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子ろばに乗った平和の王(ルカの福音書19:33~36)


「子ロバに乗った平和の王」

ルカによる福音書 19章33~35節

イエスさまが捕らえられ、鞭打たれ、十字架につけられて死を迎える直前の出来事が、今日の個所で描かれています。イエスさまのすざましいほどの受難を目前にしていると思えないほど、ほのぼのとした情景です。遠く北のガリラヤ地方からやってきたイエスさまは、その週の最初の日、多くの熱狂的な群集に、この方こそがユダヤ人の王だと歓喜をもって迎えられました。

この、いわゆる「エルサレム入城」の記事は、4つの福音書すべてに記されているので、とても重要な場面だということがわかるのですが、それぞれの福音書で視点や記述内容が多少違っています。ルカでは「ロバの子」とありますが、他のところでは、子ロバと親ロバの二頭だったとか、イエスさまがロバに乗ってエルサレムに入城されるときに敷かれた枝が棕櫚だったり、ナツメヤシだったりしますし、ルカに至っては、そのこと自体に触れられていません。ここにルカの意図が見られます。ルカは、弟子たちの群れがイエスのエルサレム入城を歓喜をもって出迎えている姿こそ記していますが、群衆が花道を作って、パレードをイメージするような華々しくイエスさまを迎える姿は描いていません。むしろ、「祝福あれ、主の御名によって来られる王に!」と大声で賛美する弟子たち(12弟子だけではなく)に対して、パリサイ派の人々が、弟子たちを黙らせてくださいとイエスさまに訴える姿が描かれているだけです。そしてその後、イエスさまは、エルサレムの都を見て、「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら…」(42節)と、涙を流されています。こう見ると、ルカは、他の福音書記者たちとは違って、イエスさまがエルサレムに入られるときの、受難の覚悟と悲しみに集中したかったのではないかと思うのです。

イエスさまは、子ロバに乗ってエルサレムに入って行くことを決めておられました。そして、先に弟子たちを村に遣わし、子ロバを調達させるのです。しかもまだ誰も乗ったことのないロバの子という条件付きです。条件に合う子ロバを見つけたら、それをほどいて連れて来なさいと言いました。もちろん、野生のロバではありませんから持ち主がいます。黙って、ロバをほどいていると、持ち主は言うでしょう。「なぜ、ほどくのですか?」と。そうしたら「主がお入り用なのです」と答えなさいと言います。果たして弟子たちが村に行くと、イエスさまのシナリオ通りに、事が運ぶのです。

この「入り用」という言葉は、とてもいい訳で、「使用の目的があって欲すること」を意味しています。そしてさらに原語でみると、一時的に借りて、また返すことを前提としている言葉だそうです。そして、この「主がお入り用なのです」の「主」は、「キュリアス」というギリシャ語なのですが、単数形です。それに対して、子ロバの「持ち主たち」は、同じ「キュリアス」という単語なのですが、その複数形なのです。この世のすべてのものには、私たちのような「小さな持ち主」がたくさんいますが、究極的には、ただ一人の主、世界の王、主イエス・キリストこそ、すべてのものの所有者であり、主権者であるということをここで指しているのです。

それにしても、まだ人を乗せたことのない子ロバが、おとなしく人を乗せることなどできるのでしょうか。そう疑問に思われた方もおられるかもしれません。このことについて、JTJ神学校の岸義弘先生が、千葉の房総半島、富津にあるマザー牧場のロバの飼育員に聞いたことがあるそうです。その飼育員は「まず無理ですね」と答えたそうです。人を乗せられるようになるためには、まず、背中に紐一本乗せるところから始めるのだとか。紐一本でも、ロバは嫌がってそれを振り払おうとするそうです。それを徐々に慣れさせて、次に小さな布切れ一枚、タオルを一枚、そしてバスタオル、最後に鞍を乗せるのだとか。そこに至るまではかなりの時間を要するということです。岸先生は最後に聞いたそうです。「例外はありますか?」その飼育員さんは、岸先生の質問の意図など知る由もないのですが、こう答えたそうです。「ロバが本能的に、この方は私の主人だと認めた場合は、乗せるかもしれません。」と。私たちは今、ノアの箱舟の講解説教を毎週続けて聞いていますが、先週は、動物たちが、神さまの命令に従ってひとつがいずつ、自発的に並んで、箱舟に入くところを見ました。動物たちは、人間たちよりも、自分たちの本当の主人を、またこの世界の王を、本能的に知っているのかもしれません。

 実は、旧約聖書には、やがて来られる救い主、真の王になられるお方が、ロバに乗るという預言があります。ゼカリヤ書の9章9節と10節です。招詞で読みましたが、もう一度読みましょう。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」 今、まさに戦場と化している中東を思う時に、主よ、その日はいつですかと、思わず祈らされます。

