2025 年 9 月 7 日
塚田 響 実習生
「主が私たちを喜んでおられるなら」
民数記 13 章 25 節〜14 章 9 節
今朝は、民数記の箇所から、共にみことばに聞いていきたいと望んでおります。みことばに
見ていく前に、一言、お祈りいたします。
13 章 1 節「カナンの地を前に」(導入)
今朝共に見ていきます民数記の箇所は、出エジプトしたイスラエルの民がいよいよ、神様の
導き入れようとしておられるカナンの地(約束の地)に、入っていこうとしている場面に当た
ります。その地に入っていくにあたり、イスラエルから 12 人の族長たちが偵察をするために、
カナンの地に遣わされました。先程お読み頂いた 13 章の 25 節からの箇所は、その偵察に行っ
た族長たちがイスラエルの民の元に戻ってきた場面に当たります。しかし、その偵察の結果を
見ていくと、偵察して来た人々の間では、意見の相違があったことがわかります。同じ地を見
に行った 12 人でしたが、彼らの間では、意見が真っ二つ・・・“その地に上りましょう!その
地に上ることはできません!”と正反対な結論が生まれてしまったのです。
なぜ、このような違い、対立が生まれてしまったのでしょう。
私たちの対立
さて、激しい対立は、誰もが一度は経験したことがあることかもしれません。そのエネルギ
ーの激しい消耗を考えるとなるべく避けたいものだと思います。
対立の経験を振り返るときにわかるのは、その「対立の激しさ」というのは、両者における
その「トピックの深刻さ」を表しているということではないでしょうか。
イスラエルの民にとって、この場面は、ここ一番!これからの歩みが分かれる、分岐点のよ
うな、重要な場面でした。
結論から述べますと、この対立によって、イスラエルの民の大半、そのほとんどは約束の地
に入ることができませんでした。イスラエルの民の大半のうち、カレブとヨシュアのみ、それ
からイスラエルの民の子どもたちの世代が約束の地に入ることができたのです。カレブにおい
ては、続く箇所の 14 章の 24 節の神様の言葉の中にあるように「(カレブは)わたしに従い通
した」と言われています。
今朝は共に、この一つの民、イスラエルの歩みから、対立が起こってしまったそのような出
来事の中から、主に信頼することとはどういうことなのか、主に従い通すこととはどういうこ
となのか、共に見ていきたいと思います。
神様の計画と偵察の意図
細かく今朝の箇所を見ていく前に、イスラエルの民がここに至るまでの背景に、触れたいと
思います。
イスラエルの民は長い期間エジプトの奴隷でありましたが、神様の導きによってエジプトの
支配から脱出し、荒野へと旅立ちました。神様はあらかじめ、イスラエルを導き出すためのリ
ーダーとしてモーセを召し出した時から、イスラエルの民を「乳と蜜の流れる地」に導き上る
と語っておられました。(出エジプト 3 章 8 節)
ですから、イスラエルの民は、当然、行く当てもなく荒野へと旅立ったのではなく、神様の
約束に基づいて、「乳と蜜の流れる地」を目指して出発したのでした。
そして、この民数記の 13 章のはじめにおいて、神様はその地、すなわち「カナンの地」を偵
察するように、モーセに命じています。しかし、約束の地を前に偵察する人々を送るように命
じた神様の意図は一体なんだったのでしょう。「その地を占領するための術を探る」目的があっ
たのか、もしくは、約束の地に入れる前に、「イスラエルの民がそこに相応しいかどうか試そう
としておられたのか」。
しかし、このような、偵察における神様の意図は記されていません。ですから、約束の地を
前にしている民と同様、これを読んでいる私たちも、どのように読むのかが問われている面が
あるとも言えます。(神様はもともと導き入れるつもりがなかったのだ・・・導き入れようとし
ておられたのだ・・・議論が分かれるような問題。)
さて、今朝の箇所に移りたいと思いますが、この箇所において、焦点が当てられているの
は、「偵察に行ってきた人々の報告」と「それを聞いたイスラエルの民の反応」です。それで
は、四十日の偵察を終え、族長たちが全イスラエルに向けて報告している、その内容から見て
いきましょう。
① 13 章 27 節〜33 節「偵察の報告」
27 節をお読みします。
"彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。
そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。"
