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祝福を騙し取るヤコブ(創世記27章)


「祝福を騙し取るヤコブ」

創世記27

 

先週は、「井戸を掘る人」と題して、イサクが神さまから与えられた「約束の地で寄留者として留まる」という使命を貫き通した姿を見ました。人と争うことを好まず、柔和で、平和的に物事を解決するイサクは、まさに理想の人と思われましたが、今日のイサクは、夫としても父親としても、また神の祝福の継承者としても、少々心もとない感じです。もちろんイサクだけではありません。妻リベカも、双子の息子の兄エサウも弟ヤコブも、少しずつずれています。そして、今日のお話の最後には、家族がバラバラになり、ヤコブに至っては、20年にもわたる辛い日々の始まりになったのでした。

聖書には、模範的な家族は一つもないといつも言っていますが、いったい彼らの何が問題だったのでしょうか。どこで道を誤ったのでしょうか。今日は、家族一人ひとりに焦点を当てながら、人の罪と、その背後にある神さまのみこころについて考えてみたいと思います。

 

まずは、なんといっても家長イサクの責任は大きいでしょう。最近は、家父長制というと、目の敵(かたき)にされますが、暴力や支配のない家長が、愛をもって、また公正をもって家族を治め、子どもたちが、やはり愛と尊敬を持って家長に従う関係は、家族の平和と安定、幸せのためには欠かせないのではないかと、私は思います。そして、そのような健康的な家父長制は、むしろ聖書的だと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。

イサクは年を取りました。目がかすんでよく見えなくなったとあります。体は有限ですから、長く使えばあちこちガタが来ます。最後はからだとの戦いです。イサクは長寿だったので、なんと180歳まで生きたと、創世記の35章28節にあります。しかし、詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」 イサクの生涯も決して平たんではありませんでした。けれども、彼が不幸せだったかというとそうではありません。へブル書の11章13節には、イサクを含む族長たちについて、こう書いています。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」彼は、いつか自分が迎えられる天国を見て喜び迎え、希望をもって、地上では旅人、寄留者として生きたとあります。

イサクの最後のミッションは、神の祝福の約束の継承でした。イサクは、父アブラハムから、カナンの地を与えるという神の約束と子孫を空の星のように増やすとの約束。そして、彼らが世界中の人々の祝福の基となるという約束を、双子の息子のどちらかに継承しなければなりませんでした。判断材料はありました。リベカが双子の兄弟を身ごもったときに、リベカの祈りの中で神さまは、「兄が弟に仕える」とはっきりとおっしゃいました。もちろんそのことは、夫イサクに伝えていたことでしょう。また、イサクが一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに、長子の権利を弟ヤコブに売ったことも、恐らく伝え聞いていたと思われます。けれども彼は、そんなことを気にも留めずに、この世の習慣に習って、また自分が偏愛している長男エサウに神さまの祝福の約束と家督を継ぐことにしたのです。イサクは、長男エサウをそっと部屋に呼び、「自分はもう長くないから、死ぬ前に、正式にお前を跡継ぎにして、祝福の祈りをしたい。」そう言ったのです。祝福はあくまで神さまの祝福です。神さまの約束です。世間の常識や自分の好みで、継承者を選んでよいものでしょうか。

 

そして次に、リベカに目を移しましょう。リベカは日に日に衰えている夫を見て、近いうちに正式に神の民としての祝福の継承者を決める儀を執り行う日は近いとにらんでいました。そこで、夫イサクが、こっそりとエサウを呼び寄せた時に、これはその時が来たと、ドアの外から聞き耳を立てていました。そして、まさにその時が来たとわかると、エサウが獲物を取りに家を出るとすぐに、策を講じます。時間はありません。エサウが獲物を仕留めて帰ってくる前に、すべてのことを終わらせなくてはいけません。母リベカはヤコブを呼び寄せると、家で飼っている子ヤギの最上の2匹を持ってくるように命じます。そして自分はそれを手早く料理するから、あなたはエサウに成りすまして、その料理を父イサクのところに持って行きなさい。そうすれば、兄に行くはずの祝福がお前のものになるからというのです。ここに長年連れ添った夫への愛は感じられません。しかも目がかすんで見えなくなっている夫を罠にはめるような策略を、何のためらいもなく実行に移そうとしているのです、イサクの視覚は衰えていました。ですから彼は、その分聴覚を研ぎ澄まし、「声はヤコブの声だが…」と言います。また触覚も駆使します。そしてヤコブを触るのですが、子ヤギの毛皮で覆われたヤコブは、それがエサウの肌だと判断します。また、嗅覚にも訴えます。イサクはヤコブの衣の匂いを嗅ぎ、「ああ、わが子の香り、主が祝福された野の香りのようだ」というのです。レビ記の19章14節にはこんなみことばがあります。「あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは【主】である。」目の見えない人の前に躓くものを置く…、リベカのしたことはそんな行為です。聖書はそのようなことを固く禁じています。

