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神は約束に従って(使徒の働き13:13~23)

 

「神は約束に従って」

使徒の働き13:13~23

【はじめに】

「使徒の働き」の講解説教を再開します。前の説教(8/9)は、パウロとバルナバ、そして助手としてヨハネが第一次伝道旅行に出発しました。アンティオキア教会から送り出されて、まずはキプロスという島に行きました。そこはバルナバの出身地でしたから土地にも明るく、行きやすかったのでしょう。そしてキプロス島の東海岸サラミスに到着して、巡回伝道しながらパポスに向かったのでした。そしてそこで地方総督セルギウス・バウルスに伝道しました。途中魔術師エリマの邪魔がはいりましたが、最終的には総督は信仰に入ったというお話でした。

その後彼らはパポスを後にして、船でベルゲに渡りました。今のトルコの南部です。そこで想定外のことが起こりました。助手としてついてきたヨハネがこの伝道旅行から離脱してしまったのです。ヨハネはまだ若く、お金持ちのお坊ちゃまだったので、厳しいこの伝道旅行にはついて行けないと思ったのでしょうか。理由は書いていないのでわかりません。とにかく彼はエルサレムに帰ってしまったのです。このヨハネをめぐっては、のちに次の伝道旅行に連れて行くか行かないかで、パウロとバルナバが反目し合い、互いに別行動をとる原因になってしまうのですが、それはまた、後ほど詳しく学びましょう。とにかく仲間が一人欠けたのは大打撃でした。しかし、だからと言ってこの伝道旅行を中断するわけにはいきません。彼らはヨハネに別れを告げて、アンティオキアに向かいました。このアンティオキアは、彼らが派遣されたアンティオキア教会のあるシリアのアンティオキアではなく、ピシディアのアンティオキアです。ぺルガから内陸に入ったところにあります。彼らはそこでもユダヤ人の会堂を拠点に伝道しました。 

1,安息日に会堂で奨励をするパウロユダヤ人の会堂(シナゴーグ)での礼拝の場面は、先週も出てきました。イエスさまがナザレの会堂で、会堂司にイザヤ書の巻物を渡されて、それを朗読し、座って「今日この聖書のことばが実現しました!」と聖書の説き明かしをしました。この聖書朗読で立って、説教で座ると言うのは、ユダヤ式の礼拝形態だったようです。ところがパウロは、他の人が聖書を朗読した後、会堂司に指名されると、立ち上がって、手振りで会衆を静かにさせてから話し始めたのです。これはギリシャの雄弁家がよくするジェスチャーだったようです。実は、ここには二種類の会衆がいました。ユダヤ人とギリシャ語を使う「神を恐れる」外国人(16節)です。パウロはギリシャ人にはギリシャ人のように…と彼らを配慮してこのような話し方をしたのかもしれません。


2.神の民イスラエルの歴史
 パウロの説教はどんな説教だったのでしょうか。それは聖書全体を要約するようなメッセージでした。聖書全体をよく知っている人しかできない説教です。私たちのまわりで聖書を知っていると言えば、下川友也先生でしょう。先生はもうすぐ聖書通読2千回に達しそうだということです。そんな下川先生なら、聖書全体を語るような説教も可能でしょう。聞いてみたいものです。

パウロの説教の内容を一つ一つ解説することは今日はしません。けれどもこの説教を見ながら私はあることに気が付きました。この説教の中で使われている動詞のほとんどは、神さまが主語だということです。神は、「父祖たちを選び」「これを強大にし」「導き出して」「耐え忍ばれ」「異邦の民を滅ぼし」「相続財産を与え」「さばきつかさたちを与え」「サウルを与え」「退け」「ダビデを立て」「救い主イエスを送ってくださいました」。

イスラエルの歴史は徹頭徹尾「神がなさったことの歴史」だったのです。「歴史」は英語でhistory=His storyと言いますが、歴史は、神の主権の中で動いています。私たちは目の前のことしか見ることができません。ですからイスラエルの民のように、神に不平不満を言い、神がいるならなんでこんなことが起こるの?と文句を言い、神に背を向け、自分の仕えたい神に仕え、自分好みの偶像を作り、あるいは自分を神にして自分勝手に生きるのです。けれども18節にあるように、神はその間ずっと「耐え忍ばれて」(18節)いました。調子のいい時には、「どんなもんだ」と自分の栄光にし、背後で私たちを強め、戦って勝利をくださった神に気づかず、感謝もささげないのが私たちです。そして調子が悪くなって、やっと神を求めるのが私たち人間です。この17節から23節まででイスラエルの民が主語になる動詞は一回だけ。21節「彼らが王を求めたので」というところです。神が預言者を通して直接統治する国は嫌だと、他の近隣の国々のように王が欲しいと彼らは神に「求め」ます。それは神のみこころではありませんでしたが、神さまはそれを聞き入れてくださいました。神さまは時にみこころでなくても私たちのわがままを聞かれます。好きなようにさせます。放蕩息子の父親が財産の分け前をもらって家を出たいと言った弟息子の求めに答えて、財産を分け与え自由にさせたように、神は私たちに強要はしません。神さまが人を作られた時から、神は人をロボットにしたくはなかったのです。人が自分から喜んで神の愛に答え、従ってほしいからです。こうしてパウロはイスラエルの歴史を振り返りながら、人の神への不真実と神のご真実を語りました。

3.神は約束に従って

 「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。」神さまはダビデ王に、「ダビデの子孫からイスラエルに救い主(メシヤ)を送る」と約束されました。神さまは約束に忠実なお方です。このダビデ契約が実現し、イエスさまが地上にお生まれくださるまで、実に1000年近くかかりました。この間にもいろんなことがありました。ダビデが築いた王朝は、息子ソロモンの統治の後、分裂し、弱体化し、近隣の強国に敗れ、捕囚として引いて行かれ…。しかし、その間も神は約束を忘れてはおられなかった。約束の実現に向けて準備し、時が熟するのを待っておられたのです。そして時至って、救い主イエス・キリストを私たちに送ってくださいました。 

【結論】

 神さまは約束を守られるお方です。ご自身のお約束に忠実なお方です。真実なお方です。私たちが台湾で宣教師をしていた時のアメリカ人の同僚のお父さんが、お年を召されて亡くなられました。その時お母さんが夫を看取ったのですが、こう言ったと言うのです。「あなたは、一生の間私に対して誠実でした」と。一生の間妻だけを愛し、うそ偽りのない愛を示し続けてくれたということでしょう。美しい別れ方だと思います。

私たちも日常生活でいろいろなことがあるでしょう。生きていれば苦しいところを通ります。そんな中で神さまの愛が見えなくなることもあるでしょう。けれども私たちが節目節目で人生をふりかえるときに、きっと気づくと思うのです。「ああ、神さまはいつも私に対して真実だった」と。私たちは今日、神さまのご真実に目を向けましょう。 

教会福音讃美歌40
1,父の神の真実は  とこしえまで変わらず  慈しみと憐れみは 尽きることがありません

  ※すばらしい主 その真実は 朝毎に新しく  深い恵み知らせされて 賛美します主の御名 

2,罪を赦し平安を  主は与えて励まし  力に満ち祝福に  溢れさせて下さる ※


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