普通、王さまというのは、馬に乗ります。立派な軍馬に乗るのです。日本の時代劇を見ても、将軍は、鎧兜を身につけて、刀を持って、かっこいい名馬に乗ってさっそうと現れるものです。ところが、聖書が預言した真の王は、ロバに乗って来られます。ロバというのは、庶民が畑仕事や、荷物を運ばせるのに使った家畜です。不格好で、およそ戦いには向かない動物です。そう、聖書が言いたかったことは、そういうことなのです。私たちの救い主となられる方は、武器をもって戦う王はありません。戦って、敵を撃ち殺して、力でもって相手をねじ伏せて、勝利をもたらす王ではないのです。神がお遣わしくださる真の王とは、平和の王なのです。庶民と同じ目線で、人々の日常生活に平和を与えてくださる方だと、それが、このロバに乗るということに現されていたことでした。しかも、ザカリヤ書では、神様のご用に用いるロバは、まだ誰も使ったことのない子ロバでなければなりませんでした。それで、イエスはロバの子に乗られた、というわけです。人を一度も乗せたことのない子ロバです。足取りもよたよたしていたかもしれません。馬に比べると低いですから、馬なら、群衆を上から見下ろして、さっそうとパレードの中心を歩けたでしょうが、ロバですから、人々の目線と同じぐらいだったでしょう。子どももイエスさまのお顔がよく見えたことでしょう。私たちが、ロバに乗った人と言えば、セルバンテスの長編『ドン・キホーテ』を思い浮かべるかもしれません。騎士であるドン・キホーテは、当然のこととして馬に乗りますが、従者をつとめる農民のサンチョ・パンサはうまく馬に乗ることができなくて、かわりにロバにまたがるのです。太っちょのサンチョ・パンサが小さなロバに乗っているところは想像するだけでコミカルです。そうロバに乗るのは、不格好、滑稽を意味するのです。ひょっとしたら、よたよたとふらつくロバに乗って入城するイエスさまに、失望した人もいたでしょう。「ホサナ、ホサナ」という歓喜の後ろで、指を指して笑った人もいたかもしれません。それぐらい、「王」、また「救世主」からは程遠い様相だったのです。そして、イエスさまは、それを望まれました。滑稽な入城の仕方がよかった。イエスさまの目指す「平和」はこれなのだと示したかったからです。

 当時は、ローマの支配の中にありました。ローマに歯向かいさえしなければ、一定の平和を享受することができた時代です。それを「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と言います。今の台湾と同じですね。中国は台湾を独立国と見ていません。ですから今行われているパリオリンピックでも、「台湾」という呼称、台湾の国旗は使われていません。「チャイニーズ台北」なのです。台湾は、独立を叫ばなければ、おとなしくしていれば、それなりに平和を享受できる。当時のイスラエルと同じです。けれども、誇り高いユダヤ人は、それを良しとはしませんでした。いつか救世主(メシア)が現れ、自分たちをローマから救い出し、国を再興してくれるはずだと信じていたのです。そしてその期待がイエスさまにかかりました。ところが、イエスさまは、子ロバに乗って入城された、「違う、違うのだ、私の目指す王国は、神の国は、平和は、権力と武力によって建て上げられるものではない」そう主張しているようです。

「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とイエスさまは言われました。これは、人類の歴史の教訓です。剣で、武力で世界を支配しようとした者は、必ず剣で滅びる。ところが、いつまでたっても、何度失敗しても、人はその教訓から学ばず、同じことを繰り返します。主イエスさまは、そのような人間の剣に対して、丸腰で立ち向かいました。あのゲッセマネの園で、弟子のひとりが思いあまって、剣を引き抜き、大祭司のしもべに切りかかって、耳を切り落とすと、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と、その耳を癒してあげたのです。そう、イエスさまは、子ロバに乗って立ち向うお方です。けれどもイエスさまは勝利しました。敵をも愛するという愛によって打ち勝ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」との十字架上での祈りによって、イエスは憎しみと敵意に打ち勝ったのです。そして、そのように殺すのではなく人を真に生かす神の愛こそが世界を変えていく力があることをお示しになりました。

今日は、平和記念礼拝です。そして15日は「終戦記念日」。今週、私たちは、軍事力やお金の力で、世界を変えようとする、人間の傲慢を覚えたいと思います。そして、そのような人間の思い上がりや憎しみが、神の御子を十字架につけたという事実に深く心をめぐらしましょう。そして、そのうえで、人間の愚かさを、どこまでも赦し、敵をも愛された神の愛こそが、この世界を変えることができのだともう一度信じたいと思うのです。なぜなら、イエスさまの愛の実践は、十字架で終わらなかったからです。十字架から三日目に、よみがえられました。人類の罪に神の愛が勝利した瞬間です。この世界をおおう死の力に、神のいのちの力が勝利をおさめたのです。

私たちは、皆、それぞれが小さく弱い、無力で不格好なロバの子のような者かもしれません。けれども、そのような者をあえて選んで、その背に乗ってくださるのが主イエスさまなのです。こうして私たち一人一人が、このお方を主として受け入れ、真の王として従うときに、イエスさまは喜んで私たちを用いてくださいます。そして私たちがイエスさまをお乗せする時に、この世界に神の愛を運ぶことができます。この憎しみと争いに満ちた世界に、神の平和が届けられるのです。「主がお入り用なのです」 主の招きに応えましょう。


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