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神へのいけにえ(Ⅰテモテ2:1~7)


「神へのいけにえ」
Ⅰテモテ2:1~7
木田友子実習生

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「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、...

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「みことばによって造られた世界」 創世記1:6~25  先週は、茫漠として何もないところに、神さまがみこころを向け、「光あれ!」とおっしゃったところを学びました。神さまは、「光」をよしとされて、光を昼と名づけました。そして、闇は、それを残しながらも、ここまでという境界線を引き、「夜」と名づけたのです。名づけるというのは、神の支配と統治の下に置かれるということを意味します。言い換えると、闇の中にも神さまはおられるということでした。そして、「夕があり、朝があり、第一日」が終わりました。 さて、今日は、神さまの創造の第二日から第五日までを一気に見ていきます。この創造の記事は、とかく現代科学と競合してしまい、議論されるのですが、聖書は科学の教科書ではなく、神さまのみこころを知るための書物なので、今日も「神のみこころを知る」という視点で読み進めていきたいと思います。 さて、光が造られ、昼と夜とが分けられると、神さまは次に「大空」を造られました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ」。この「大空」という言葉は、もともとは「金属などを打ち延ばす」という言葉からできているそうです。 ヨブ記の37章18節では、「あなたは大空を神とともに張り広げられるのか。鋳た鏡のように硬いものを。」 と同じ「大空」という言葉が使われています。神さまはこうして、下の水と上の水とに分けられたのですが、私はここで、モーセが紅海を分けたときのことを思い出しました。イスラエルの民は命からがらエジプトから逃げていたのですが、目の前に立ちはだかったのは、紅海でした。四面楚歌、万事休すと思われたその時に、モーセが神さまの指示を受けて、彼の手、杖を海に伸ばすと、なんと海が真っ二つに分かれて地の底が見えたのです。出エジプト記の 14章22節には、「イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。」 創世記の1章2節にあった、その大水、それは荒ぶる大水だと言いました。その大水が、上の水と下の水とに分かれて、大空が造られたのです。そして神さまは、「大空を天と名づけ」ました。それは神さまの支配と統治の下に置くことでした。そして神は、それをよしとされ、夕があり、朝があった。第2日。 9節「神は仰せられた。『天の下の水は一つの所に集まれ。乾...

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「賞を得られるように走る」 コリント人への手紙 9 章 24 節~ 27 節 塩原 美小枝 実習生 皆さんが学生のころ運動会ではどのような競技があったでしょうか。私の小学校では騎馬戦や組体操、徒競走などがあり、人気だったのを覚えています。  実は、パウロの手紙を受け取った教会のあるコリントの町でも競技大会なるものが二年に一回開かれていたようなのです。今でいえばオリンピックのようなものでしょうか。パウロは競技大会の花形であった「競走」を「信仰生活」に例えて、コリントの教会に訴えかけます。 パウロは彼らに何を伝えているのでしょうか。共に聖書を見ていきましょう。 まず、 24 節でパウロは競技大会での競走で賞を受けるのは、ただ一人であることをコリントの人々に思い起こさせます。皆さんも思い出してみてください。リレーや徒競走で 1 位になるのは 1 人、または 1 チームではなかったでしょうか。競走に「参加する」のと「勝利を得る」ということは別物だということです。参加は誰にでもできても、勝利は限られた人にしか得られません。皆さんも競争をしていると想像してください。「用意ドン!」と旗が上がった瞬間、負けるために走りだす人はいないでしょう。だれもが、あのゴールテープを切り勝利するために走るのではないでしょうか?  パウロは、競走で走る参加者を信仰者にたとえて、「あなたがたも賞を得られるように走りなさい」と訴えます。賞を得るのが一人かそうでないかの人数は実は問題ではありません。ここで大切なのは、「賞を得られるように」という、走る目的です。信仰生活とは、信仰をもって洗礼を受けたら、あとは自動的にゴールして、賞を得られるというものではないのです。  ではパウロが言っている「賞」とは何でしょうか。 25 節を見てみましょう。 実際に、競技大会の競走で勝利した人に与えられるのは「朽ちる冠」と書かれています。これは当時の賞が月桂樹の葉で編まれた冠で、いずれは枯れてしまうことから、「朽ちる冠」と表現されています。しかし、いずれは枯れる冠であっても、賞は賞です。競争で勝利した証であり、競争に参加した選手なら誰だって喉から手が出るほど欲しい物なのです。オリンピックでも、日本人が金メダルを取るとニュースで何度も報道されるように、選手にとっては非常に名誉のある賞なのです...