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9月, 2025の投稿を表示しています

ここは天の門(創世記28章)

「ここは天の門」 創世記28章   エサウのヤコブへの怒りが、あまりに激しく、殺意さえ抱いていることが分かった母リベカは、ヤコブを自分の故郷へ送り出すことを思いつき、夫イサクに提案します。イサク自身も、彼の父アブラハムが、イサクのお嫁さん探しに、わざわざハランにしもべを遣わして、妻リベカを見つけ出して連れて来てくれたことを思い出し、それに賛同します。また伏線としては、エサウの二人の妻のことがありました。彼女たちは、イサクとリベカの悩みの種でした。アブラハム、イサクのモットーは何だったでしょうか。「和して同せず」、カナンの地で平和を保ちつつ、なお神の民としてのアイデンティティを固守することではなかったでしょうか。二人の妻の何か問題だったかは、具体的に書かれていないのでわかりませんが、異なった神を礼拝する嫁たちは、生活の中にそれらを持ち込んだのではないかと推測できます。ですから、ヤコブの結婚相手は、なんとしても創造主にして唯一である神を礼拝する女性であってほしい、そんな願いがあったのではないでしょうか。 一方エサウはこの後、イサクがヤコブを祝福して送り出したこと。またリベカの故郷から妻を迎えるよう指示したことを知りました。しかも、その時に、カナンの娘たちから妻を迎えてはならないと命じていたことも知りました。それでエサウは、今いる妻たちのほかに、おじいさんのアブラハムが女奴隷ハガルに産ませた子ども、イシュマエルおじさんの娘を妻に娶ることにしたのです。例えるなら、欠陥住宅自体には、なんの修理もしないまま、その欠陥を補うために、建て増しするようなものです。彼に欠けているのは、心からの悔い改めだったと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 話しは戻りますが、イサクはこの時にはすでに、ヤコブが神の祝福を引き継ぐ後継者であることを認めていました。神のみこころを求めないで事を進めても、神は道を閉ざされることを彼は学んだことでしょう。ただ、ヤコブを祝福の後継者とするならば、本来ヤコブではなく、エサウを外に出すべきなのですが、さすがにヤコブのしたことがあまりに卑劣だったことと、エサウの怒りが収まるために冷却期間が必要だったこと、そして、ヤコブを後継者とするためには、結婚が欠かせなかったために、イサクは、エサウはそばに置いたまま、ヤコブを遠くハランに送り...

祝福を騙し取るヤコブ(創世記27章)

「祝福を騙し取るヤコブ」 創世記 27 章   先週は、「井戸を掘る人」と題して、イサクが神さまから与えられた「約束の地で寄留者として留まる」という使命を貫き通した姿を見ました。人と争うことを好まず、柔和で、平和的に物事を解決するイサクは、まさに理想の人と思われましたが、今日のイサクは、夫としても父親としても、また神の祝福の継承者としても、少々心もとない感じです。もちろんイサクだけではありません。妻リベカも、双子の息子の兄エサウも弟ヤコブも、少しずつずれています。そして、今日のお話の最後には、家族がバラバラになり、ヤコブに至っては、 20 年にもわたる辛い日々の始まりになったのでした。 聖書には、模範的な家族は一つもないといつも言っていますが、いったい彼らの何が問題だったのでしょうか。どこで道を誤ったのでしょうか。今日は、家族一人ひとりに焦点を当てながら、人の罪と、その背後にある神さまのみこころについて考えてみたいと思います。   まずは、なんといっても家長イサクの責任は大きいでしょう。最近は、家父長制というと、目の敵(かたき)にされますが、暴力や支配のない家長が、愛をもって、また公正をもって家族を治め、子どもたちが、やはり愛と尊敬を持って家長に従う関係は、家族の平和と安定、幸せのためには欠かせないのではないかと、私は思います。そして、そのような健康的な家父長制は、むしろ聖書的だと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。 イサクは年を取りました。目がかすんでよく見えなくなったとあります。体は有限ですから、長く使えばあちこちガタが来ます。最後はからだとの戦いです。イサクは長寿だったので、なんと180歳まで生きたと、創世記の35章28節にあります。しかし、詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」 イサクの生涯も決して平たんではありませんでした。けれども、彼が不幸せだったかというとそうではありません。へブル書の11章13節には、イサクを含む族長たちについて、こう書いています。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、 はるか遠くにそれを見て喜び迎え、 地...

