スキップしてメイン コンテンツに移動

その名はインマヌエル(マタイの福音書1:18〜25)

先週は、朝岡先生がルカの福音書のマリアの受胎告知から説教をしてくださいました。御使いから「おめでとう、恵まれた方!」と告げられ、何が「恵み」なのかと戸惑うマリアでしたが、神さまの救いのご計画という、大きな「恵み」を前に、自分のイメージしていた「恵み」を引っ込めて、「おことばどおり、この身になりますように」と祈るマリアの姿に教えられたことでした。

ルカの描くクリスマスのストーリーは、明るいです。老夫婦ザカリヤとエリサベツに子どもが与えられたストーリーから始まり、マリアの受胎告知。戸惑いはあっても、いさぎよく「おことばどおり、この身になりますように」と告白するマリアの口からは賛美がほとばしり出るのでした。続く羊飼いのストーリーも、天上の御使いたちの大合唱が描かれています。なんとも明るいではないですか。それに比べて、マタイの描くクリスマスは暗い。まず系図から始まるというのがとっつきにくい。メシアが生まれるという預言の成就という意味で、欠かせないのは分かるけれど、読み手には堪えます。そして、今日取り上げるヨセフの苦悩の場面。そして東の国の博士の来訪と、ヘロデ王の2歳以下の男の子の大虐殺事件。なんとも暗い印象を受けます。言ってみれば、ルカがクリスマスの光の部分を描いたとすると、マタイは、その光によってできる影の部分を描いていると言ってもいいでしょう。けれども、太陽の光が強ければ強いほど、濃い影ができるように、神の救いの成就という大きな光が現れたときに、おのずと深い影が差すのかもしれません。

さて今日は、ヨセフの苦悩に目を留めていきましょう。18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」

今年の夏にうちの娘二人が結婚しました。結婚前の娘たちは、もちろん嬉しさはあるのですが、マリッジブルーというのでしょうか、戸惑いや多少後ろ向きの感情も出て来ていたようです。ところが、お相手の男性の方は、もう結婚に向かってまっしぐら、後ろを振り返ることなく、期待いっぱいでその日を待っているのがよくわかりました。男性の方が単純…、(もとい!)純粋なのでしょうね。そんなことを考えると、この時のヨセフの落胆は、どれほどだったか想像できます。当時の婚約期間は1年ぐらいだったようですが、いっしょに住まないだけで、法律上は結婚と同じ意味を持っていました。一年置く理由は、結婚への備えをするためということもありましたが、その一年間に他の人との関係がないかどうか吟味するためでもあったようです。もしこの間に他の異性と関係をもち、妊娠しようものなら、それはすでに不貞行為であって、当時は厳罰に処せられました。相手との結婚解消はもちろん、最悪の場合、石打の刑に処せられることもあったのです。「聖霊によってみごもっていることがわかった」とありますから、マリアからかマリアの家の人からか、彼女が妊娠したとの話しがあったのでしょう。結婚に向かって邁進していたヨセフでしたから、その知らせを受けたときには、目の前が真っ暗になりました。「そんなばかな。」「聖霊によってみごもるってどういうことだい?」「相手はだれなんだ」「いや、ぼくの知っているマリアはそんな女じゃない」「ひょっとしたらレイプされたのだろうか?」「それがショックで気がふれてしまい『聖霊によってみごもった』などと言っているのだろうか」いろんな可能性を考えたのでしょう。考えたって理由はわからない、でも現に彼女は妊娠している。妊娠しているということは、自分以外の誰かと関係を持ったということ、だとしたら彼女とはもう結婚できない。でもそれを公けにすると、彼女はさらし者になり、いのちを落とすことになるかもしれない、死刑を免れたとしても、社会的制裁を受け、一生人目を避けて暮らすことになるだろう。それはかわいそう。そうだ、もうこうなったら、ひそかに離縁するしかないではないか。聞けば今彼女は親戚のエリサベツのところに行っているらしい、そこで出産して、黙って帰ってきたらいい。…想像力たくましい私はいろいろと考えてしまうのですが、みなさんはどう思われるでしょう。

