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キリストにある自由(ガラテヤ人への手紙5:1)

「キリストにある自由」

ガラテヤ人への手紙5:1

先週の金曜日、211日は、「国民の祝日」、「建国記念の日」でした。他の国でも建国を記念する日があります。例えば、アメリカ合衆国だと「独立記念日」(74日)がそれにあたり、ドイツだと、1990年に東西のドイツが統一された日(103日)となります。私たちが15年住んだ台湾は1010日、国慶節がその日にあたり、清朝からの独立革命が勃発した日を記念しています。中国は、101日が国慶節で、北京の天安門前広場で毛沢東主席が「中華人民共和国中央人民政府は本日ここに成立した」と宣言した日です。このように、ほとんどの国では、その国の歴史的出来事をもとにして建国記念日が定められています。しかし日本の場合は、歴史的な出来事ではなく、「神話」に基づいて「建国記念の日」が定められました。かつて、211日は「紀元節」と呼ばれていました。これは、奈良時代の歴史書『日本書紀』に記されている、初代天皇である神武天皇の即位日に由来する祝日のことで、旧暦では、この日が11日とされていました。ただし、この祝日は、第二次世界大戦後、GHQによって廃止されることになりました。天皇を神と教え、日本の国民を戦争へと駆り立てた原動力である「国家神道」を排除するためでした。しかし、国家神道は皆さんご存知のように今も息づいています。そして、かつての「紀元節」復活を求める勢力の働きにより、「建国記念日」を制定する法案が幾度となく提出され、何度も退けられたものの、最終的には、この紀元節を「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」、つまりその日に建国されたわけではなく、建国を記念する日とすることによって、合意を得、成立に至りました。

以上のように「建国記念の日」は国家神道の核となる日本神話に由来する祝日です。言わば、天皇制を保持し続けるこの国を象徴する日なのです。皆さんご存知の通り、天皇を神と崇めていたこの国は、先の大戦において、天皇を崇拝しないキリスト教信者、また教会を迫害・弾圧してきました。そのような経緯があるので、日本のキリスト教諸教会は、その日を「信教の自由を守る日」と呼んで各地で反対運動を行うようになりました。同盟教団も毎年この日には、国に対して声をあげる日として、講演会などの企画をしています。日本国憲法によって保証されている「思想・良心の自由」「信教の自由」を守っていくためです。 

さて、今日私たちは、ガラテヤ人への手紙を開いていいます。ガラテヤ人の手紙は、「マグナ・カルタ」(自由の大憲章)とも呼ばれ、パウロが執筆した手紙の中でも「キリスト者の自由」を最も豊かに、力強く表している手紙です。ガラテヤ人への手紙は、全体として以下のことを語っています。

すべての人には罪があるので神との断絶状態にあるということ。もし人が神との関係を回復させようと思うなら、神の定めた基準、つまり律法を満たさなくてはならない。しかし根っからの罪人である私たちは行いによって神の定めた基準を満たすことはできない。人が神との交わりを回復する唯一の道はキリストの福音に信頼することです。こうしてキリストを信じて神との交わりを回復した者は、聖霊をいただきます。この聖霊によって、私たちは真の自由が与えられます。そしてそれは、自分勝手に生きる自由ではなくて、御霊の実を結ばせる自由、私たちの生活をきよいものに立て直す原動力になる自由なのです。 

 5:1「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」

 「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」何から解放してくださったのでしょうか。「奴隷のくびき」からです。「奴隷のくびき」とは何でしょうか。私たちは、誰の(何の)奴隷だったのでしょうか。聖書は、私たちは罪の奴隷だったと言っています。そして私たちはそれを自覚していようとしていまいと、罪からくる呪いと束縛、滅び、死の中にありました。旧約聖書の時代、神さまはご自分が定められた律法を守ることによって、この罪から解放し、神との交わりを回復させると約束してくださいました。ここで注意したいのは、もともと「律法を守ること」その行い自体に罪を帳消しにする効力があったわけではないということです。もしそうなら、旧約時代誰も救われなかったでしょう。神はご自分が定めた律法を守ろうとする人の誠意と従順を見て、それを良しとしてくださいました。そういう意味では、旧約の律法による救いも、実は「恵み」による救いです。