「乳と蜜が流れている」という特徴は、先ほど背景を共に確認しましたように、その地が神
様の約束していた地であることを示しています。27 節は、まるで、そここそ「私たちの目指し
ていた地だ」と確認するような報告だったと言えます。さらに、彼らが偵察の際、その地から
とってきた果物は、偵察に行かずに待っていた会衆にとって、その地の豊かさを示すものとな
ったことでしょう。そのぶどうを見て、喜び踊ってもいい。そのような場面です。
さて、報告の後半は次のとおりです。
28、29 節
"ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのう
え、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタ
イト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいま
す。」"
29 節にあるように、カナンの地に、他の住民(ヒッタイト人、エブス人、アモリ人、カナン
人、(ヒビ人、ペリジ人))がいることは元々モーセにも民にも知らされていたことでしたが、1
巨人であるアナク人が住んでいるということは、聞いていた誰にとっても思ってもいなかった
ことだと思います。聞いた会衆は動揺したかもしれない。
報告の内容をここまで見てきましたが、この内容は偵察に行った人々の間で、意向が割れて
しまったこととも深く関係しています。
対立①
「上る or 上れない」
同じ地を見に行った 12 人でしたが、彼らを正反対の意向へと向かわせた理由は何だったの
でしょう。何が彼らをそうさせたのか。(間)対立している両者の言葉を見ていくと、彼らが当
てている焦点が違うことがわかります。
30 節「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。
必ず打ち勝つことができます。」
31 節「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」
"
カレブの焦点は“その地”にありました。「そこを占領しましょう」。先ほどの報告にあったア
ナク人をどうするのかといった問題は特に解決されていませんでしたが、カレブの関心はアナ
ク人にはなかったのです。対して、偵察に行った他の人々の焦点は、そこに住む、“(その)
民”にあったことがわかります。32、33 節でも、同様です。彼らの言葉には、一貫してその民へ
の恐怖が現れています。アナク人が怖いがあまり、彼らは、偵察した“その地”のことを悪く言
いふらすことさえするのです。 この対立の理由は何だったのか。この焦点の違いはどこから来ていたのか。
責任はどこに?
続いて 14 章を見ていきたいと思いますが、見ていくと、偵察に行った人々の、アナク人へ
の恐れが全会衆へと移っていることがわかります。さらには、イスラエルの民はエジプトへ戻
ろうと言って、神様が導き入れようとしておられる約束の地に入ることを断念してしまってい
ます。
彼らは実際にカナンの地を見に行ったわけでもなければ、アナク人を見たわけでもありませ
んでした、が、その地の民を恐れていた族長たちの言葉は、会衆の心を萎えさせるには十分だ
ったようです。
約束の地を偵察した者たちの責任は大きいと言えるでしょう。実際にその地を見た者たちの
言うことの説得力は強いわけですから。しかし、リーダーたちにのみ、責任を問うことはでき
ません。族長たちはそれぞれの部族の代表です。かしらです。これは族長たちだけの問題では
なく、イスラエルの民全体の問題だったとも言えるでしょう。
対立②「カナンの地へ or エジプトへ」
14 章 4 節で、全会衆は次のように言います。
「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」
イスラエルの民は、その地の民の剣によって死ぬよりは、エジプトに帰るほうが良いのでは
ないかと考えます。想定できる最悪の状況を避けて、あり得る選択肢の中からまだマシな選択
をしたつもりかもしれませんが、彼らのそのような選択は、神を侮ることを意味していまし
た。
彼らは、神様がここまで導いてきておられたことを知らなかったわけではありません。「なぜ
主は、われわれをこの地に導いて来て」(3 節)と言っているように、神様がここまで導いてお
られたことを認めています。しかし、その上で、エジプトへ戻ろうというのです。約束の地に
