「神の名を聖として生きること」(マタイ6:5~9)
1. 祈ることと生きること
前回に続いて、しばらく主の祈りを学びます。主の祈りは、神の子どもたちの祈りです。今日は、その第一の願いである9節に注目します。 (読む)
「御名が聖なるものとされる」とは、どういうことでしょう。神の名が尊ばれ、礼拝されるように、との祈りですが、これをよりよく理解するために、その前の5節から8節に目を留めたいと思います。
5節、そして7節(読む)
これらに目を留めるときに気付くのは、生き方と祈りの関係です。信仰者の生き方は、いつも祈りに現れる。祈りと生き方は繋がっていて、分けられないのだと。 例えば偽善者はどうですか。彼らは、人にどう見られるかにこだわる人たち。 すると、祈りも、人にどう思われるかに向けられていく。会堂や大通りの角で、人に目立つように祈る。これは、彼らの生き方です。しかも、そうやって祈るから、生き方もますますそうなっていく。 このように祈りと生き方は繋がっています。 信仰者は生きているように祈るし、実は、その逆も真。祈っているように生きるのです。 偽善者は、神の前でなく、人の前で祈る。だから主イエスは言います。祈るときは、隠れたところにいる父に祈りなさいと
... 。(皆さん、だからと言って、礼拝の感謝祈祷が当たった時、人前では祈れませんと、牧師を困らせないようにしてください。 これ、あくまでも偽善という生き方の問題で、人前で祈るな、と言う教えではないのです。)
とにかく、生き方と祈りは繋がっている。 じゃあ、異邦人はどうでしょう。実はこれは、異邦人だけでなく、多くの信仰者の中に起こり得るのですが、ただ言葉数を多くして祈る。言葉を繰り返して、神を祈り倒そうとしていくのです。そのように祈る人の生き方はどうでしょう。そのような信仰者にとって、神は、ただ自分の願いを聞いてもらうために存在している。だから、神を動かそうと、言葉を重ねていくのです。 それに対して主イエスは言われます。「父は、あなたがたが求める前から」必要を知っている。 だから神を動かし、コントロールしようとして、神の前でゴネてはいけないと、神の前に、子どもとして、へりくだることを求めていくのです。
主の祈りは神の子どもたちの祈り。そして、私たちの祈りの目標です。私たちは、神の子どもとして父の前にへりくだます。 父を愛し敬いながら祈り、また、そのように生きていくのです。
主の祈りは、イエスさまが山の上で教えた通称「山上の説教」の中の祈りです。この教えの中でイエスさまはしばしば、天の父の前で生きることを促します。たくさんあるのですが、例えば5章48節「天の父が完全であるように、完全でありなさい」。それから6章4節「隠れたところで見ておられるあなたがたの父が、あなたに報いてくださいます」。天の父は、私たちのことをいつも見ているという。 そして、先ほどの8節。父は私たちの必要を知っている。さらには、このあとの14節では、私たちの罪、過ちも赦すお方である。
私たちは、神の子どもであり、このように天の父の前で生き、また祈る。そのように、生き方と祈りは一つです。主の祈りに学びながら、私たちの祈りが変わると、私たちの生き方も変わっていく。
2. 世界の中心に誰を?
さて、そんな神の子どもである私たちが、祈りの目標、主の祈りの中で真っ先に願うものは何でしょう。そこで第一の願い、「御名が聖なるものとされますように」が来るのです。
「御名が聖なるものとされますように」。これは、まことに短い祈り。でも、短いかれど、これは私たちの生き方を変える祈りです。 これを真剣に祈るなら、私たちの生き方は変わります。 それは、最初に何をまず祈るかが、私たちの心の中心に誰がいるかを明らかにしているからです。 中心に自分がいるのか、それとも神がいるのか。 祈りの最初、真っ先に「御名が聖なるものとされますように」と祈る。それは神を心の真ん中に置くということ。つまり、私の第一の願いは、天の父である神さま、あなたのお名前が人々の間できよく、尊ばれ、皆が礼拝することです、と告白することに外なりません。これを真っ先に祈る時に信仰者は、自分のことを脇に置き、天の父を第一としていく。 その時に、私たちの生き方は変わり始めます。もし、これを心の底から祈るなら、祈った時から、周りの景色が変わり始めていく。
「御名が聖なるものとされますように」。 「御名」とありますが、これは、単に神さまの名前だけの話ではありません。そもそも、名前は単なる記号ではなく、名前を持つ一人一人の人格を表すものでしょう。皆さんもそうだと思う。もし、自分の名前を笑われたら、私たちは傷つきます。 名前はただの記号ではない。いのちの一部と言っていいほどに、私たちの大事な部分を表しているのです。
私の名は、「五十三」と書いて「いそみ」。生まれた時、父母の年齢を足して53になったからですが、珍しい名前で、子どもの頃、よく笑われました。非常に不快でした。 父と母が年齢を足して表したのは、「二人の子ども」ということ。そんな親の気持ちが嬉しくて、私はこの名前を気に入っています。だから学校でも学生から、「いそみ先生」と呼ばれる方が、嬉しい。これが、私自身だと思っているのです。
名は体を表す。神の名前も同じです。だからモーセの十戒は、御名を軽く扱うことを厳しく禁じるのです。
とにかく、「御名が聖とされること」、礼拝されること。神の名、神ご自身を第一にすること。これを真剣に願うならば、私たちの生き方は変わりますし、教会も変わります。そして、これを真剣に祈る人たちの周りから、この世界も変わり始めていくのです。
