スキップしてメイン コンテンツに移動

天に上げられたイエス


「天に上げられたイエス」
使徒の働き1:1~11

天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。新型コロナウイルスは未だ猛威を振るう中ですが、確実に季節は進み、季節ごとの花を咲かせ、創造主なる主を賛美しています。私たちも場所はそれぞれですが、こうして礼拝の民として召され、主を賛美し、礼拝する恵みに与かっていますことを覚え感謝致します。毎週変わらずにやって来る主の日、しかし兄弟姉妹と共に集まって礼拝を守るということが、当たり前のことではなかったことを身をもって体験しているこの一か月です。主よ、どうぞそれぞれのご家庭で礼拝を守られているお一人お一人を覚えてください。そして同じ主の祝福をお与えくださいますように。これからみことばを聞きますが、どうぞ聖霊様がこの場所にご臨在くださり、私たちの理解を助けてください。そして私たちが、この1週間もこのみことばを携えながら、天を見上げ過ごすことができますように。しばらくの時、御手におゆだねいたします。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

さて、みなさんは頼りにしていた人との別れを経験したことがあるでしょうか。手取り足取り仕事を教えてくれた会社の先輩が異動になり、今度は自分がその責任を持たなければいけない。また学生であれば部活の先輩が引退し、今度は自分たちがリーダーシップをとって下級生を教え、指導しなければいけない。そんな経験です。その時の心細い感じ、あるいはプレッシャーを覚えているでしょうか。
今日の場面は、復活されたイエスさまが弟子たちに現れ、ああ、また前のようにイエスさまについて行けばいいのだとホッと安堵した矢先にイエスさまが天に上げられてしまう…そんな場面です。イエスさまに置いていかれる弟子たちと自分を重ねながら、今日の個所を読んでみたいと思います。

1~2節「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
「使徒の働き」の記者は皆さんもご存知のルカです。イエスさまの12弟子のひとりでもあり、医者そして歴史家でもあるルカです。ルカはここで言っている通り、イエスさまの生涯でなされたことと教えられたことをまずルカの福音書に記しました。時間的にはイエスさまが地上にお生まれになり、天に上げられた日までのことです。そしてその後「使徒の働き」を書きました。使徒の働きでは、文字通りイエスさま昇天後の使徒たちの働きが記されています。
宛先は、ルカの福音書と同じ「テオフィロ様」です。テオフィロは知的好奇心旺盛な身分の高い信仰の初心者だったと言われていますが、「テオフィロ」の意味が「神に愛される者」であることから、単なる個人宛に書かれた手紙ではなく、広く信仰者たちに読まれるよう意図して書かれたと言えます。
さてでは、この「使徒の働き」が書かれた目的は何でしょうか。それは、イエスさまの十字架と復活の証人になった使徒たちが、聖霊の生き生きとした働きの中でイエスさまの救いの「福音」を人々に宣べ伝えたその記録を、後世の私たちに知らせ、励ますことにありました。ルカは、こうして、神の救いのご計画が歴史の現実の中で成就していく様をこの書に描き記したのです。
ところで、使徒の働きに登場する「使徒」は、以前はイエスの「弟子」と呼ばれていました。なぜ使徒の働きでは「使徒」と呼ばれているのか考えたことがあるでしょうか。「使徒」は原語ではアポストロス、直訳すると「派遣された者」の意味を持ちます。そうです。イエスさまが昇天されるときに、弟子たちはイエスさまに派遣されました。そして「使徒」となりました。今日の個所では、弟子たちがイエスさまに派遣された様子を見ることができます。期待しつつ先に進めましょう。

3節「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」
イエスさま復活後の記事は、4つの福音書それぞれでいくつかのエピソードが語られていますが、「数多くの確かな証拠」とありますから、福音書に記されていない他の出来事もあったのでしょう。そしてそれは40日間続きました。
そしてイエスさまはその間、ただ復活のからだを弟子たちに見せただけでなく、「神の国」のことを語られたとあります。イエスさまが死なれる前、弟子たちはイエスさまがイスラエルを復興させ、王となって支配されることを期待していました。しかしイエスさまの十字架を経験した今、彼らにとっての「神の国」の意味合いは違うものとなったはずです。そんな弟子たちにイエスさまは、本当の意味での神の国について40日間みっちりと集中講義されたのです。本当の意味での神の国、それは福音によって成就するものでした。イエスさまの十字架の贖い、復活の信仰によってまず私たちの中に神の国が生まれ、そして信じる私たちが集まる共同体、つまり教会に神の国が広がり、それは歴史も地理も、時間さえも超え、普遍的に永遠に続きます。おそらくイエスさまはそんなことを40日間弟子たちに語られたのでしょう。

