スキップしてメイン コンテンツに移動

祝福しながら



「祝福しながら」(ルカ
24:44-53

齋藤五十三

【新改訳2017
44
そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、48 あなたがたは、これらのことの証人となります。49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51
そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、53 いつも宮にいて神をほめたたえていた

 

 本日は、イエス・キリストが天に昇られた昇天を記念する主の日です。

 三週間前に千恵子牧師が使徒11-11節を通し、天に上げられたイエスさまと、それを見つめる私たちの生き方について語ってくださいました。今朝はそのアナザーストーリー、もう一つの短い箇所に目を留めてゆきます。

 

 お祈りします。

 私たちを神の子としてくださった天のお父様、感謝します。これよりイエスさまの言葉、神の言葉に耳を傾けます。どうかひと時、聖霊が豊かに働き私たちの心を照らし、あなたの御旨の広さ、長さ、高さ、深さを悟らせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!

 

 51-53

 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 

 この箇所を読んで、私はすぐに素朴な疑問を抱きました。主イエスが離れていかれたのに弟子たちはなぜ喜んでいるのだろう。しかも普通の喜びではない。「大きな」喜びでエルサレムに戻り、その喜びが継続していく、そんな書き味です。キリストが去って行かれたのに、喜びは去るどころか、いよいよ豊かにされていく。なぜ。本日はこの問いの答えを探しながら、神の言葉に向き合っていきます。

 

1.彼らの心を開いて

 その問いに対する一つ目のヒントが45節です。「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。そう、主は弟子たちの心を開いたのです。そして聖書、神の言葉を悟らせていったのでした。

 振り返るとイエスさまは、これまでも度々弟子たちの心を開き、神の言葉を知らせようとして来たのを思い出します。しかし、弟子たちの成長はカタツムリのように緩慢でした。そう、子育てのようにゆっくり、そして、もどかしい、三歩進んで二歩下がるような弟子たちの歩みでした。「まだ、悟らないのですか」という主の嘆きを、何度か福音書の中で目にしたのを思い出します。

 でも、十字架・復活を経た今、弟子の教育はその総仕上げに入っていました。45節で、主によって心を開いていただいた弟子たちには、目からウロコのように見えて来たことがあったのです。それは起こったことは、すべて御言葉の通りであったのだと。そう。気が付けば、イエスさまについて「モーセと預言者たちの書と詩篇」、すなわち旧約に記されていることはすべて成就していた(44節)。46節も記すように、キリストの苦しみもよみがえりも、すべては神の言葉に記されていたことだったのでした。そうです。神の言葉は一つも間違えることなく実現していた。流れゆく歴史とは、偶然の積み重ねではなく、実は神の約束、神の言葉が成就していく旅路であったのでした。神の言葉は確かに実現していく。この確かさは弟子たちの心に、深い安心を与えたことであったでしょう。

 御言葉の確かさ、それに対して私たち人というものは、何と揺らぎやすいのでしょう。「牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と十字架前夜に言い放ったペテロが、いともたやすく主を知らないと三度口にし、自分たちも決して躓かないと胸を張った弟子たちも、十字架を前に蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。いや、そうやって上から目線で物を言うかのような私もまた、かつて心身の不調で宣教師を辞した者であったことを思う時に、人と言う者の揺らぎやすさを思わずにはいられないのです。やはり、確かで揺るぎないのは神の言葉、神の約束。そんなことを思う時に、私たちもまたイエスさまに「主よ、私たちの心も開いてください」と祈りたいと思います。まだまだ聖書の中に見えていない宝、神の約束があるはずです。

 確信をもって言えるのはこのことです。これまでも、これからも、すべては神の言葉の通りに時代は動いていく。たとえコロナのトンネルの中にあっても、神の言葉は間違いなく私たちの行く道を照らし続ける。そのことに深い安心、静かで、しかし大きな喜びを感じたいと思います。私たちは先の見えない道を歩いているのではない。すべては神の言葉の通りに導かれていく。

 

2.約束への期待

 さて、弟子たちの大きな喜びの第二のヒントは、49節に見出すことができると思います。

 

「見よ、わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(49)

 

 「都にとどまれ」と命じられ、弟子たちはその通りにエルサレムに戻って行きます。それは天の父が約束された聖霊を待つためだったのですが、その期待感、わくわくする思いこそが、喜びの源であったと信じます。来週は、聖霊降臨を祝うペンテコステです。弟子たちがエルサレムで聖霊を待ったように、私たちもこの一週間「待つ」という姿勢を大切にしたいと願います。とどまって待つ、ここにも神の言葉の実現に期待する喜びの姿勢があると言えるでしょう。

 皆さんもこれまで経験して来られたことがあったと思いますが、信仰生活には時折、感動を覚える瞬間があります。すると気がはやり、「あれをしたい」「これをしよう」と動き回りたくもなるでしょう。嬉しいのですから、すぐに何かをしたいと思う、それは自然な衝動です。

 弟子たちもまた、主イエスの大きな祝福を受け、それは心揺さぶられる感動であったと思います。しかし、そんな弟子たちに主が「とどまって」約束を待つよう求めていった。このことは、示唆に富むことだと思いました。そう、喜びの余り、思いばかりが先走り空回りすることがないように。信仰者が豊かな実を結ぶにはまず、いと高き所、神によって力を着せていただきなさいと 。実り多き働きをする力は、私たちの内側にあるのではありません。上から、御霊によってもたらされていくのです。

