マルコの福音書14:1~11
イエスさまは、公生涯が始まって以来、絶えず十字架を意識し、そこを目指して歩んで来られたわけですが、まわりの人々や状況はそれほど逼迫していませんでした。弟子たちさえもその時が近づいていることを実感できず、まだイエスさまがこの地上の王として君臨することを夢見ていたのです。
1~2節「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。」
祭司長、律法学者たちは、イエスが人々の心を掴み、彼こそローマの圧政から我々を救い出してくれるメシヤ(救世主)ではないかと期待しいるのを見て、心穏やかでいられなっていましたが、それがとうとう沸点に達しました。彼らはイエスを捕えて、殺すために具体的な策略を練り始めたのです。けれども彼らは「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない。」と話し合っていました。イエスさまは人気者でしたし、過ぎ越し祭の時には、外国からも多くのユダヤ人たちが巡礼に来ます。そんな時に騒ぎを起こせば、自分たちが責められることもなりかねないと考えたのです。
しかし、なんという皮肉でしょう。彼らがこの時だけは避けたいと思っていたその時に、事は起こったのです。10節以降にありますが、あらぬことか、イエスの弟子の中から裏切りが起こり、彼(ユダ)の方からイエスを引き渡すという約束を取り付けたのです。祭司長、律法学者たちは、過ぎ越し祭の時だけは避けたかったのですが、このチャンスを逃すわけにもいかず、まさに過ぎ越し祭の時に、事を起こすことになったのです。
ここから何が言えるでしょうか。それは、イエスさまの受難と十字架は、人の策略や陰謀によって引き起こされた結果ではなく、あくまで神さまの計画だったということです。神が人の救いのためにずっと以前から、いや、人が罪を犯してからずっとこの日を計画し、ピンポイントでこの時を選んだのです。まわりの情況や人の悪意とは関係なく、神がこの時を定められており、それを実行に移したということです。
なぜ過ぎ越しの祭りだったのでしょう。それはもちろん、イエスさまこそが「過ぎ越しの小羊」だったからです。遠い昔、イスラエルの民がエジプトの奴隷だったとき、神はイスラエルを救い出そうとモーセをお立てになりました。そしてモーセを通して、エジプトの王パロを説得し、イスラエル人を解放しようとしますが、うまくいきません。そこで神はエジプトに10の災いを下されたのです。そしてその切り札となった10番目の災いが、エジプト人の長子を殺すというものでした。その時、神さまの命令に従って、家の鴨居に子羊の血を塗った家の長子は救われました。そして今度は、神の子羊であるイエスさまの十字架の血潮によって、私たちの罪はゆるされ、神のさばきを通り過ぎる道が開かれたのです。イエスさまこそ「神の子羊(Agnus Dei)」です。ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」、Ⅰコリント5:7「私たちの過ぎ越しの子羊キリストは、すでに屠られたのです」、Ⅰペテロ1:19「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです」とあります。ですから神は、イエスさまが十字架に架かられる日を過ぎ越しの祭りにしたのです。
このナルドの香油は、純粋で非常に高価なものでした。それもそのはず、このナルド油は、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料で、わざわざインドから取り寄せたものらしいです。5節を見るとこの香油は売れば300デナリ以上するとのことです。1デナリは労働者の一日分の給料に相当しますから、300デナリは300日分の給料というわけです。日本円にすると少なく見積もっても200万円ぐらいでしょうか。それを惜しげもなく、壺を割って、イエスさまの頭に注いだのです。壺を割るというのは、中に何も残さない、全部注いだということです。いさぎよさを感じます。そしてこの頭に注ぐとはどういうことでしょうか。へブル的な習慣として、当時は高貴なお客様への最大級のおもてなしとして、頭に香油を注ぐということが行われていたようです。あとでイエスさまが「わたしの埋葬に備えて…」と言いますが、おそらく本人はそんな意識はなく、ただ無我夢中で、イエスさまへの愛と尊敬をどうやって表したらいいのか考えに考えて、何かの時に役立つだろうと大切に取っておいた香油を取り出してきて、イエスさまの頭に注いだのでしょう。しかし、この行為が思わぬ波紋を呼びました。
「何人かの者が」とあります。あとでイエスさまを裏切ったユダだけではありません。他の弟子たちも、眉をひそめ、「なんてもったいない!」「無駄なことを!」と憤慨して、この女性を厳しく責めたのです。同じ記事がマタイにもありますが、マルコの記事は、人々の怒りが強調されています。彼らは言うのです。「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」どうでしょうか。正論ではないでしょうか。イエスさまのたとえ話の中には、一般常識とかけ離れていて、素直に同意できない話がいくつかります。例えば、「日雇い労働者」のたとえ話。朝から働いた人と、夕方働いた人と、なぜ同じ1デナリの賃金なの?とか。放蕩息子の兄がお父さんに腹を立てるのも仕方がないとか、納得できないことが実はたくさんあるんじゃないでしょうか。この記事もその一つです。皆さんも心の中では、弟子たちに加勢しているのではないでしょうか。そんな高価な香油を、ただ頭に注いで終わりじゃもったいない。もっと有効に使うことはできなかったのか。
