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あなたはどこにいるのか(創世記3:8~13)


「あなたはどこにいるのか」

創世記3:8~13

人は、神さまが造られたすばらしく良い世界で、幸せに暮らしていました。何より、神さまのとの人格的な豊かな交わりがありました。それだけじゃない、神さまは、人に最高のパートナーも与えられ、なすべき仕事もあり、彼は、とても満足して、喜びに満ちた毎日を暮らしていました。ところが人は、神が定められた、たった一つのルール、「善悪の知識の木の実からは取って食べてはならない」というルールを守ることができず、それに背いてしまったのです。こうして、人に罪が入りました。罪は、何も白雪姫のように毒りんごを食べて、からだ全体に毒がまわったとか、何か悪いウイルスに感染したとか、そういう風に人に入ったわけではありません。人が神の愛を疑い、神は自分たちを不当に支配していると思い、神よりも賢くなり、神の上に立ちたいと願い、神の下にある自由を拒否し、神なき自由を求めたことによって、人に罪が入ったのです。「罪」とは何でしょうか。罪とは神を退け、無視すること、また神に反抗すること、神を神として認めないこと、そして神が受けるべき賛美をささげないこと(byティモシー・ケラー)です。つまり、罪とは、「盗む」とか「殺す」、「姦淫する」というような表面に表れる行動である以上に、人の心の状態です。人は神に向き合うように造られたのに、神に背を向けてしまった、そのような神に背を向けた不従順な状態こそ、「罪」なのです。

罪を犯した人が見る世界は変わってしまいました。人は神が創造された世界の冠、頂点だったので、人が罪を犯した時に、世界全体に、被造物全体にその影響は及びました。ありとあらゆる「悲惨」が、被造物世界に蔓延したのです。世界はまるで変ってしまった。それは、カラーの世界から、白黒の世界になってしまったような変わりようです。いや、変わってしまったのは、実は自分でした。それまでは澄み切った青空のような心だったのに、今はどんより曇り空。恐れや不安、怒り、孤独やむなしさ、今まで知らなかった感情に心がふさぎます。

そんな時、主の足音を聞きます。もちろん神は霊なのですが、それぐらい親しく、神は人と交わっておられたということです。そよ風の吹くころ、黄昏時でしょうか。いつものように神は人のところにやって来られました。神と人は、日々、向き合い、語らい、一日のことを分かち合い、笑い合う幸せな時間を持つのを常としていました。いつもはこの時間が待ちきれなくて、親の「ただいま~」という声に、思わず玄関に駆けていく幼い子どものように、神を出迎えていたのに、今日は、それができない。恐いのです。神と顔を合わせるのが恐い。いちじくの葉っぱで腰回りは覆ったけれど、それだけでは覆いきれない「恥」を彼らは感じていました。10節には「自分が裸であるのを恐れて身を隠した」と言っている通りです。もう、神に向き合えない。神に向き合うことは喜びではなく、恐れになってしまいました。

けれども、神はいつものように園に降りて来られ、人と会おうとします。もちろん神は、人に何が起こったのか、すべてを御存じです。けれども神は、人に問うのです。「あなたはどこにいるのか」と。神は呼びます。捜すのです。そう、神はいつも、今に至るまで、捜しておられます。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われたのはイエスさまでした。「失われた子を捜す」それが、神の子が人となって地上に来られた目的でした。それは、執拗なまでの捜索です。詩篇の139篇7-10節には、そんな執拗に捜される神さまの姿が描かれています。詩人は言います。「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って海の果てに住んでもそこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。」人は言うかもしれない。「もういい、もう放っておいてください。追いかけて来ないで」と。けれども、愛の神は、滅びに向かう人を放ってはおけないのです。どんなに疎まれても、避けられても、隠れられても、執拗に「あなたはどこに!」と捜されるのです。

神さまはなにも、人が上手に隠れて、見つけられなくて「どこにいるのか」と呼びかけているわけではありません。それは悔い改めへの招きでした。「ごめんなさい。あなたが禁じておられた木の実を食べました!」と告白してほしかったのです。ところが人はなんと答えたでしょう。10節「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています」。「身を隠しています」とあります。彼は、茂みの中に隠れたまま、神さまに答えたのです。

神さまは続けて聞きます。11節「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」この問いも、神さまは、わかっていて問うています。やはり罪の告白を促しているのです。悔い改めへの招きです。彼はどうやって答えればよかったのでしょうか。こうです。「自分たちが裸であることを誰も私たちに告げていません。私たちは、あなたが食べてはならないと命じておられた木から取って食べました。そうしたら、自分が裸だということに気が付いて、恥ずかしくて、隠れないではいられなかったのです。神さま、ごめんなさい! 私たちはどうしたらいいのですか?」そんな風に、素直に答えられたら、この後もっと違った結果を生んだことでしょう。でも、彼は言います。12節「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