皆さんも頷いてくださると思いますが、世の中で起こる人間関係の問題やトラブルの根っこにあるのは、結局は人間が自己中心だからではありませんか。人の頑なな自我が真ん中にあるから、世の中では人間関係の軋轢が絶えない。 私も親になって学びました。 子どもを育てていると、おもちゃの取り合いとか、誰がお母さんの膝に座るかとか(で、貧乏くじは父親の膝ですが)、とにかく、あんな小さい子どもの内にも強い自我があって、人は誰に教わったわけでもないのにぶつかり始めるのです。 だから、子育ての中ではいつも、分かち合うこと。そして、自分ではなく、神さまを真ん中に置くようにと、子どもたちに教えてきました。いろいろ足らないこともありましたけれど。
何はともあれ、祈りの真っ先に、天の父のお名前を第一とする。天の父を真ん中に置く。これが、神の子どもの祈りです。 これを真剣に祈るときに、私たちの生き方も教会も変わり、それが影響を与えて、私たちの周りの世界も変わり始める。
3. 言葉と生き方において
最後に、「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、どのように実現していくのか。これを皆さんと考えたいと思います。
普段、教会にきておられる方は、この第一の願いに日ごろから親しんでおられると思います。でも、「御名が聖なるものとされますように」という願いは、祈ればそれでオートマチックに実現するわけではありません。祈れば、ただそれだけで、神のお名前が礼拝される、そういう世の中がやって来るわけではない。
ここで、最初に申し上げたことを再び確認したいのです。祈りと生き方は一つです。「御名が聖なるものとされますように」と祈る時、私たちの生き方や、口にする言葉もまた大事なカギになってきます。
今朝の招きの御言葉は、レビ記19章2節でした。「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」 神は、聖なるお方、だから神の子どもたちにもそうあるようにと命じています。それゆえに、神の子どもたちが罪過ちを犯すと、神は心を痛めて叱るのです。 そういう箇所は、聖書の中にいくつもあるのですが、例えば、礼拝を導く祭司アロンの息子たちが、神が定めたのと違う方法で香をたいて罰せられるという話があります。 その時に神は言われる。「わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを」示すのだと(繰り返し)。 どういうことでしょう。つまり、神と共に歩む信仰者の生き方は、神の名前の「きよさ」と深く繋がっているのです。神は、私たちを神の子どもとしてくださいました。だから、私たちの生き方は、このお方のお名前の「きよさ」「尊さ」を表すものであるように、との期待がここにあるのです。
私も親になって分かりました。自分の子どもが過ちや間違いを犯すと、親は自分のこととして心を痛めるものですね。まるで自分が間違いを犯したかのように、項垂れる。 天の父は、私たちを深く愛し、神の子どもとしてくださった。だから、私たちの生き方に関心をお持ちだし、私たちが誤りを犯せば、深く心を痛めるのです。
プロテスタント教会で、長い間洗礼の準備に使われ、今も広く用いられている「ハイデルベルク信仰問答」という教材があります。その問122番は、「御名が聖なるものとされますように」と祈ることは、つまり、こういうことなのだと教えてくれる。それは、「わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください」と願っているのだと。 そう、第一の願いを通して、私たちは、自分の思いや言葉や行いが、神の名前をほめ称えるものとなるようにと、願っているというのです。 祈ることと生きることは一つ。神の子どもは、自分の生き方を通して、神が賛美されることを第一に願っていく。
結び
ここまで聞いてどうでしょう。皆さん、この第一の願いを素晴らしい、と思いつつも、同時に心の中で項垂れて、もう、「祈れない」と、そうお感じになる方もあるでしょう。私も正直自信を無くすというか。 語る者の責任は重いので、今日、これを講壇から語った者として、私は大きな重圧を感じ、心の中はため息です。「自分にも無理だ」と。
でも、でも、「難しい」いや、「無理だ」と感じる。 だから私たちは「助けてください」と、いよいよこれを祈るのではありませんか。 そして、イエスさまも私たちが祈ることを励まします。ヨハネ福音書15章16節、 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださる」のだからと。 皆さん、イエスさまを通して祈る時、神の御心にかなう祈りは聞かれるのです。イエス・キリストを通して、天の父に願うなら、その祈りは答えられる。これが、イエスさまの約束です。 思い返して欲しい。天の父は、私たちを神の子どもにするために、ひとり子イエス・キリストをさえ惜しまず、十字架で犠牲にしたお方です。そして、そのひとり子自らが、「わたしの名によって求めるなら」父はかなえてくださると約束している。
だから、心を合わせて、「御名が聖なるものとされますように」と祈ろうではありませんか。この祈りは必ず聞かれる。これを心を合わせて祈るとき、私たちは、そして私たちの教会も、神を中心としたまことの礼拝者として、いよいよ成熟し、この教会の存在が、この世界を変え始めていくのです。お祈りします。
天の父なる神さま、あなたのお名前が聖なる者とされますように。私たちの思いや言葉、生き方が、あなたの素晴らしさを証しするものとなるよう、どうか聖霊によって助け、私たちを成長させてください。生ける御言葉、新船橋キリスト教会のまことの羊飼い、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
説教者:齋藤五十三
コメント
コメントを投稿