入るには、心配の種が彼らには多すぎました。「妻や子ども」が「かすめ奪われてしまう」。それよりはエジプトで奴隷として過ごす方がマシだと考えたのです。
神様は彼らをその家族と共にその地に導くことができましたが、彼らは、別のかしらを求め
たのです。
エジプトに帰ろうとする民の前に、モーセとアロンはひれ伏します。そこで、黙っていられ
なかったのは、その地の偵察に行ってきた、ヨシュアとカレブです。
さて、カレブと 全会衆や偵察に行った 10 人 とは何が違ったのか。
そのことを、カレブとヨシュアの言葉から見ていきたいと思います。
ヨシュアとカレブの言葉
ヨシュアとカレブは、衣を引き裂いてこう言いました。7、8節。
"「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下
さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。"
二人には、偵察した地が、本当に本当に良い地に見えたようです。アナク人が目に留まらな
いほど。「主が私たちを喜んでおられるなら」とは、確信に欠けた言葉のようにも見えますが、
二人は、主が喜んでおられるかどうかわからなかったのでしょうか。半信半疑だったのでしょ
うか。
いいえ、かえって、彼らはその地に進むこと以外の選択は考えないほどに、神様が自分たち
のことを喜んでおられることを知っていました。彼らにとって、その地は、神様の約束の現
れ、神様の約束に対する真実、そのものでした。だから、良い地に見えた。その地に行きたか
った。
ここまで見てきてように、そこからわかることとして、この二人と他のイスラエルの民との
違いは、「神様が自分をどう思っているか」という点においての認識の違いだったと言えます。
「主が私たちを喜んでおられるなら」という言葉からわかるように、二人の歩みのすべては主
にかかっていたのです。その地に入れるかどうかは、主のみ思い次第。でも、主が自分たちを
「アナク人の手に渡して剣で倒れるようにされる」とは思わなかったのです。「その地に上りま
しょう!主はその地を下さる」というのです。神様が私をどう思っておられるか、彼らの認識
は、彼らの思いを向うべき地へと向かわせたのです。
現代における問題
はどのようなことが言えるでしょう。
ここまで、イスラエルの歩み、特に約束の地を前に起こった、その対立と、その両者の根本
的な違いを見てきました。
根本的な違いがあったが故に対立が起こったとも言えますが、現代において、そのような対
立を目にすることはあるのでしょうか。多様性が受け入れられる現代は、対立は起こりにくい
傾向にあります。意見の違いがあれど、それを相手の個性として受け入れる。育った環境も違
えば、そもそも同じ人など一人もいない。このように、丸く納める方が、対立するより良いと
される時代です。そのような中にあって、私たちは、時には、重要な事柄(トピック)であろ
うとも、対立を避けていることはないでしょうか。
過去と比べ、人はお互いの関係性において、よく言えば寛容、悪く言えば、諦めを持つよう
になったと言えるでしょう。
しかし、約束の地、その乳と蜜の流れる地を見た、ヨシュアとカレブは、反対の意向が現れ
ようとも、たとえ民全体がそっちに向かおうとも、黙ることはしませんでした。
最後になりますが、教会の歩みにおいて、イスラエルの民と変わらないことは、はっきりと
していると言えます。それは、「真実な主はただお一人で、私たちはこのお方に信頼していい」
ということです。私たちの歩みには、心配の種が尽きないかも知れません。しかし、それを握
りしめていては、エジプトに戻ろうという結果になってしまわないでしょうか。
主に従う歩みに、偶像礼拝は、混同されてはいけない。真の神でない他の何かに従って行こ
うとする動きがあるならば、誰かが(あなたが)声を上げなければいけない。
ヨシュアとカレブが空気を読んだら終わりですよ。
かしら頼り、リーダー頼りになっていたら、だめです。教会のかしらはイエス様だけです。
大事なのはあなたと神様との関係なのです。
主はあなたにとってどんなお方ですか?
主はあなたを喜んでおられますか?喜んでおられないのですか?
「わたしは、彼が行ってきた地に彼を導き入れる」とカレブに仰られた神様は、確かに彼を
その地に導き入れました。
主の真実は、さまよう私たちの歩みを照らす唯一の光です。主に感謝しつつ、ともに歩みましょう。祈ります。
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