「となり人を愛する」~命を大切に~(出エジプト20:12~17)
齋藤 五十三 師
1. 私たちと関係のある戒め
13節「殺してはならない」。この第六戒を聞いて私たちが抱く印象はこれではないでしょうか。これは自分とは関係のない戒めだ。自分は十分に守っている。
第六戒は大変シンプルです。旧約聖書が書かれたヘブル語で、わずか単語二つ。実は、この単純さが広い意味の広がりを示しています。まず、この戒めには目的語がありません。「誰を殺してはならない」のか、特定していないのです。「特定していない」のでキリスト教会は聖書に従い、一般社会では「殺人」とは思われないものも禁じてきました。
真っ先に思い浮かぶのが自殺です。第六戒は「他の人を殺してはならない」とは特定しません。ですから、自分の命を奪う行為も「殺人である」とキリスト教会は教えてきました。そういうわけで聖書に照らすと、自殺者の多い日本ですので、日本は至る所でこの第六戒が破られているということになるのです。この他に広く知られているのは、人口妊娠中絶に対するキリスト教会の姿勢です。聖書の価値観では、お腹の赤ちゃんも私たちと何ら変わらない大切な命です。日本は少子化が進み、年間の出生数が八十万人を切ろうというところですが、その一方、少なくとも年間十五万人の胎児が中絶されています。一日当たり四百件。少子化の国なのに、小さな大事の命の選別が日常的に行われているのです。ですから幾つかのキリスト教団体が養子縁組の斡旋をして胎児の命を守ろうと奔走しています。今は不妊の人も多く、子どもが欲しくても与えられない家庭が多くあるのです。どうでしょう。実は私たちが気づかないだけで、第六戒が禁じている命の軽視が、私たちの身の回りに溢れているのです。
第六戒は、単に殺人を禁じるだけではありません。これは生命の尊さを訴える戒めです。命を大切にするために、私たちも出来ることは何でもするように、と戒めは私たちに訴えています。しかも、この戒めは新約の光を当てて読むと、さらに深い意味を持ってくるのです。有名なのがマタイ福音書五章の山上の説教です。イエスさまは「殺してはならない」という戒めに触れて、その深い意味を教えてくださいました。「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません」。これを受けてハイデルベルク信仰問答106番は「隠れた殺人」について語るのです。ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような「殺人の根っ子」を神は憎んでおられ、それらは神の前では実は「隠れた殺人」なのだ、と。その上で107番は私たちが為すべきことについてこう語ります。神がわたしたちに求めておられるのは「自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、、、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです」。
憎しみさえも、神の前では隠れた人殺し。敵に対してさえ善を行うように。それが命を大切にするということ。そう、私たちは実は毎日の人間関係の中でいつもこの第六戒と向き合っているのです。第六戒を生きることはは、この小さな気づきから始まるのです。
今年のアカデミー賞にノミネートされた話題の映画に「関心領域」という映画があります。ユダヤ人の大量虐殺で知られるアウシュビッツ強制収容所の隣に暮らす家族の日常を描いた映画です。塀の向こう側では毎日多くのユダヤ人たちが殺されているのですが、この家族は、実に穏やかで幸せな日々を暮らしているのです。私たちが気づかないだけで、実は身の回りで尊い人の命が危険にさらされている。私は映画の予告編を見たのですが、最後の字幕メッセージがこれでした。「目をそらすな!」第六戒は、私たちにとって実は身近な戒めです。「目をそらすな」と語りかけているのです。
2. 神の所有だから
第六戒が身近な教えであるということ。それは聖書が、人命に関して実に高い意識を持っているからです。憎しみも隠れた殺人。そして敵対する者の命も大切にするように、と。
聖書はどうして、人の命をここまで尊いと考えるのでしょう。理由を一言で言えば、聖書は、命が人間のものだとは思っていないのです。