 そう、「いと高き所から下る聖霊によって、力を着せていただける」。そのことを祈りながら、期待しながら、自分の思いではなく、聖霊によって動かされる日を待つ私たちでありたいと願います。私たち新船橋キリスト教会も、御霊によって力を着せられるなら、このコロナの時代にあっても、豊かな実を結ぶことができる。きっと出来る。主は、そのように励ましておられます。

 

3.祝福しながら

 さて最後のヒントは次の御言葉です。

 

 50-51節「それからイエスは、弟子たちをベタニヤの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」

 

 手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられていく。まことに大きい、壮大なイエスさまの祝福でした。何か旧約の大祭司の祝福をも彷彿とさせるような荘厳さ、いや、それ以上の輝きであったと思います。

 私はここを読みながら、フト気づいたことがあったのです。イエスさまは手を上げて祝福し、天に帰るのですが、その後、どこにも手を下ろしたとは記されていないのです。手を上げたまま、祝福しながらイエスさまは天に戻っていかれる。そしておそらくは、今も手を上げながら、天で見つめておられる。この祝福に包まれているとなれば、弟子たちの喜びの大きさも合点がいく所であろうと思います。

 聖書は、主イエスが天に昇って後、祝福を終え、手を下ろしたとは記していない。私は今もキリストは王なる大祭司として祈りの手を上げ続け、その祝福が私たちを包んでいると信じます。これがもし、人の祈り手による祝福ならば、いつかは手が重くなり、祈りも終わってゆくでしょう。出エジプト17章、イスラエルがアマレクと戦った折り、モーセが自力では祈りの手を上げ続けることが出来なかったことを思い出します。しかし、世の終わりまで私たちと共にいる主イエスの祈りの手は、決して下げられることはないでしょう。それどころか、ステパノ殉教の際には「ステパノ頑張れ」とばかりに天で立ち上がったように、その祝福の手は、苦難の道を歩む私たちを支え続けていくのです。「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなし」の祈りをしていると、ヘブル725節が約束しているとおりです。

 そう。世の終わりまで、主イエスの祝福の祈りの手は下におりることなく私たちを覆っている。今日も明日も変わらずに私たちを包み、コロナの時代を生きる私たちをも豊かに支え続けていくのです。

 かつて宣教師だった頃、訪問先の支援教会で知り合い親しくなった、立田君という青年がいます。今はもう結婚されて家庭を持っていますが、彼は子どもの頃から教会に通い始めた教会学校の実りで、洗礼を受けたのは中学生の時でした。その立田君、洗礼前に迷ったそうです。イエスさまの十字架も素晴らしいし、復活も分かる。でも、なぜかイエスさまは2000年前のお方で、今は遠くにおられるように思え、洗礼の決断が出来なかった。イエスさまは本当に自分と共におられるのだろうかと。牧師はそのことを聞いて、背後で彼のために祈ったそうです。そんなある日、礼拝の後に立田君が満面の笑みを浮かべて牧師に洗礼を申し出たのでした。「イエスさまが私と共にいると分かった」というのです。「何があったの」と牧師が尋ねると、「一週間前の礼拝の祝祷で分かった」とのことでした。祝福の祈りに包まれ、会堂を出た時に、「ああ、この祝福に包まれて自分は一週を歩むんだ」と思ったら感動がこみ上げ、しかも「イエスさまが共にいる」との実感が、家でも学校でも離れることがなかったという。共にいる主イエスの祝福が、「僕は洗礼を受けます」と、彼を決断に導いたのでした。

 そうです。今も主イエスの両腕は、祝福を注ぎながら私たちを包んでいる。それに気づいた人の心には喜びが泉のように溢れて賛美と礼拝に導かれるのです。

 祝福の祈りから賛美と礼拝へ。これはルカ福音書の53節のラストシーンと重なります。弟子たちは「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」

 

結び

 皆さん、このルカ福音書の結びは、実は結びに見えても本当は結びでないのです。これはオープンエンディングというか、開かれている。続きがあるのです。もちろん直接の続きは使徒の働きですが、それだけではない。私たちもまた、この続きを綴るようにと招かれています。イエス・キリストの祝福に包まれ、弟子たちが賛美と祈りを続けたように、この礼拝の交わりに加わるようにと、私たちも招かれているのです。

 今はそれぞれの家庭での礼拝です。でも安心してください。会堂では、わずか数人の礼拝ながらも、いつも最後に千恵子牧師が、新船橋キリスト教会のすべての兄弟姉妹に!と、力強い祝祷を捧げています。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しい交わりが、今週もあなたを包み続けていく。主の祝福の手が決して下ろされることはない。この祝福に包まれながら、私たちもまた53節の礼拝の輪に加わっていきたいと願います。そのように礼拝し、祈り、歌いながら、次週の聖霊降臨、さらなる喜びを待ち望みたいと願います。お祈りします。

 

天のお父様、感謝します。この豊かなキリストの祝福に包まれる中、今週の歩みにおいて豊かな喜びがあふれ、御霊の実を結ばせてください。世の終わりまで共におられる主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...