「完了した」
ヨハネの福音書19:28~30
ヨハネの福音書は他の3つの福音書と比べるとやや異色です。特徴はいくつかあるのですが、その一つは他の福音書はイエスさまのおっしゃったことや行動を中心に記述しているのに対して、ヨハネの福音書は、ヨハネが一番伝えたいことに向かって、記事を選別して書いているということでしょう。そしてヨハネが一番伝えたいことというのははっきりして、ヨハネの福音書20章31節にあります。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト(メシア・救い主)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」
そして今日学ぶ十字架上のイエスさまのことばも、その目的に向かって書かれています。十字架上でイエスさまが語られたことばは、聖書に記されているだけで、全部で7つありますが、そのうち3つをヨハネは取り上げています。一つ目は今日の箇所のすぐ前の26-27節にあります。ご自分が究極の痛みと渇きの中にありながら、イエスさま亡きあとの母マリアのことを気にかけ、愛する弟子(ヨハネ)に母を託しているのです。そしてそれに続く二つのことば「渇く」と「完了した」を今日は見ていきましょう。
今日の短い個所に「完了」という言葉が3回出てきます。あれ? 2回しかないよと思われたかもしれませんが、28節の「聖書が成就する」の「成就する」もギリシャ語では同じ語源です。つまりこの言葉は、「完了する」「完成する」「終える」「成就する」「完済する(払い終える)」などの意味を持つ言葉なのです。ちなみに中国語の聖書では「成了」とあったのを覚えています。
聖書の中にはメシア預言と言われている個所がたくさんありますが、イエスさまが十字架の道を歩み出してから、それがことごとく成就していきました。イエスさまが十字架に架かってからも、イエスさまの目の前で、預言がどんどん成就していきます。例えるなら、トランプの「神経衰弱」で二つの同じカードがひっくり返されて、取られ、どんどんなくなって行く…そんな光景でしょうか。その一つ23-24節「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。そのため、彼らは互いに言った。『これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』これは、『彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします』とある聖書(詩篇22:18)が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。」 ずいぶん細かいことまで描写しています。下着の縫い目のことまで書いてあるのでおどろきです。けれどもこれら一つ一つが、預言の成就という点では非常に重要になって来ます。聖書の預言なんて何も知らないローマの兵士たちが次々と預言の通りに行っていく、不思議な光景です。またこの後、「渇く」と漏らしたイエスさまも、詩篇22篇15節、詩篇69篇21節の預言を成就させます。ひょっとしたら聖書に精通している祭司長や律法学者たちは気づいたかもしれません。そして、あれよ、あれよという間に、旧約聖書のメシア預言が成就していくのを目の当たりにして、何とかそれを止めようと思ったかもしれません。(あくまで私の想像ですが)それなのに、止める間もなく、神も聖書も知らないローマ兵たちが、次々と預言通りに行動するのに、慌てふためいたのではないでしょうか。
イエスさまは十字架上で、そんな預言の成就を見ながら、ああ、すべてのことは「完了した」のだと知りました。イエスさまは、ご自分の救い主としての使命が果たされたのかどうかわからないまま死んだのではりません。イエスさまは、息を引き取る前に、この時点で、「ああ、わたしはやりきった」「人々を救う道をとうとう開いた」「天の父は、わたしの人としての歩みを、また父への従順を、よしと認め、受け入れてくださった」「わたしのこの流した血を見て、父は満足された」そう確信したのです。
このタイミングでイエスさまは「わたしは渇く」と言いました。するとやはり、詩篇69篇21節の預言の通り、兵士たちが酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、イエスの口に差し出したのです。時は、まさしく「過ぎ越し祭」の一日目でした。出エジプトの時に、神のさばきを免れるため、イスラエルの人々は門柱と鴨居にそれこそヒソプの枝に子羊の血を浸して、それを塗ったのです。イエスさまは、「神の子羊」でした。イエスさまの流された血を見て、神は私たちの罪を見過ごし、さばきを通り過ぎさせたのです。
イエスさまは、酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われました。この「完了した」(ギリシャ語でテテレスタイ)は、完了形ですから、「完了した」「完了した状態がそのまま続く」ことを表しています。今は完了してるけれど、後からどうなるかわからないというようなものではなく、ずっと永遠に完了されたままなのです。
何が完了したのでしょうか。①先ほども触れましたが、メシア預言が完了、成就しました。あとは復活の預言の成就を待つのみです。②律法が成し遂げられました。イエスさまは肉体をとって人となり、おなかがすくとか、疲れるとか、そのような弱さを持ちつつも、律法の要求をすべて満たしました。人として歩みながら、最後まで一度も罪を犯さなかったのです。③罪という債務証書を無効にされました。先ほど「完了する」の原語には、「完済する(返済し終える)」という意味があると言いました。これは商業用語で、当時は借金を返済し終えると、「テテレスタィ」とサインされたらしいです。実際そんな当時の資料も発掘されています。このサインがあれば、もう借金を取り立てられることはありません。悪魔は、「訴える者」ですから、私たちを訴え、脅します。借金取りのように私たちのところに来て、ドンドンとドアを叩いて、「借金を返せ!お前は、罪人だ!今も罪を犯し続けているじゃないか。ほら、過去のあの罪、あれはいくら何でもひどい。いくら心の広い神さまでもゆるしてもらえないだろう。」そう言って、債務証書を片手に借金を取り立てに来くるのです。けれども、そんな悪魔のうそに耳を貸してはいけません。イエスさまを信じた時に、私たちの債務証書は無効となりました。悪魔が握っているその債務証書には「テテレスタイ(支払い済み)」と書いてあるはずです。コロサイ2章14節にはこうあります。「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」私たちの借金はもうありません。それは神さまが、私たちをかわいそうに思って、温情で罪を見過ごしてくださったからではありません。イエスさまが十字架で私たちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったので、つまり借金を全部支払ってくださったので、事実、私たちの借金はすべてなくなってしまったということなのです。ローマ8章33節にはこうあります。「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」
こうしてイエスさまは、神さまから託された、私たちの救いを成し遂げるという任務をすべて果たしてくださり、すべて終わらせて息を引き取られました。なにも人にいのちを奪われたわけではありません。ご自分の意志で父なる神さまのみこころを成し遂げて、達成感のうちにご自身の霊を父なる神さまにお渡しになったのです。そして神も「よく成し遂げてくれた」と、その霊を受け取ったのです。十字架というと、どうしても私たちはお涙ちょうだいになってしまい、イエスさまかわいそう!と同情してしまうのですが、それはちょっと違うのではないかと思います。言ってみれば、十字架は勝利のシンボルです。すべて完了した、すべて成し遂げたその証しです!そして、イエスさまが成し遂げてくださった救いは、今私たちのものになりました。「テテレスタイ」完了形です。すでに救いは成った。これからもずっと、永遠に変わらない、何者をもこの救いを、新しいいのちを奪うことができないのです。先ほどのローマ書8章33節のあと、37節にはこうあります。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」私たちはイエスさまの十字架によって、圧倒的な勝利者となりました。この受難週、うなだれて、下を見て過ごすのではなく、勝利のシンボルである十字架を見上げ、主の恵みの福音に思いを集中し、感謝と礼拝をささげる一週間にしたいと思います。
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