪がなくなった死は、毒針のなくなったサソリと同じ、私たちを怯えさせることはもうできないのです。この罪というとげをへし折ってくださったお方はどなたですか。イエス・キリストです。キリストは、その十字架と復活によって、人類をずっと恐れさせ、苦しめてきた罪と死を「骨抜き」ならぬ「トゲ抜き」にしてくださったのです。これを書いているパウロは、思わず歓喜の声をあげます。15:57 しかし、神に感謝します!神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」ハレルヤ!

15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
私たちには復活が約束されています。神の国の相続が約束されています。ですから、どんなに状況が厳しくても、罪の誘惑があっても、福音から引き離そうという働きかけがあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。パウロは1519節でこうも言っています。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」パウロは、もし再臨も復活もなければ、今自分が受けている迫害、苦難、試練に何の意味があるだろうかと言っているのです。あまりに哀れだと。私たちはキリスト教はご利益宗教ではないと自負しています。家内安全、商売繁盛などは、すべて神さまの恵みであって、そのようなご利益を受けるために、私たちは信仰しているわけではありません。けれども、誤解を恐れないで言うと私たちには、究極のご利益があります。それはからだの復活と神の国の相続です。この約束があるので、私たちは地上での労苦を惜しまないのです。
【結論】
私たちも復活の希望を握りしめ、主のわざに励みましょう。この新型コロナウィルスの脅威の中、日常のストレスは絶えません。自由に外に出られないこと、逆にみんなが家にいるのに、自分だけウイルスにさらされ外で働かなくてはいけないこと、人とのコミュニケーションが制限されること、そして礼拝に集まれないこと、大きな声で賛美できないこと、それがこんなにストレスになるとは、こういう状況になってみなければわからなかったことです。そうでなくても日常生活には、なすべき務めがあり、小さな信仰の戦いがたくさんあります。罪の誘惑が絶えずあります。しかし私たちはそのような日常生活の中でも、堅く立って、動かされることなく、主のわざに励みましょう。祈りましょう。家庭礼拝を守りましょう。デボーションをしましょう。隣人を愛しましょう。福音を伝えましょう。学生なら学生の本分を、社会人なら社会人として本分を果たしましょう。毎日を主の前に精いっぱい生きましょう。私たちには復活の希望があります。勝利と御国の相続が約束されています。私たちの労苦は主にあって、決して無駄にはならないのですから。
【祈り】
 罪と死に打ち勝ち、死者中から復活されたイエス・キリストの父なる神さま。尊いお名前を心から賛美します。私たちはかつては罪の中に死んでいた者であったのに、あなたは私たちを愛し、滅びの中から救い出して下さり、復活の望みと御国の相続の約束を与えてくださいました。あなたから与えられている恵があまりに大きくて、私たちはどう感謝をあらわしたらいいのかわかりません。しかしせめて、この地上にある間は、復活の希望と御国の相続の希望を携えながら、日々主との交わりを楽しみ、喜んで日々の務めに励むことができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
新船橋キリスト教会牧師 齋藤千恵子

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