「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:28~44)
天のお父さま、感謝します。神の言葉に耳を傾けるこの時、聖霊が豊かに働き、御言葉に聴く私たちの心に光を照らしてくださいますように。御言葉の内に主イエスの御声を聴き取ることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!
1. その石を!?
39節a「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』」
ここでイエスさまが言われた石とは、果たして墓穴をふさぐ実際の石のことだけだったのだろうか?
読みながら私は、そう思わずにはいられませんでした。イエスさまの言葉に驚くマルタたちの反応に触れて、思わずそんなことを考えてしまったのです。「これは実際の石のことだけなのか?」と。
主イエスが「石を取りのけなさい」と命じた時、人々は驚いたのです。驚くということ。これは普通の反応だと思います。ラザロが葬られてからすでに四日が経っていました。火葬ではありませんから当然、腐臭がするはず。マルタは驚いて言葉を返します。「主よ、もう臭くなっています」と … 。マルタは本来、信仰深い女性です。すぐ前の27節で「わたしを信じる者は永遠に死ぬことがない」との主の言葉に「主よ。信じております」とすぐに応えた、この信仰深いマルタでさえ、この時ばかりは「もう臭くなっています」と驚く。ここに信仰者と言えども、人間の限界があったのだと私は思いました。
ここで私が考えたのはこういうことです。この時、石でふさがれていたのは墓穴だけではなかった。墓を取り巻く人々の心の眼もまた石でふさがれ、見るべきものが見えなくなっていたのでは、と。そうです。この時、集まった人々の心にはいろんな思いが交錯していました。主は、彼らの心の眼をふさいでしまっている、その石も取りのけようとされたのではなかったか。「石を取りのけなさい」との言葉に驚く人々の反応は、主イエスには見えるものが、彼らには見えなかったということを物語っています。
私たちはどうでしょう。私たちの信仰の眼を何かがふさいでいて、大事なものが見えなくなっているということはないだろうか。「石を取りのけなさい」との言葉は、実は私たちに向けても語られているのかもしれません。でも、誤解のないようにと願います。主イエスはここで、人々を(そして私たちを)さばきながら、叱りながら「取りのけなさい」と言われたのではなかったのです。思い出して欲しい。私たちの主は、ラザロを失った人々の悲しみや嘆きに触れ、涙をともにされたお方です。この悲しみに寄り添いながら、主は「石を!」と言われたのです。
35節は印象的です。「イエスは涙を流された。」涙を流すというこの言葉は、新約聖書中、ただここだけに使われている言葉。私たちの主は、ラザロの死と人々の悲しみに触れ、ここだけの特別な涙を流したのです!この当時は、葬式に泣き女のような、声を上げて悲しみを演出する、そんな習慣のあった時代です。でもそうした演出の涙と違う、心から悲しみに寄り添う涙、声を押し殺しながら、ハラハラと涙が零れ落ちて止まらない。そんな特別な涙を主は流されました。私は聖書の中でこの場面ほど心を動揺させる主の姿を知りません。イエスさまは本当に悲しかった。マルタもマリアも揃って「もしあなたがここにいてくださったなら、ラザロは死ななかった」と声を震わせるほどの深い悲しみの中、自らも霊に憤りを覚え、心まで騒がせ動揺し、涙をハラハラと流していく。それが私たちの主イエスです。
マルタもマリアも信仰深い女性たちです。特にマルタは「あなたが神の子キリストであると信じています」とハッキリ口にしたばかり。そんな信仰深い二人の動揺に出くわしたなら、指導者によっては「だらしない。さっきのあの信仰はどこに行ったか」と叱りたくなる人もあるかもしれません。でも主は違いました。叱るどころか、逆に動揺し、一緒に涙まで流していくのです!