また先ほども触れたように、確かにリベカは、双子を身ごもったときに、「兄が弟に仕える」とのみことばを神から受けました。けれども、その神のみことばへの信仰は見られません。人を騙したり、蹴落としたりしなくても、神のことばは必ずなるという信仰がないのです。また、ヤコブが、「そんなことをすると父上は私にからかわれたと思って、この身に呪いを招くでしょう」と言うと、「子よ、あなたの呪いは私の身にあるように」と言います。これは、愛する我が子のためなら呪われてもいいという「母の愛」でしょうか?そうではありません。これは神への侮(あなど)りです。人を祝福したり、呪ったりすることは神のなさることです。リベカはここで、神に代わって、すべてを支配しようとしているのです。

 

さてヤコブです。ヤコブはそんな母の偏愛を受けて、乗せられた犠牲者ですか?とんでもないです。確かにヤコブは、父を騙すことに懸念を示します。11節「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。もしかすると、父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか呪いをこの身に招くことになります。」ここでヤコブは何を心配しているのでしょうか。祝福を騙し取られる父のことではありません。ましてや、兄エサウのことでもありません。自分のことです。父や兄を騙すことによって、自分に不幸が訪れたらどうしようという心配です。人はどこまで自己中心になれるのでしょうか。

そしてもう一つ、父イサクは、思いのほか早く、エサウが獲物を仕留めてきたことをいぶかしんで、「どうして、こんなに早く(獲物を)見つけることができたのかね、わが子よ。」(20節)と聞きます。その時にヤコブはなんと答えたでしょう。「あなたの神、主が私のために、そうしてくださったのです。」というのです。彼は小さい頃から神を畏れること(畏敬の念を持つこと)を教えられてきたのではないですか、自分の嘘を正当化させるために、神の名を使うとはどうしたことでしょう。

 

こんな風に一人ひとりを見ていくと兄エサウは、もはや犠牲者のように思えます。父から祝福を祈ってもらえると、何も知らないで、意気揚々と狩りに出かけ、見事獲物を仕留め、お父さんに喜んでくれるようなお料理を作って持って来たエサウ。けれども、父はすでに弟ヤコブを祝福してしまっていた。彼の落胆と嘆きはどれほどのものだったでしょう!

けれども、彼の長子の権利と祝福は、すでに、ヤコブに売り渡していました。そして、エサウはそれをちゃんと覚えていたのです。彼は36節で嘆いて言います。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」 エサウは覚えていました。自分が長子の権利を一杯のレンズ豆の煮物と取り換えたことを。あの時彼は、今の空腹を満たすことができれば、長子の権利などどれほどのものでもないと判断したのでした。そして弟の「口約束だけじゃだめ、ちゃんと誓ってよ」という言葉に従って、誓ったのでした。何て愚かなことをしたのだと地団駄を踏んでも後の祭りです。

そしてもう一つ。たぶん、エサウは、ヤコブに売り渡したものが、どれほど大きな祝福だったのかは、弟にその祝福を奪われたこの時も、きっとわかっていなかったと思うのです。おそらくエサウは、父の家督を継ぐことしか考えていなかったのでしょう。彼の関心は、親の財産にしかありませんでした。彼は、それを失ってしまったことに、これほど落胆し、地団駄を踏んで悔しがっているのです。けれども、彼が失ったものは、もっと大きなものです。それは神の民としての祝福でした。神さまは、選びの民イスラエルをそのご決意をもって愛する宝の民としました。決して見捨てない。神さまのいつくしみと恵みがどこまで追って来る、それが神の民なのです。彼が、その霊的特権がわかっていないと考える理由として、ヒッタイト人の妻との結婚があるでしょう。創世記26章34-35節「エサウは四十歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」27章46節「リベカはイサクに言った。『私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。』」国際結婚が悪いといっているのではありません。けれども、神の民の継承者が、他の神を拝む者と結婚するというのは、当時はあり得ないことでした。ですから、アブラハムはわざわざ、しもべを遠くハランまで遣わして、同じ神を礼拝する女性リベカを見つけ出し、彼女と結婚させたのではないですか?エサウは、神の民の継承者になるということがわかっていなかったのです。

 

今日の聖書箇所は、何度読んでもため息しか出ません。こうして、この家族は、この後ばらばらになってしまい、リベカは、愛するヤコブに二度と会うことができなかったのです。

けれども、人の思惑、策略を越えて、主のみこころは成就していきます。ヤコブは、この後、苦労はしますが、霊的祝福の継承者として整えられていくことになります。そしてヤコブの子孫は増やされ、約束の地に住み、そして諸国の祝福の基となっていくのです。

考えてみると、イエスさまの十字架の背後にも多くの人々の思惑と策略がありました。当時の宗教家たちパリサイ人や律法学者たちの策略、ユダの裏切り、ローマ総督ピラトのゆがんだ裁判。その中でイエスさまは、当時の人々に翻弄されているようにしか見えなかったことでしょう。けれども、父なる神さまが大事に温めておられた十字架による救いは、このような人の思惑や策略を越えて、成就されていったのです。そして、イエス・キリストは、時代を超えて、信じるすべての人の罪をその身に負い、新しいいのちを与えることに成功したのです。

私たちの目の前には困難があるでしょう。けれどもその背後には、神の導きの一本筋がある。主を信じて、期待して、今週も生きていきましょう。



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