『おことばどおり、この身に』
ルカ の福音書1:26-38
12 月に入りました。早いもので一年の締めくくりの月となります。また先週から待降節が始
まって、今日はその第二主日です。戦争は終わらず、疫病も止まず、闇の力が重くのしかかる
暗い時代に、まことの光としてお出でくださった御子イエス・キリストを待ち望む日々を、よい備
えをもって過ごしたいと思います。日々の忙しさに追われ、待ち望むこと、備えること、静まること
を忘れがちな私たちです。落ち着いた心で、御子を迎える備えをさせていただきましょう。皆さ
んお一人一人に、主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように祈ります。
1.マリアへの受胎告知
今、私たちの手に届けられ開かれている聖書は、神さまの私たちに対する愛と救いのメッセ
ージを伝える誤りない「神の言葉」です。そしてその主人公は私たちの救いのために父なる神
がお遣わしくださり、人となって私たちのもとに来てくださった神の御子イエス・キリストです。し
かしまた聖書には神にあって歩んだ多くの人々の姿が描かれてもいます。その多くは私たちに
とって生きた時代も場所も境遇も異なる人々ですが、しかし聖書が赤裸々に記す彼らの人生
を見つめていくと、そこには生きることにともなう様々な艱難辛苦を経験し、躓きや失敗を繰り
返し、涙や痛みを味わい、人生の重荷を背負って歩んだ等身大の人々であったことが分かりま
す。その意味で聖書は「人間の書」であるとも言えるでしょう。
聖書は一人の人の人生を軽んじません。むしろ聖書には人間に対する深い理解と洞察が
あります。人が生きることには労苦がともない、人生における涙や痛みを味わい続けるような
人生があることを知っています。その上でそのような人生は誰一人として無意味であったり、無
価値であったりするものではないことを証ししています。そこには神によって生かされる人生の
尊厳、生きることそのものへの大いなる肯定があるのです。
今朝、私たちも聖書に出てくる一人の人物に目を留めたいと思います。それが「マリア」で
す。聖書の中で印象に残る登場人物を挙げたら恐らく上位に入るのがマリアでしょう。イエス・
キリストの母となった女性、しかも天の使いの告知によって神の子を実に宿した処女として、歴
史の中でももっとも崇められてきた女性の一人ですしかしそれだけに様々にイメージが膨らん
で、本来の姿が見えづらくなってしまった人とも言えるかも知れません。特にローマ・カトリック
教会では中世以降、マリア崇敬が盛んになり、マリアがどんどん神格化され、「マリアの無原
罪懐胎」や、「マリアの被昇天」という独特の教理が生み出されていくようにもなったのです。
しかし今朝はできるだけ聖書に沿ってマリアの姿に目を留めたいと思います。それは等身大
のマリア、そして神とともに生きたマリアの姿です。26、27 節。「さて、その六か月目に、御使い
ガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この
処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった」。ここにはクリス
マスの驚きが記されます。御使いガブリエルはがガリラヤのナザレという片田舎の片隅につつ
ましく生きる、まだあどけなさの残る一人の若き処女マリアに現れたのです。
御使いはマリアに告げます。28 節。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられま
す』」。御使いから「おめでとう」との言葉を掛けられても、マリアにとってその言葉は戸惑いを
生むものでした。29 節。「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあ
いさつかと考え込んだ」。突然の出来事に触れて、マリアの驚きや戸惑いはどれほどのものだ
ったでしょうか。しかし御使いは続けます。30 節、31 節。「恐れることはありません、マリア。あ
なたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名
をイエスとつけなさい」。御使いはマリアに「恵まれた方」と語りかける。しかしそれは彼女の人
生に突然のように舞い降りてきた、いやむしろ強引に入り込んできた出来事です。けれども同
時にこの出来事は、「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みを受けたのです」という
言葉でもたらされたように、全面的に上からの神の恵みのゆえの出来事でありました。
2.どうしてそのようなことが
この一連の経過は、私たちに神の恵みと言うことの理解を大きく広げ、また時にひっくり返す
ようなものです。私たちの願いがかなうこと、思惑通りにことがすすむこと、夢が実現すること。
そういう成功の思想、上昇の思想があるところには、必ずと言ってよいほど、そこから除外され
ていくもの、取り残されていくものがあり、しかもそういうものを見えなくさせる力がはたらくもの
です。しかし神様の恵みは、時に私たちにとっては恵みとは到底受け取れないようなタイミング