こうした主を見ていると、私たちは気づくことがあるはずです。主イエスはマルタ、マリアをはじめ、私たち信仰者に完璧を求めるお方ではないのです。神でありながら人として生まれた主イエスは、信仰者と言えど、人が如何に脆く弱いかを知っている。そして涙をも共にしてくださる。そう、私たちは、たとえ信仰者でも揺らぐことがある。悲しむこともあってもいい。信仰の創始者、完成者であるイエスさまでさえ動揺し涙を流した … 。そのお方がここで命じているのです。「石を取りのけなさい」と。
実は墓の周りには、悲しみだけでなく、不信仰と疑いの声もありました。37節の批判がそうです。「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」という、こうした主への疑い、批判の声も聞こえてきたのです。それゆえにイエスさまの思いは複雑です。38節で心に憤りがあったと記される通り、主の思いは悲しみだけでなく実に複雑なものでした。でも、これは私たちも心当たりがあることですね。親しい人の死に際しては、悲しみだけではない。時にいろんな人の声も聞こえて来て、私たちもしばしば複雑な思いになります。悲しみだけに浸れない現実もある。時に傷つき、怒り、憤りさえ抱くこともあるでしょう。
主もまた憤りを抱いた。普通の人なら「お前たち何を言っているのだ」と反論し、言い返したくもなる場面。でも、その憤りが刃物となって相手に向かうのではなく、逆に人を生かす御業になっていく。「石を取りのけなさい」と。それがこの言葉の意味でもあったと思います。そう。確かに、この言葉は私たちにも語られています。悲しみの中にある人にも、疑いや不信仰の中にある人にも、主は語っておられる。「石を取りのけなさい」と。
2.信じるなら
「石を取りのけなさい。」主イエスには人々の目を開いて、実は見せたいものがあったのです。それは何か?
それは神の栄光でした。
40節「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
「信じるなら神の栄光を見る」と、主は普段からマルタ、マリア、そして人々にも教えていたのでしょう。「信じるなら」、つまり信頼するなら、、と主は言われます。「取りのけよ」と命じる御言葉に信頼し、応答するなら、必ず神の栄光が見えてくる。あたかも、素晴らしいプレゼントがすぐそこに用意されているかのように主は言われます。信じるならすぐに、神の御業、栄光を見ることになるのだと!
そうです。神の栄光はすでに用意されている。暗闇を照らす希望は、まるでプレゼントのように、箱を開けられるのを待っている。私たちは25節を思い出さないわけにはいきません。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」主イエスはこれを、遠い将来の望みではなく、今ここにある救いとして語りました。ここにおられる主イエスは、すでによみがえりでありいのち。いのちの源であるイエスがここに、今目の前にいると … 。これは遠い将来の約束ではない。信じるなら、その人は信じた時からすぐ、永遠に生き始めるようになるのだと。
マルタも「信じます!」と27節では口にしたのです。マルタも知ってはいたのです。でも、知っていても、それが今の生活の中で生きて働かなかった。マルタもマリアも、すぐ隣におられるキリストのいのちが見えていなかったのです。信じるなら、今すぐに新しいいのちが始まっていく。でも、それが見えていない … 。「石」に閉ざされているのです。心の目がふさがれて、今、傍らにいるキリストの輝くいのちを見ることが出来ないでいたのです。
「石を取りのけなさい」と主が命じたこの場面。ここにはもう一つ不思議なことがありました。それは、イエスさまが「取りのけなさい」と人に命じていることです。これは不思議ではありませんか。イエスさまは神の子ですから、「石よ転がれ」と命じれば、自分で動かすことも出来たのです。「エイッ、ホラね」と墓穴の中を手品のように見せ、ラザロを歩いてこさせ、人々をアッと言わせて信じさせることも出来た。でも、敢えてそれをしなかったのです。イエスさまは容易い、イージーな道を選びませんでした。「石を取りのけなさい」と命じ、人々に応えるよう促す。弱くて脆い私たちであっても、主の御業に加わること、コミットすることを求めているのです。私たち一人一人が主の言葉を信頼し、自分の手を動かして応答することをイエスさまは願われたのでした。
そう。まず「信じるなら」神の栄光を見る!のです。神の栄光を見せるから、その後で信じなさい、というのではなかった。まず私たちが信頼し、御言葉に応答する。信じて御言葉に応える時に、人は初めて神の栄光を見るのです。
3.目線をどこに
この栄光を見るために、私たちはどうしたらよいのでしょう。どうやって信仰の眼をふさいでいる「石」を除くことができるでしょう。そのためには、私たちの目線をどこに向けるかが大事になってきます。
41節「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。『父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します』」。