これがヨセフの「正しさ」でした。律法に忠実な彼は、「不貞という罪は受け入れられない」「でもマリアを救いたい」その両方を取る決断が、彼の「正しさ」だったのです。聖書で言われている「正しさ」というのは「神との関係における正しさ」だと言います。神さまの中には、「正しさ」と「愛」、つまり「義」と「愛」が矛盾なくおさまっています。神さまは義なるお方であり、愛なるお方なのです。そして神の「義」と「愛」が出会うところ、それが、神が人となって生まれてくださったクリスマスであり、十字架だったのです。ヨセフはマリアを本当に愛していたのでしょう。「愛」とは相手本位なものです。相手を尊重し、生かすのが愛なのです。そしてこの場合、彼の持つ「正しさ」と「愛」が矛盾しないでできる最善が、「マリアをひそかに離縁する」ということでした。

20節「彼がこのことを思いめぐらしていたところ」とあります。「マリアをひそかに離縁する」と決めたけれど、なお揺らぐヨセフでした。いろいろ頭の中でシュミレーションしてみては、掻き消しを繰り返す、眠れない夜だったことでしょう。いつ寝付いたのか本人もわからない中、彼は夢を見ます。そして夢で、彼は主の語り掛けを聞くのです。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」一方的に告げられました。マリアのような御使いとのやり取りは、そこにはありません。けれども、「正しい人」ヨセフはそれで十分でした。「マリアの言っていたことは本当だった」まずは、そう安堵したかもしれません。そして御使いによって告げられたことの重大さを考えないではいられなかったことでしょう。御使いは「その名をイエスとつけなさい」と言われました。「イエス」の意味は「主は救い給う」という意味です。マリアの胎に宿った子は救い主、やがて神の民を罪から救うお方だと言うのです。

また「ダビデの子よ」と主は呼びかけられました。聖書に精通していたヨセフは、「メシアはダビデの末裔から生まれる」との聖書の預言を思い出したことでしょう。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)預言者ナタンがダビデに告げた預言「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12-13)(Ⅰ歴代17:11-14)。確かに自分はダビデの子孫だけれども、ダビデの子孫なんて、ダビデの時代から700年経った今は、星の数ほどいる。自分の家はすでに落ちぶれてしまい、ナザレの田舎に住む、大工ではないか。しかし神は、マリアの胎の子を通して、イスラエルを救おうとしておられる。その子はメシアだという。自分は生まれてくる子の生物学的な父親にはなれないけれど、マリアと結婚すれば、その子は、確かに戸籍上、法律上では、ダビデの家系、ダビデの末裔ということになる。このメシア預言の成就が、今自分の決断にかかっているというのか!ヨセフは、この御告げの意味するところの重さに身震いをしたことでしょう。

  ここで、マタイの解説が入ります。22節「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」そして、もう一つのメシア預言を加えます。イザヤ書7章14節のみことばです。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」 この預言は、700年前、南ユダ王国が滅亡の危機に瀕していたときに、預言者イザヤがイスラエルの民に告げた希望のメッセージでした。

「神が私たちとともにおられる」とはどういうことでしょうか。ヨハネは福音書の中でこう言っています。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」神は、イスラエルを救うために、いや、国や民族、時代を超えた霊的イスラエルを救うために、神が人となって、私たちの間に住んでくださった。「インマヌエル」となってくださった。私たちが神と永遠に共にいるようになるために!

こうしてヨセフは、夢から目覚め、夢で御使いが命じた通りにしました。つまり、マリアと結婚し、入籍しました。ダビデの家系に入れたのです。そうして、その子が生まれるまで、マリアと肉体的に結びつくことはなかったのです。おなかの子の父親は、絶対に自分ではないと証明するためにです。自分を納得させるためだったかもしれません。そして、生まれたその子にイエスという名、「主は救い給う」という名をつけたのです。

ヨセフは聖書の中では、一言も言葉を発していないのですが、黙って、主が託された使命を受け取る決断をしました。マリアを妻とし、マリアの産む子どもの父親となり、責任を持って養育するという決断です。こうして、ヨセフは神が人となって、私たちの間に住まわれる、永遠のインマヌエルになってくださる、その救いのみわざに自ら参与するために、勇気を出して一歩を踏み出したのです。

人生は決断の連続です。大きな決断、日常の中での小さな決断、いろいろあるでしょう。時には選ぶべき道が、自分の願いに反することもあるでしょう、苦難の道だとわかっている道かもしれない。けれどもその道が、神さまの救いのみわざに参与する道であり、主のみこころに沿った道ならば、主は必ずその決断を祝福し、私たちの人生をよいもので満たしてくださることを信じましょう。祈ります。

齋藤千恵子牧師


コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。