4~5節 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
「使徒たちと一緒にいる時」とあります。この一緒にいるという言葉は、「食事を共にしている」とも訳せるようです。実際、口語訳や新共同訳では、「食事を共にしていた時」と訳しています。イエスさまは、弟子たちと食事をするのが大好きで、福音書の中には、随所に食卓の場面ができます。また復活のイエスさまは、弟子たちの前で魚を食べて見せたり、湖畔で自ら朝ごはんの支度をしてくださったりしました。イエスさまは食事を通して弟子たちと交わり、語らうことをとても大切にしていたのです。イエスさまは弟子たちと和やかに団らんしながら大事なことを話されました。それは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」ということです。「父の約束」は何でしょうか?それは「聖霊によるバプテスマを授けられる」という約束です。イエスさまが去った後、「聖霊」が与えられるという約束は、イエス様が十字架にかかられる前、何度も弟子たちに話しておられたことです。そして、イエスさまがまさに地上を去ろうとしているこの時に、もう一度その約束を弟子たちに確認されました。
弟子たちは「この父の約束」を「イスラエル再興」のことだと思ったのでしょう。そしてすかさず聞くのです。6節後半「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」彼らはここからどうしても抜け出せないようです。十字架にかけられるイエスさまを見て、いったんはあきらめていた国の再興。でもイエスさまは復活された。今こそ、ローマの支配から我々を救い、イスラエル民族の独立を果たしてくださるのではないか、イエスさまは今度こそイスラエルにとっての救世主、メシヤとして立ち上がってくださるのではないかと彼らは期待したのです。
ところがイエスさまは、イスラエルの復興を頭から否定するのではなく、やんわりと言われました。7「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」そして続く8節で、イエスさまが再興しようとしておられる「神の国」は、この世のものではなく、霊的なものだということ、また人の野心や野望によるものではなく、聖なる御霊によるものだということ、そしてその国は、小さな一国の復興に留まらず、もっと大きな、世界規模のものだと語られたのです。

8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
イスラエルの再興などというちっぽけなものではない、それは「神の国」の復興で、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てまでも広がり、世界中を取り込んでいくものなのだと、そう言ったのです。そしてそれは、あなたたちから始まる!あなたたちが聖霊によって力を受けるところから始まるのだと。使徒たちは、何の教養も身分もないちっぽけな存在でした。しかも弱い。イエスさまの十字架を前に散り散りに逃げてしまったような人たちです。でも聖霊があなたがたに臨まれるとき、力を受ける。そして彼らの内に芽生えた神の国は、教会を建て上げ、それは世界中に広がって行くのだと。そしてその神の国の福音を携えて、十字架と復活の証人として出て行くのはあなたたちなのだとイエスさまは言われたのです。

9節~10前半 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。
イエスさまは、「あなたたちは力を受けるのだよ、そして世界に出て行く。キリストの復活の証人となるのだ!」とわくわくするようなことをおっしゃってくださった。でも弟子たちが見守る中、イエスさまは天に上げられ、雲がイエスさまを包み、見えなくなってしまった…。どんなに心細かったことでしょうか。優しく、力強く、イエスさまがそばにおられるだけで、大丈夫と思えるそんなイエスさまが、復活されて以前のようにいっしょにいてくださったのに。そして今の今まで、いっしょにご飯を食べて、自分たちを励ましてくださっていたのに、再びいなくなってしまったのです。彼らはそんな現実を受け入れられなくて、ただ呆然と天を見つめているのでした。
私はふと、長女を産んだ時のことを思い出しました。私と赤ちゃんが退院した後、義理の母と交代して、実家の母が1週間ぐらいお手伝いに来てくれました。私にとっては初めての子どもです。何をするのもおっかなびっくり、ぎこちない。そんなときに実家の母の存在が、どんなありがたかったことか。こんな風にお風呂に入れるんだよ。お勝手のことはお母さんがするから、あなたは子どもの世話だけしてなさい。赤ちゃんが寝る時には自分も寝ないともたないよ。そう言って色々教えてくれて、助けてくれました。1週間があっという間でした。そして母が帰るとき、私はどんなに心細かったか…。おいて行かれてしまう。まだ何にもわからないのに、こんな小さな赤ちゃんをどうやって一人で育てればいいの。帰っていく母を見送りながら、涙が込み上げてきたことを今でも覚えています。
弟子たちもそんな心境だったのかもしれません。大きなミッションが与えられた。イエスさまといっしょなら何でもできる気がしてた。でも、そのイエスさまは天に上げられ、見えなくなってしまった。与えられたミッションの重責を思いながら、弟子たちはただぼーっと空を見上げるしかなかったのでしょう。

