スキップしてメイン コンテンツに移動

ふさわしい助け手(創世記2:18~25)


「ふさわしい助け手」

創世記2:18~25

 

私が中学の時に、「将来の夢」という題目で作文を書く機会がありました。その時に、私は何と書いたか。「私は将来男になりたいです。なぜかというと、自分が女であることのために、将来受けるであろう差別や社会的不利益を思う時、将来に希望を持てないからです。」と書いて、職員室で回し読みされ、入学早々一躍有名になったことがありました。私が子どもの頃は、フェミニズムやウーマンリブという言葉がまだ新しい時代でした。私はそんな社会の中で、女性として生まれてきたことに対し、漠然とした不安を持っていたのかもしれません。残念なことに、多くの国で、女性は男性よりも劣ったものとされ、秩序という名のもとに、差別され、支配され、虐げられてきた歴史があります。そしてそれは、キリスト教国に多く見られたことでした。また、その根拠とされてきた聖書箇所の一つに、今日開かれたこの箇所があります。今日は、この聖書の個所を丁寧に読み進める中で、聖書の女性観、人間観を丁寧に見ていきたいと思います。 

「人がひとりでいるのは良くない。」と神さまは言われました。人の側が神さまに、「一人はいやだよ、さびしいよ。仲間を作ってよ」と要求したわけではありません。神さまが、「よくない」と判断されたのです。神さまは、人を眠らせて、寝ている間に女を造り、そして目が覚めた時に、完成した女を人のもとに連れて来られました。ここで注意したいのは、女の創造に関して、男は全く関与していないということです。「いやいや、あばら骨を提供したじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、何も男が「神さま、どうぞ私のあばら骨を使ってください」と申し出たわけではなく、神が男を眠らせ、寝ている間に、勝手にあばら骨を取ったのですから、やはり、男性は女性の創造に関して全く関与していないのです。

さて、話を戻しましょう。神はどうして、「人がひとりでいるのはよくない」と思われたのでしょうか。それは、人が神のかたちに造られたからです。「神のかたちに造られた」とは、「神に似た者として造られた」ということです。神は三位一体の神さまでした。唯一でありながら、父、子、聖霊の三つの位格を持ったお方でした。そして、神は、その交わりをとても喜んでおられたのです。完全な愛の交わりに満足し、何の不足も感じておられませんでした。それどころが、その交わりがあまりにすばらしいので、それを人に分かち合いたくて、人を創造されたのでした。ですから、神は「人がひとりでいるのはよくない」と言われました。人は、神のように交わりに生きる時、幸せと満足を得る者として造られたのです。また、人は神のすばらしさ、神さまの愛を鏡のように映し出す者として造られました。そのためには、愛する対象が必要です。愛する対象、ゆるす対象、仕える対象がいなくて、どうやって神の栄光を、そして神の愛をあらわすことができるでしょうか。ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、何もすべての人は結婚すべきだ、独身は良くないと言っているわけではありません。もちろん、これは結婚の根拠となる一つのみことばですが、結婚に限定されるものでもありません。人は孤独では生きていけないのです。仲間が必要です。コミュニティが必要です。交わりが必要です。愛する対象が必要なのです。そして、私たちは人との交わりの中で、神の愛をあらわしていくのです。

次に「ふさわしい助け手」の意味について見てみましょう。この「ふさわしい助け手」ということばも、歴史の中でずいぶん曲解されてきました。あくまでも男が主で、女は後ろに下がって、男を支えることに徹するべきだとされてきたのです。例えば、男が自分の仕事に専念できるように、女は夫の世話や家の事、子育て全般を担うべきだ、というように。けれども、この「ふさわしい」と訳されているヘブル語は、「向き合って」「対応して」「前にある」という意味を持ちます。つまり女性は、男性に対して、対等な立場で正面から向き合う存在として造られたということです。

また、「助け手」と訳されているヘブル語は「エーゼル」と言いますが、これはもともと「救出者」を指す言葉です。聖書では、この箇所以外に19回でこの言葉が使われていますが、そのうち16回は、神が民の「救出者」「救援者」であるという際に使われています。有名なところで、今日の招詞で読んだ詩篇121篇です。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。」神さまは、女性を「ふさわしい助け手」として造られました。女性は男性と同じ尊厳を持って男性に正面から向き合い、時には、意見し、アドバイスを与え、危機の時には、救出者としてレスキューしていく、そんな役割が与えられているということです。

少し戻るようですが、19節、20節を見ると、神さまは、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を人のところに連れて来て、名前をつけさせました。アダムは、動物たちに名前を付けるために、一つ一つをよく観察し、特長を見て、名前を付けたことでしょう。しかしアダムは、この仕事を続ける中で、一つのことに気づきます。動物の中には「ふさわしい助け手」がいないということに。自分と対等に正面から向き合ってくれる強力なレスキュー隊はいなかったということです。そして、おそらく神は、それに気づいてほしくて、この動物に名をつけるという作業を彼にさせたのではないでしょうか。

私たちも同じではないでしょうか。人の力を借りなくても、自分でなんでもできる。人の意見を聞かない、アドバイスはいらない、自分の考えがいつも正しい。そんな人は、気づくべきです。私も誰かに助けてもらう必要があることを。肩の力を抜いて、周りを見渡してみるといいです。神さまは、あなたにも助け手を備えていてくださいます。私たちが謙遜になって、人に助けを請うならば、あなたの今抱えている問題は解決するかもしれません。また、もっといい仕事ができるでしょう。生活はもっと豊かになることでしょう。