千恵子牧師が今、創世記から説教していますので、頻繁に学んでいることですが、私たちは神の輝きを映し出す、「神のかたち・似姿」として造られました。「神の似姿」とは、つまり神の子どもとして生まれた、ということです。親子は似ていますよね。似ているということは、人が本来、神の子どもとして造られたということです。
人の命が尊いと聞けば、それはそうだ、と誰もが思います。その上でさらに、自分の子どもの命が尊いと聞けば、より実感をもってイメージできるだろうと思います。例えば親、特に母親ならば誰もが経験するでしょう。自分の子どもが病気に苦しむのを見て、子どもと代わってあげたい、と思われたことがあるでしょう。親はそれほどに子どもの命を気にかけている。それは、神さまにとっても同じ。だから神さまは、人の命を大事にされるのです。たとえ罪人の命であっても。
この間、アベルとカインの話を創世記4章から学びました。兄カインが弟アベルを殺した時、神さまの声は悲痛でした。流されたアベルの血が「大地からわたしに向かって叫んでいる」と、神さまはカインを叱責したのです。私たちはこの話を読むと、カインの身勝手さに怒りを覚え、カインは死に値する。死刑だ、と瞬間的に思ってしまうかもしれない。しかし神はあわれみ深く、地上をさまようさすらい人となったカインの命を守ることを約束するのです。カインの命もまた、神の目には尊かった。カインもまた、本来神の子どもですから。こんなところにも聖書の持つ、命の尊さに向けた高い意識が現れています。
命は神のもの、神の所有。私たち人間は命を前にして、生きるべき命と、死に値する命を決めることはできない。命は神さまのものであるからです。
昔、留学中にそのことを深く実感する出来事がありました。千恵子先生は四人目をアメリカで出産したのですが、定期健診のエコーで(アメリカのエコーは精度が高い)お腹の赤ちゃんに障害のある可能性が指摘されたのです。千恵子先生は揺るがず、神さまが委ねてくださった大事な命だから自分は産みますと微動だにしませんでした。アメリカの医療は実に慎重で、その後も精密検査が続くのですが、その中で私たちは、命が神さまのものであることを経験として深く学んだのです。
命が神のものであるということは、この十戒全体が、明確なメッセージとして語っていることです。十戒の第一戒で私たちは、このお方だけが私たちの唯一、まことの神と信じ、告白しているのです。その大事なお方が造り、委ねてくださった命ですから、命が神のものであることは明らかですし、それは周りにいるどんな人の命も同様なのです。
3. どうしたら大事に
この命を、私たちはどのように大切にしたらいいのでしょうか。聖書に従えば、ただ殺さなければそれでいい、という話にはならないのです。憎しみは神の前には隠れた殺人ですし、敵の命さえも重んじる深い隣人愛を聖書は求めます。私たちは命をどのように大切にしていったらいいのか。今日はシンプルに一つのことを勧めたいのです。誰かの命を大事にすることは、その人の存在を愛すること。そして、特にそれが顕著になるのは、神がカインの命さえ大事にされたように、私たちが好ましくないと思う人をも赦し、愛していくということです。人を赦すことができるかどうか。一見飛躍のようですが、第六戒は、最終的にこの問題を私たちに突き付けてきます。
私たちの周囲には、命を軽く扱う人々が多くいます。自分の命を大事にしない人々がいますね。いじめの問題も世の中に溢れています。私たちはそういう命を軽んじる人々に出会った時にどうするでしょうか。そういう人々は時に私たちの存在をも軽んじて、私たちの命も軽視するかもしれない。もし、その人を叱って注意できる関係だったら、そのように諫めていきたいと思います。また、注意できるような関係でなかったとしても、その人々に寄り添い、その人が変えられるようにと祈っていきたいのです。時には、その人を赦すことも必要になってくるでしょう。
命を軽んじる人を見て裁くのは簡単です。でも裁くだけでは、その人は変わりません。もし裁くことで悔い改める人がいたら、それは素晴らしいこと。でも多くの人は心を閉ざして、いよいよ頑なになるでしょう。相手を変えようとするなら、その人のために祈り赦して、関わっていくことです。これはしんどいこと。でも、そのような関わりがあってこそ人は変えられていく。たとえ相手がどんな罪を犯し、どんな問題を抱えていても、私たちがその人の存在を大事にしていることを伝えないと、相手を変えることはできない。神が殺人者カインの命さえも大事に扱ったように、赦しがたい人も赦して、その存在を大事にしていく。そのような愛だけが人を変え、この世界を変えていくことができるのです。