実は「もったいない」は日本語独特の表現で、「物の価値を十分に生かしきれておらず、無駄になっている状態を惜しむ」という意味があります。そしてこの「もったいない精神」は、日本の美徳とも言われていて、ケニアのワンガリ・マータイさんという人が、世界にこの精神を広め、ごみ削減や再使用、再利用をしようという運動を繰り広げているようです。「もったいない」は確かに大切な精神なのかもしれません。しかし、今の時代、あまりに無駄を嫌い、効率を求め過ぎてはいないでしょうか。時間がもったいない、お金がもったいない、そう言って手間を惜しみ、効率を測って物や人を切って行く…。いつの間にそんな世知がない冷たい社会になってしまったのでしょうか。けれども「無駄」って大事なのです。私は4人の子どもを育てましたが、子育てをしていてつくづく思うのは、愛するということは、無駄を恐れないことだなあということです。子育てに「効率」を求めてはいけません。毎日同じことの繰り返し、自分の仕事や楽しみはお預け、子どものペースに合わせ、子どものために時間をひたすら浪費する…。そうやって、親は子どもへの愛を示し、子どもたちは親への揺るがない信頼感を築くのです。この香油を注いだ女性のしたことは、普通の人から見たら、無駄なことです。貧しい人に施す方がもっと有効な使い道です。けれども、彼女の計算のない愛の行動に、私たちはナルドの香油以上に純粋で高価な愛を見るのです。
イエスさまは、彼女の愛を確かに受け取りました。そして弟子たちをなだめます。6~8節「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は、自分にできることをしたのです。」イエスさまは、彼女のしたことを「わたしのために良いことをしてくれた」と言われました。そして弟子たちにあなたがたは望むとき、いつでも貧しい人たちに良いことをしてあげられます」と言います。どちらも「良いこと」です。でも貧しい人たちへの良いことはいつでもできる。あなたがたにその気持ちがあるならいつでもその良いことをすることができるのです。でもイエスさまへの良いことは今しかできない。イエスさまはすぐに神の子羊として宥めの供え物になって殺されるからです。そしてイエスさまは、「彼女は埋葬に備えて香油を塗ってくれたんだよ」とその愛の行為の意味づけをしてくださった。弟子たちはこの女の人をバカにしていました。なんて無教養な考えの足らない愚かな女なんだと非難したのです。ところがイエスさまは言います。「彼女のしたことは、世界中で記念として語られる」と。イエスさまは彼女の愛の行動に、人間の計算を超えた大きな価値と意味を与えたのです。
こうしてこの後、ユダはイエスさまを裏切ります。他の箇所では銀貨30枚で売ったとあります。銀貨一枚は4デナリだそうです。そうすると120デナリですね。香油の値段300デナリの半分以下です。これは一般的に、奴隷を売買するときの値段に相当するようです。ユダと祭司長たちがイエスさまにつけた値段は奴隷の値段と同じでした。ひょっとしたら「無駄なことを」と批判した弟子たちがイエスさまにつけた値段も同じぐらいだったのかもしれません。しかし、イエスさまの頭に香油を注いだこの女性にとってのイエスさまの価値は300デナリでした。壺を割って注いていますから、一滴も残さず注ぎたい、それでもまだ足らない、自分の甲斐性のなさがうらめしいとでもいうような注ぎ方でした。彼女にとってイエスさまは、何にも替え難い尊いお方だったのです。
皆さんにとってのイエスさまの価値はどれくらいでしょうか。犠牲を払う価値のあるお方でしょうか。イエスさまに時間をささげるのはもったいないですか。礼拝は時間の無駄でしょうか。献金はお金の無駄でしょうか。奉仕は労力の無駄でしょうか。神さまを知らない人から見たら、私たちは無駄なことをしているかもしれない。非効率なことをしているかもしれない。なんの生産性もない、利益もあげられない、もっと他にお金と時間と労力を注ぐことがあるでしょうと言われるでしょう。でも私たちは、イエスさまを愛しているから、全然無駄じゃない。そうしたくてたまらないからしているだけ。そうでしょう。
そして最後に、イエスさまの私たちへの愛は、どれほどのものでしょう。私たちの罪を贖うため、苦しみの生涯を送り、十字架につけられて殺される、そんな代償を払っても惜しくないほど、イエスさまは私たちのことを愛してくださった。もったいないなんて言わない。無駄だなんて言わない。それどころか「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」私たちの主は、そうおっしゃってくださってるのです。祈りましょう。
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