10節後半~11節 「すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
弟子たちは呆然と空を見上げているので気づきませんでしたが、二人の御使いが弟子たちの傍らに立っていました。そして弟子たちを励まします。「どうしていつまでも天を見上げて突っ立っているのですか。あなたたちにはやるべきことがあるんでしょう。イエスさまから託されたんでしょう。あなたたちだけが地上に取り残されたわけではありません。助け主聖霊が与えられるのです。さあ、前を見なさい。そして自分に与えられた仕事に取り掛かりなさい。復活の証人として福音を伝えるのです。そして福音が世界に満ちたときに、イエスさまは再び、今あなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになるのですよ。」
使徒の働きはこうして始まりました。一見イエスさまという主人公がいなくなってしまったところで始まったように見えるこの書です。けれども再び聖霊によって息を吹き返し、新たに始まっていく、そんな期待感もあります。イエスさまは見えなくなりましたが、死んだのではありません。生きて、天に昇られ、今も神の右に座しておられるのです。今朝もう一度使徒信条を思い出しましょう。「三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座し賜えり」、イエスさまは天で生きておられる。そのことを忘れてはいけません。イエスさまは天で何をしておられるのでしょうか。神の右の座でふんぞりかえって、おー、みんながんばっているなと傍観しているのですか?そうではありません。今も働いていらっしゃいます。王として主権者としてこの世界を統べ治めていらっしゃります。また祭司として、罪深い私たちを父なる神にとりなしてくださっています。「私はこの罪人のためにも死んだのだ」とおっしゃってくださっています。また預言者として、今もみことばと聖霊によって私たちに語っておられるのです。そうです。イエスさまは今も天において働いておられます。そしてそんなイエスさまと私たちをつないでくださるのは聖霊です。聖霊によって私たちは天に昇られたイエスさまと働くことができるのです。ですから心細くはありません。いつも聖霊によってイエスさまがいっしょです。一人でいる時も、学校にいる時も、仕事をしているときも、家庭にいる時もイエスさまがいつも一緒です。聖霊が与えられるとは、そういうことなのです。
さあ、私たちも呆然とイエスさまの残像ばかりを追っていないで、天を見上げましょう。「使徒の働き」は「派遣された者の働き」です。それは救われた私たちの働きでもあります。私たちもイエスさまの十字架と復活の証人として派遣されたのです。イエスさまは再びいらっしゃいます。「いつ」とか「どんな時」ということはわからない。イエスさまさえ知らされていない、父なる神さまだけが知るその時に、イエスさまは、もう一度この地上にいらっしゃいます。その時まで私たちは希望を持って天を見つめ、神の右の座で私たちとともに働いておられるイエスさまを見上げて歩み続けましょう。未練がましく天を見つめるのではなく、期待に満ちた目で、しっかりと天を見上げて、雄々しく歩み続けましょう。そして来たるべき日には、やはり天を見上げ、喜んでイエスさまをお迎えしたいと思います。

天におられ、今も神の右に座しておられるイエス・キリストの父なる神さま。み名を崇めます。今日のみ言葉をありがとうございます。イエスさまは天に上げられましたが、代わりに私たちに聖霊をお与えになりました。私たちはそのことによって、力を与えられ、強くされ、こうして今も生かされています。私たちにはミッションがあります。私たちはあなたに派遣されています。あなたに福音を託された者として、まず私たちが福音に生き、福音を宣べ伝えて行くことができますように。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。
説教者:齋藤千恵子

コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...