2006年アメリカ東部ペンシルベニア州のアーミッシュの村で住の乱射事件があり、五名の小学生の女の子が命を奪われました。アーミッシュという人々をご存じでしょうか。キリスト教の再洗礼派という素朴な信仰を持つ人たちのグループで、電気もガスもない、昔ながらの生活様式で、昔ながらの信仰を素朴に生きている人たちのことです。そのアーミッシュの近所に暮らしていた牛乳配達の32歳の男性が銃を持って小学校に押し入り、小学生五名を殺して最後に自分の命を絶ちました。この痛ましい事件の中で二つの印象深い出来事があり、アーミッシュの人々の信仰の証しとなって社会に衝撃を与えたのです。教室で犯人が銃を低学年の女子に向けた時、高学年の女の子が手を広げて前に立ち、「この子を撃つなら、まず私を撃って」と後輩をかばったそうです。その女の子は痛ましくも撃たれて即死。その他にも同じようなことが繰り返されて合計五名が射殺されました。これが一つ目の出来事。
もう一つは女の子たちが殺された夜の出来事です。子どもを亡くした親たちは、牛乳配達の男性の両親を訪ね、「私たちは自殺した犯人と遺族のあなたたちを赦します」と語り、後にその男性の葬式にも出席したそうです。
私はこの話を聞いた時に衝撃を受けました。アーミッシュの人々は、犯人と遺族の存在、命をも大事にする人々だった。だから報復ではなく、赦しを与えたのだと。報復は殺人の連鎖を生みます。命を大事にする世の中を実現するために、最も必要なのは、実は人を赦すこと。
この話はただの麗しい話では終わりません。赦すことを決断した親たちは、その後長い間、そして今もおそらく葛藤に苦しんでいるそうです。その葛藤の中、親たちは、事件のあった学校の校舎を建て替えてニューホープスクールと新しく名付けました。赦しがたい人を赦し、愛していく。そのような愛にこそ世界を変えていく希望があることを、この出来事は物語っていると思います。
結び
「殺してはならない」には目的語がない。だから私たちはどんな人であってもその命を大事にしていく。赦せない人をも赦していく。この生き方は私たちに可能でしょうか。そんなのは無理だと思われる方もあるでしょう。私も自信がありません。けれども、今日は最後に一つのことを思い起こしたいのです。それは、私たちも実は一人の人の命を犠牲にし、そのおかげで生きているということです。思い出したいのはルカ23章34節、十字架の上でのイエスさまの祈りです。ご自分をあざけり十字架に殺した人々のためにイエスさまは祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。私たちはこのお方の尊い命を犠牲にして、今の自分の命を生きています。そして、このイエスさまの愛に打たれる時に、私たちも本当の意味で人の命を大事にする者へと変えられていくのです。イエスさまを信じるステパノが、使徒7章で迫害を受けて殺される時に、このイエスさまと同じ祈りを祈りながら、自分を死に追いやる人たちを赦して死んでいったのを思い出します。
私たちも、イエスさまのように人の命を大事にする人へと変わることができる。すぐには無理かもしれない。でも、イエスさまを見つめるのです。私たちはイエスさまの命を犠牲にしながら赦されて、生かされています。命は神さまのもの。私たちは聖霊の助けを頂いて、本当の意味で命を大切にする者へと変えられたい。そのためにも今日、まずは一つの実践から始めていきたいのです。赦せないと思っている人を、ひとり赦すことから始めるのはいかがでしょう。イエスさまが赦したように。ステパノが赦したように。裁かれるべき、と思われる人を一人、主にあって赦していく。一人赦せたらもう一人、そしてさらに一人。そのように赦す愛を重ねていく中で、私たちは人の命を大事にする人へと変えられていくのです。お祈りします。
命の造り主であるまことの神さま、私たちとは縁遠いと思っていた第六戒が、実は身近な戒めだと気付きました。キリストの姿に学びながら聖霊によって私たちを変えてください。日々出会う誰かの命を大切にし、キリストのように人を赦す神の子どもへと成長させてください。私たちのために命を犠牲にした救い主、キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン。
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