ところが、時至って、神さまは私たち人間に「律法を行うこと」に代わる、完全な救いの道をお与えくださいました。それがイエス・キリストです。イエスさまは「十字架の血潮」という代価を払って、罪の奴隷であった私たちを買い戻してくださいました。そして奴隷のくびきから完全に解放してくださったのです。神によって買い戻された私たちは、神の奴隷になったのでしょうか。いいえ、違います。私たちが買い戻されたのは、神の子どもとされるためでした。放蕩息子が、悔い改めて父のもとに帰った時に、「雇人の一人にしてください」と言おうとしたのですが、父はそれを遮って、「さあ、急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」父は雇人の一人にではなく、息子として彼を迎えたではありませんか。私たちは罪から解放されて、神の子どもとされて、自由を手に入れたのです。

ところがガラテヤ諸教会の人々は、再び、自ら奴隷のくびきを負い始めました。それは、放蕩息子が父によって着せられた一番良い衣を脱ぎ捨て、指輪を外し、立派な履物を脱ぎ、与えられた子牛の丸焼き、豊かな食事のテーブルをひっくり返して、自分が父のもとに帰るときに来ていたボロに着替え、裸足になり、豚の餌を食べるのに似ています。なんと愚かなことでしょう。 

だからパウロは言います。「あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」と。神の子どもとしての身分を手離すなと言っているのです。イエスさまの十字架の血という完全な代価によって買い取られたのに、再び自分を神以外のものに売り渡し、支配されて生きることのないように、再び奴隷になることがないようにと言っているのです。

  私たちには神さまから与えられた自由があります。神の子としての身分があります。ですから私たちは、神さまだけを礼拝し、神さまだけに従います。神さま以外のものにこの自由を奪われたくありません。その時には、私たちは抵抗します。自分のことを考えても、政治に関心を持ち、積極的に学び、社会運動などに加わることは、正直かったるい。でも私の信仰の自由が何者かに侵害されるときには、やはり抵抗するだろうと思うのです。森島豊先生というクリスチャンの人権問題に明るい先生が、こんな例を挙げていました。

豊臣秀吉が福岡に行ったときに、ある事件が起こりました。晩年、豊臣秀吉は朝鮮との戦争を試みて南下します。秀吉が女性にだらしなかったことは有名ですが、その時も側近である僧侶を近くの村に行かせて、秀吉の夜のお伴をする女性を探させました。今日の島原のあたりです。ところが十代の娘たちに声をかけると「いやです」と言うのです。側近はびっくりしました。なぜかと言うと、当時天下人にNOという人はいなかったからです。側近は「なぜだ!?」と聞きました。するとその少女たちは側近に、「私たちはキリシタンです。」「聖職者であるあなたがこんな不道徳を勧めて良いのですか?」と逆に詰め寄ったというのです。こうして、それを秀吉に報告すると、秀吉も驚愕しました。そして、その日の晩に、バテレン(宣教師)追放令を出したというのです。

また、同じく秀吉が、キリシタン大名高山右近に棄教を迫った時、「私は日常、心魂を傾けて太閤様にお仕えして参りました。今も、太閤様のためなら、脳髄を砕き、土まみれになることも厭いません。ただ一つの事以外には太閤様のご命令には絶対に背くものではないのです。その一つの事、信仰を捨てて、デウス(神)に背けとの仰せは、たとえ右近の全財産、生命にかけても従うことができないのです。」これを機に、秀吉は徹底したキリシタン迫害を進めるのでした。

私たちクリスチャンがNOを言うとき、NOしか言えない時は、私たちの信仰が取り上げられようとするときです。正直どこかの国のように、マスクを強制するな!ワクチンを強制するな!俺たちは自由だ!と叫ぶのはよく理解できません。でももし、私から信仰を取り上げようとされたら、また、他の神を礼拝するよう強制されたら、政治に疎い私でも「いやです」と抵抗するでしょう。神さまがお嫌いになること、罪を犯すことを強いられるときには、私はやはりNOと言うことでしょう。長崎の少女たちのように。「信教の自由」「思想・良心の自由」を守るとは、そういうことです。社会運動でも政治活動でもない、キリストにあるこのいのちを守ることなのです。皆さんにとって大事なものは何ですか?例えば、子どもが大事だとします。もし抱っこしている子どもを、誰かが奪おうとしたら、私たちは必死に抵抗するのではないでしょうか。イエスさまは、信仰は、永遠のいのちは、私たちにって宝ではないでしょうか。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」イエスさまの尊い血の代価によって買い戻され、自由を得た私たちは、もう他の何者にも支配されません。何者をも私たちを奴隷にすることはできないのです。私たちは自由です。


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