井戸を掘る人(創世記26章)

「井戸を掘る人」 創世記 26 章1~35節   さて、このパレスチナ地方に、また飢饉が訪れました。アブラハムのときにも大飢饉が起こったことが記されていましたが、恐らくその時から100年の歳月が流れていました。いわゆる「世紀の大飢饉」ですね。イサク一行は、この飢饉のために、ゲラルのペリシテ人の王、アビメレクのものとへ身を寄せました。このアビメレク、恐らくアブハムのときから代替わりをしていたと思われます。イサクは、本当はアブラハムのようにエジプトに行こうとしていましたが、主がイサクに現れて、それを止めました。 「エジプトへは下ってはならない。…あなたはこの地に寄留しなさい」 そして、続けて、アブラハムと全く同じ祝福の約束を与えます。代が変わっても、神さまの約束には変更はありません。代が変わっても、時代が変わっても、社会の価値観が変わっても、神さまのお約束に変更はないのです。そう考えると、アブラハムに与えられた約束は、霊の子孫である私たちにも有効です。 「あなたは、この神を神としないこの地にあって、神の民、神の子として寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたは天の御国を相続する。こうしてわたしは、アブラハムに誓った誓いを果たす。あなたによって、あなたのまわりのすべての人は祝福を受ける!」 この約束は、今を生きる私たちにも有効なのです! こう見ると、神さまがイサクに与えられたミッションは、「この地に留まる」ということだったことがわかります。この後、井戸にまつわるいろんな事件が起きますが、イサクは、かたくなにこの地に留まり続けました。それは、神さまがこの地に留まれと命じたからです。この約束が与えられた時点で、イサクは意を決して、この地に留まることにしたのです。 ところが…です。カエルの子はカエルといいますか、イサクもアブラハムと同じ失敗をします。恐れから、妻リベカを妹だと偽ったのです。これもアブラハムと同じく真っ赤な嘘ではないのでややこしい。リベカは、父アブラハムの兄弟ナホル息子ベトエルの娘なので、要するに「はとこ(またいとこ)」にあたるわけです。ですから血縁はあるわけで、妹と呼べなくもない…。アブラハムのときにも話しましたが、もし、リベカの夫として、この地に寄留すれば、リベカを我がものしようとする輩(やから)が現れたと...

主が私たちを喜んでおられるなら(民数記13:25 ~14:9)

2025 年 9 月 7 日  塚田 響 実習生  「主が私たちを喜んでおられるなら」 民数記 13 章 25 節〜14 章 9 節  みなさんおはようございます。・・・   今朝は、民数記の箇所から、共にみことばに聞いていきたいと望んでおります。みことばに 見ていく前に、一言、お祈りいたします。  13 章 1 節「カナンの地を前に」(導入)     今朝共に見ていきます民数記の箇所は、出エジプトしたイスラエルの民がいよいよ、神様の 導き入れようとしておられるカナンの地(約束の地)に、入っていこうとしている場面に当た ります。その地に入っていくにあたり、イスラエルから 12 人の族長たちが偵察をするために、 カナンの地に遣わされました。先程お読み頂いた 13 章の 25 節からの箇所は、その偵察に行っ た族長たちがイスラエルの民の元に戻ってきた場面に当たります。しかし、その偵察の結果を 見ていくと、偵察して来た人々の間では、意見の相違があったことがわかります。同じ地を見 に行った 12 人でしたが、彼らの間では、意見が真っ二つ・・・“その地に上りましょう!その 地に上ることはできません!”と正反対な結論が生まれてしまったのです。   なぜ、このような違い、対立が生まれてしまったのでしょう。  私たちの対立   さて、激しい対立は、誰もが一度は経験したことがあることかもしれません。そのエネルギ ーの激しい消耗を考えるとなるべく避けたいものだと思います。 対立の経験を振り返るときにわかるのは、その「対立の激しさ」というのは、両者における その「トピックの深刻さ」を表しているということではないでしょうか。  イスラエルの民にとって、この場面は、ここ一番!これからの歩みが分かれる、分岐点のよ うな、重要な場面でした。   結論から述べますと、この対立によって、イスラエルの民の大半、そのほとんどは約束の地 に入ることができませんでした。イスラエルの民の大半のうち、カレブとヨシュアのみ、それ からイスラエルの民の子どもたちの世代が約束の地に入ることができたのです。カレブにおい ては、続く箇所の 14 章の 24 節の神様の言葉の中にあるように「(カレブは)わたしに従い通 した」と言われています。...