で、恵みとは見えないような仕方で、もたらされてくる。それは私たちにある決断、ある冒険を
迫るようなものなのです。まさに驚くばかりの恵み。でもそれを受け取った時に、そしてその恵
みの中に生かされるときにはじめて経験できる世界。それが神の恵みの世界です。
マリアにとっての最大の驚き。それは何と言っても未婚の処女が子を産むという言葉に対す
るものです。34 節。「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私
は男の人を知りませんのに』」。この言葉には、彼女の心の中に吹き出してくるあらゆる恐れや
不安、疑問などが詰まっていたでしょう。許嫁の身である女性が子を身に宿すことは、当時の
社会では姦淫の罪、すなわち石で打たれるべき死に値する罪であり、夫となるべき愛するヨセ
フを裏切る行為でありました。ましてさらなる驚きは、そうやって身に宿した幼子が、神の救い
主、いと高き方の子、聖なる者、神の子であられるというのです。
彼女の心に中に沸き上がってくる言葉に言い表しきれない様々な感情が、しかしやがて一
つの言葉に収束されていくようになる。そのために決定的な役割を果たしたのが御使いのこ
の言葉です。35節から 37節。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおい
ます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類エリサ
ベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう
六ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません」。
3.おことばどおり、この身に
「神にとって不可能なことは何もありません」。この言葉を御使いから聞いた時、マリアの中に
一つの決断が起こります。そしてその一つの決断によって、様々な恐れ、不安、疑問あるいは怒
りすらもわき上がってきたであろう彼女の心は凪いで、そこから一つの忘れがたい信仰の言葉、
3
そこに自らの人生を丸ごと委ねた言葉が発せられたのです。38 節。「ご覧ください。私は主の
はしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」。
私たちはこの朝、このマリアの言葉をしっかりと聞き届けたいと思うのです。ここに示される
生き方は決して消極的な、単なる受け身の生き方ではありません。自分の力ではどうしようも
できない運命に対して降参してしまった人の諦めの姿ではないのです。そうではなく、ここには
神の計り知れない御旨をこの身に引き受けて、その通りに生き抜いていく生き方、生かされて
いる日々を生かされている日々として、一日一日と生き抜いていく生き方。大いなる受動性の
中にある確かな能動性というものがあるのです。自分の予想だにしない大いなる神の救いの
ご計画の中に巻き込まれ、自分の理解を遙かに超えた神の御心の中に投げ込まれて、しかし
彼女はその人生を引き受けたのであり、ここに私たちは神と共に生きた女性、マリアの信仰を
見るのです。福音書は彼女の人生を神から恵みを受けた人の人生として描きます。けれどもそ
の人生とは、むしろ苦しみを引き受けて生きる道でした。愛する息子を手放して生きなければ
ならない生き方、その息子の地上の最後をしっかりと見届けなければならない生き方、しかし
そこに神の救いの成就を見つめなければならない生き方でありました。自分の身に起こる全
てのことが上から来ることを認めて、それを引き受ける人、そこに生かされてある信仰の人生
があるのです。マリアもヨセフもクリスマスに登場してくる人々は皆、本当に小さな、普通の人々
です。けれどもそのような人々の信仰の決断が神の大いなる御業の舞台となっていった。決し
て彼らが望んだからではない。彼らにそのような役目を担うべく選ばれる何かがあったわけで
はない。けれどもそこに神の自由で主権的な御業が始まっていくのです。
マリアは主のはしための一人として、主なる神から与えられた人生をそのまま丸ごと引き受
けた人です。このような人生、神の下さった賜物としての人生を丸ごと受け入れていく人生。喜
びもある。楽しみもある。それとともに、悲しみもある。苦難もある。けれどもそれが主から与えら
れた人生であるという、ただその一点ゆえに、「ご覧ください。私は主のはしためです。あなた
のおことばどおり、この身になりますように」と言いうる人生は、この主の招きに答えて生きる人
生なのです。御子イエス・キリストの誕生に際して神が用いられたのは、貧しく小さい存在であ
りながら、しかも主の御心の前に自分の願いを従わせ、「おことばどおり、この身に」と自らの
人生を差し出した女性であったことを思うとき、私たちはあらためて神を信じる信仰ということ
の基本的な構えを覚えさせられます。確かに先のことがすべて明らかになってはいない。苦難
や涙の谷を過ぎることもあるかもしれない。しかしそこにおいて神と共に生きる。神の恵みに信
頼して生きる。そのような人生を歩ませていただきましょう。
(朝岡勝師)
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