「この女が!」と指を指す男に、「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉!」と思わず感嘆の声をあげた、あの時の姿はありません。憎々しげに「この女が」と指さされた女は、どんな気持ちだったでしょう。そこには互いに丸ごと受け入れ合い、愛し合い、尊重し合う、最良のパートナーとしての姿はありません。それだけではありません。男は言うのです。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」と。まるで、女を造られた神を責めるかの口調です。これを「自己弁護(言い訳)」、「責任転嫁」と言います。私たちもよくやりますね。自分が罪を犯したのは、夫のせい、妻のせい、親が悪い、子どもが悪い、環境が悪い、社会が悪い、だいたい、なんで神は人を創造したのだ。なんで善悪の知識の木なんか置いたんだ。なんで人に自由意思を与えたのだ…とまで言う。そして最初の人が罪を犯さなきゃこんなことにはならなかったのに…と、私たちは、自分が犯した罪の責任を自分以外に置いて、責任逃れをするのです。でも、これが罪人なのです。罪人は、自分の罪がわかりません。罪を自分以外のせいにするのです。そして自分の罪を嘆き悲しむこともありません。人は、自分の罪を認めることができない。「私がやりました。悪かったです。ごめんなさい。」と悔い改めることができないのです。子育てをしたことのある人はわかるでしょう。しゃべり始めたばかりの子どもさえ、この性質をすでに持っていることを。

私たちが子育ての中で大事にしていたこと。それは「悪いことをしたらちゃんとあやまる」ということです。子どもが泣いても、怒っても、口をつぐんでも、時には何時間かけても、あやまるのを待ちました。反抗期で済ませません。それは、「あやまらない」「罪を認めない」「悔い改めない」というのが罪の本質だからです。私たちは子どもに、自分の過ちを素直に認める人になってほしかったのです。それだけじゃない、あやまれば、親が大きな愛で赦してくれる、そういう体験を重ねてほしかった。つまり、子どもと信頼関係を築きたかったのです。こうした信頼関係は、これからの子どもの人生で、神との信頼関係の基礎になると信じていたからです。

こうして人類に罪が入りました。これを「原罪」と言います。原罪は、全人類の生まれながらの性質の腐敗を意味する教理用語です。ハイデルベルグ信仰問答では、「この根源的な腐敗のゆえに、人間は善に対して全く無能となり、あらゆる種類の罪を生ぜしめるように、悪に傾いている」と言っています。そこまで言われてしまっては、もうどうしようもないと、私たちはあきらめたくなるかもしれません。けれども、神さまはあきらめなかった。神さまは、「あなたはどこにいるのか」と、もう一度、神の御前に出るチャンスを人に与えました。イエス・キリストを通して。神さまは、御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださいました。そして十字架につけ、人の罪を背負わせ、犠牲として、身代わりの罰を受けさせたのです。そしてイエスさまは三日目によみがえり、人を神から引き離す罪と死を完全に解決してくださいました。

神さまは今も「あなたはどこにいるのか」と呼んでおられます。私たちが「はい、ここにおります。罪を犯しました。ごめんなさい。」と応答するならば、神は必ず、「子よ、汝の罪は赦された」私たちを再び迎え入れてくださいます。

神さまの「どこにいるのか」との呼びかけは、クリスチャンの私たちにも無関係ではありません。なぜなら、私たちにはまだ罪の性質が残っていて、今も罪に対して無能で、どうしようもなく悪に傾くからです。けれども安心してください。イエスさまを信じている私たちには、イエスさまの義が、転嫁されています。アダムは神に背いたけれど、イエスさまは、どこまでも神に従い、十字架の死にまで従ったのです。その従順が、悔い改めた私たちに転嫁されて、神はそれを見て、私たちを聖いとされたのです。人は、神への不従順を、人や神に転嫁したけれど、イエスさまは、それらの転嫁された罪をすべて引き受けて、十字架によってきよめ、今度は、ご自身が達成された従順と義を私たちに転嫁してくださったのです。今やイエスさまの従順と義は、私たちのものとなりました。ハレルヤ! ですから、私たちのすべきこと、それはやはり、「あなたはどこにいるのか」という声を聞いたら、「はい、ここにおります」と答えることです。自分の罪を認め、心から悔い、それでも赦してくださるというイエスさまを見上げて、感謝して生きることです。祈りましょう。


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