「信じるなら神の栄光を見る」と促され、人々は墓の前に転がる重い石を取りのけました。その後の人々のアクションは容易に想像がつきます。墓穴が開いて、人々は当然、中を覗き込んだでしょう。腐臭がするかどうか。遺体はどうなっているのか。人々の目線は墓の中に向かい、その目は墓に釘付けになっていたでしょう。私もこの墓の前にいたなら、同じようにしていたと思います。好奇心の強い私です。しゃしゃり出て身を乗り出し、おまけに元々鼻の悪い私ですから、腐臭を物ともせずに墓の中を覗き込んでいたと思う。でも、お気づきでしたか。イエスさまは一人、目線が違っているのです。「イエスは目を上げて」!そして天の父に祈り、天のお父様との対話の後でラザロ復活が起こっていくのです。
この場面はまことに印象深く書かれています。この墓での出来事を目撃したヨハネは、目線に注目しながらこの場面を描いています。主イエスの目線が上に向かっていたこと。その一方で、私たちの目線はどこに向かっているのかと、そのように問いかけてもくるのです。ヨハネは目線に注目します。
この場面では「取りのける」という動詞が二回、39節と41節、それから「目を上げて」という動詞が41節に一回出て来ますね。実はこの動詞、元の原文で読むとみな同じ動詞なのです。「取りのける」も「目を上げる」の「上げる」もみな同じ動詞。ヨハネはこうやって同じ動詞を三度繰り返しながら、上をゆび指していく。上を見なさいと。墓の中ではなく、目の前の厳しい現実でもなくて、上を見つめなさい。主イエスがなさったように上を見上げ、天のお父様に祈りなさいと。この聖書の場面はそうやって、ひたすらに「上」を指し示しています。
墓の中でもなく、目の前の打ちひしがれる現実でもなくて、上を見上げていく…
。これが主イエスの教えてくださった目線であったということ。
世の中は今、どこを見ても「コロナ」です。テレビをつけても、ラジオを聞いても報道はコロナ一色。先の見えない長いトンネルの中を歩いているような暗澹とした気持ちになってしまいます。でも、これが現実です。そして現実を見つめることも大事です。
でも、、と私は今日教えられました。現実を見つめすぎて、それに囚われてはいけない。墓の中という暗い現実だけに吸い寄せられて、上を見上げることを忘れていなかったろうか。天のお父様に祈ること。そしていのちの主の御業を待ち望むことを忘れないようにしたいと思います。見るべきものは見えているだろうか。心の眼が「現実」という石に塞がれていることはないだろうか。「信じるなら、神の栄光を見る」のです。信仰の世界に目を開いた時に見えてくる、豊かないのちを握って歩みたい。このことを皆さんで励まし合いたいと思います。上に目を向けて生きるのです!
有名な賛美歌の作詞家でファニー・クロスビーという女性がいました。クロスビーは多作で歌集にたくさん載っており、今も世界中で愛されています。(有名なものがたくさんあるのですが)「罪咎を赦され 神の子となりたる♪」とか、「救い主イエスと 共に行く身は♪」などは代表作とされます。実はクロスビーは生まれながらに目が見えませんでした。彼女は盲人の作詞家で、こんなエピソードがあります。ある人が質問をしたのです。「クロスビーさん、もしあなたの目が見えるようになったら、いったい何を見たいですか?」と。それに対してクロスビーは躊躇なく答えたそうです。「この地上で見たいものはありません。やがて御国に召された時、イエスさまご自身が私の目を開けてくださるでしょう。その時、初めて見るものが愛する主の御顔であるということ。私はそれが楽しみで、この地上には見たいものがないのです。」
クロスビーには、実は私たちに見えないものが見えていたのです。彼女は盲人として歩んだ地上の生涯においてすでに、神の栄光を見始めていたのでした。
結び
私たちは、見るべきものを見ているでしょうか。私たちの傍らには、世の終わりまで主イエスが共におられます。この方は死に打ち勝たれたお方。いのちと希望の源が今、私たちと共におられます。だから私たちは墓の中を、世の現実を見つめすぎてはいけない。「信じるなら神の栄光を見る」のです。だから「その石を取りのけなさい!」石を取りのけるよう語られた、この主の励ましを今週も胸に響かせていきたいと思います。お祈りします。
「彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。『父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します』」。
私たちを神の子どもとしてくださったお父さま、ありがとうございます。あなたは私たちの祈りをも主イエスのゆえに聞いておられます。どうか、この暗い世の現実の中にあって、私たちの目を開き、神を栄光を見させてください。コロナ騒ぎが一日も早く収束に向かいますように。そしてそれ以上に、神の御国が今日も、この暗い時代の中にあっても、この世界、日本、千葉、そして新船橋キリスト教会のお一人お一人の内に豊かに広がっていきますように。また、光を見上げて歩む私たちの姿が証しとなって、一人、また一人と救われる方々が起こされていきますように。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!
齋藤五十三師
コメント
コメントを投稿