さて、次は「男」と「女」の話です。男はヘブル語で「イシュ」と言います。女は「イシャー」です。えっ、「アダム」じゃなかったの?と思われた方もおられるでしょう。「アダム」は「人」の総称と言えます。その証拠に、1章27節を思い出してください。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。

また神さまは、人を深い眠りにつかせ、寝ている間に「彼のあばら骨の一つをとって」とあります。そしてそのあばら骨を素材にして、女を造り上げ、イシュのところに連れて来ました。イシュは思わず感嘆の声をあげます。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉!」そして、女を「イシャー」と名づけたのです。それは「呼ぼう」という意味です。「イシュとイシャー」、ちょっとしたシャレ、掛け言葉のようです。そして、ここには「感動」があらわれています。同じ肉からできている同質の存在という親近感も感じられます。そして、イシャーと名づけたイシュは、おそらく、そこに自分自身を見たのでしょう。イエスさまは言われました。「自分を愛するようにあなたの隣人も愛しなさい。」と。結婚している人にとって、一番の隣人は伴侶です。私たちは、結婚生活の中で、「自分を愛するように隣人を愛すること」を実践していくように招かれています。

また、「父と母を離れ」とありますが、アダムにはまだ、父も母もいないじゃないかと言われますが、これは今後彼らが親になるときに思い出すように、神さまが前もって与えた家族の原則でしょう。もちろん、聖書には「あなたの父母を敬え」という言葉もありますから、親をないがしろにしろということではありません。優先順位として、まず夫婦があるとする原則です。夫婦二人で、向き合って、お互いに尊重し合い、重要なことは二人で決めていくようにとの戒めでしょう。二人は父母を離れ、そして「一体になる」のです。

「一体になる」とはどういうことでしょうか。これは、一つは、身体の結びつきの事でしょう。ある人は、この「一体」は、強力な接着剤で一つとされるということだと言っていました。結婚が軽んじられ、多くの若い人は、結婚前に性関係を持ってしまう時代ですが、体が一つのなるというのは、強力接着剤でくっつくような親密な関係になることを意味します。ですから、それが婚姻関係にある二人で営まれる時に、二人の関係はさらに親密になり、お互いの結びつきを強くします。けれども、婚姻関係外でそれがなされ、その後別れるということになれば(実際結婚前に体の関係を持った場合、2年以内に10人ちゅう8人は別れるというデータもあります)、まるで、強力接着剤で貼り合わせたものを再びはがすような大きな痛みが伴います。若い人たちに結婚が重んじられるように、教えていく必要があるでしょう。

そして「一体となる」ということは、単に体だけでなく、全人的な結合、つまり人格的、霊的結合も意味します。男と女は、基本的に別人格です。結婚したからと言って、それは変わりません。ですから、夫婦の一致には努力が必要です。神さまは、イシュとイシャーを造られた。同質だけれども違う人格を造られたのです。結婚されている方は、新婚当初、相手との感覚のズレや、考え方の違いなどで、ずいぶん苦労されたと思います。ですから、私たちには一致の努力が必要なのです。三位一体の神さまが、三つの位格を持ちながら、完全に和していたように、神に似せて創造された私たちも、お互い、愛し合い、ゆるし合い、受け入れ合い、尊重し合いながら、一体となることを目指していくのです。大丈夫です。それは、私たちではない、聖霊のなせる業です。

そして最後25節、「人とその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」これは、文字通り理解していいでしょう。彼らは一糸まとわずいましたが、まったく恥ずかしくなかったのです。もちろん、神さまは「産めよ、増えよ」と言っていますから、二人に性関係はあました。けれどもそれは自然なことで、喜びで、深い満足が与えられるものでした。とてもよいものだったのです。それは、性関係だけでなく、人格的関係においても同じです。自分をさらけ出してもいい関係。格好つけなくてもいい関係。お互いありのままを受け入れ合い、愛し合い、尊重しあえる、そんな関係だったのです。けれども、この後に人に罪が入ります。このことによって、性はゆがめられてしまい、まったく違った意味を持つようになります。本来喜びであった性にやましさが出てきました。また、人は性によって傷つけ合うようになります。時に、性関係は愛の営みではなく、単なる欲望のはけ口となります。また、罪のせいで、人格的結びつきにもゆがみが生じました。自分をさらけ出すことに恐れを覚え、自分を隠し、仮面をかぶるようになってしまったのです。これが「恥」と呼ばれるものです。

今日は、神さまがどんな風に人を男と女とに創造されたのか、本来の男との女のあるべき姿を見ることができました。また、結婚や夫婦についても考えさせられたことでした。人間に罪が入り、当初のお互いに受け入れ合い、愛し合い、尊重し合う本来の神のかたちとしての交わりを、私たちは十分に反映できなくなってしまいましたが、それでも、私たちは神さまと和解し、神さまとの関係をもう一度立て直す過程にあるので感謝したいと思います。神さまと和解した私たちは、同じように、人とも和解することができます。人と人の関係も立て直すことができるのです。そしてそれは、聖霊のなせるわざ。神を愛し、人を愛する生き方を、もう一度目指して生きていきましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。