「キリスト者と呼ばれる」
使徒の働き 11:19-26
教会の記録によると、松平先生の新船橋キリスト教会での最後のメッセージは使徒の働き11章18節まででした。今週からその続きの聖書箇所をご一緒に見て行きたいと思います。
天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。季節は初夏へと移っていきますが、私たちの生活は、新型コロナウイルスの影響の中で、今も止まったままです。しかし、このようなご時世の中にあっても、あなたは変わらず、この世界を治めておられ、愛のまなざしを持って私たちを見ておられるので感謝です。今日も私たちは、それぞれのところにあって礼拝をささげます。どうぞ主が、聖霊様によってそれぞれの場所にご臨在下さり、私たちの礼拝を導き、喜んでお受け取り下さいますようにお願い致します。感謝しつつ、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
話しはステパノの殉教にさかのぼります。使徒の働き7章でステパノは、当時の宗教指導者たちを前に、神の子救い主イエス・キリストを殺したのはあなたがたです!と言わんばかりの鋭いメッセージを語って、彼らの怒りを買い殺されました。使徒たちに聖霊が降って以降、彼らは大胆にイエス・キリストの十字架と復活を人々に伝え、一度の説教で何千人もの人が回心し、バプテスマを受け、彼らは喜びつついつも集まり、「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをして」(2:42)いました。そして「民全体から好意を持たれていた」(2:47)…はずだったのです。ところがステパノの事件をきっかけに迫害が始まりました。そして多くの信者は、自分と家族のいのちを守るために、エルサレムを離れ、散らされていったのです。人々はイスラエルの北海岸にあるフェニキア、地中海の島キプロス、現在のトルコに当たるアンティオキアまで散らされました。
そして今日の舞台は、このアンティオキアです。アンティオキアは当時の世界三大都市のうちの一つで、ローマ、アレキサンドリアに続く第三の都市です。人口は約50万人。多くの外国人も住む国際都市でした。ただ多くの大都会がそうであるように、歓楽街が立ち並び、性道徳は乱れ、それは土着の宗教も例外ではなく、祭祀において売春を行うというようないわゆる神殿娼婦の習慣があったと言われます。そしてこの散らされたユダヤ人たち(ディアスポラのユダヤ人)は、そのような荒廃した都市に住みながらも、信仰を失うことなく主を礼拝し証していました。
そうです。彼らは伝道熱心だったのです。ところがユダヤ人以外の外国人にはだれにもみことばを語りませんでした。えっ、ちょっと待ってと思う方もおられるでしょう。8章では、ピリポがエチオピアの宦官に伝道しているじゃない。それに10章では、カイサリアのコルネリウスにも伝道したよね。そのことによって異邦人伝道の扉が開いたんじゃなかったのと。確かにそうです。しかしこれらの人たちは、外国人ではあったけれども、もともとイスラエルの神を信仰し、「神を敬う人」と呼ばれる人々だったのです。つまりユダヤ教というステップをすでに踏んでおり、その上でユダヤ教が待望しているメシヤを探求していた人々でした。ということは、そのステップを通り越しての外国人伝道は、実質未だ全くなされていなかったと言えます。
ところが「彼らの中にいたキプロス人とクレネ人」はこの暗黙の了解を知ってか知らずしてか、ついついユダヤ的背景のないギリシア人たちに伝道してしまいました。これは掟破りでした。というより、ユダヤ的背景のない人への伝道は当時ありえないことだったのです。えっ?そんな発想あったの?という感じでしょう。先ほども少し説明したように、このキプロス人やクレネ人というのは外国生まれのユダヤ人だったと思われます。ところが育った環境もあってギリシア語が堪能で、ギリシア文化にも精通していたと言えます。ですからついついまわりにいるギリシア人たちに伝道してしまったのです。そして意外にも彼らは素直に福音に聞き、心を開いて罪を悔い改め、イエスこそ救い主だと信じてしまいました。そして「主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」のです。これは驚くべきことでした。ユダヤ的背景がなくてもイエスさまを信じられるんだと、伝えた当の本人たちも驚きだったことでしょう。こうしてアンティオキアでは、多くの人が救われました。
事の発端は迫害でした。「宣教」という観点からするとどう見てもマイナスのことです。ところがこのマイナスと思えることを通してクリスチャンたちが世界に散らされ、その散らされた場所で福音が広められ、今まで対象外だった人々に福音が伝わり、彼らが救われ、しかも大勢の人が救われ、教会が次々と生まれたのです。
私たちはここに希望を見ます。4月に入って緊急事態宣言が発出し、定例集会や昼食会だけでなく、私たちが何よりも大事にしてきた主日礼拝でさえ集まれなくなってしまいました。私たちはがっかりしました。だいたい古い世代の私たちは、主日礼拝自粛なんていう発想はなかったのです。そしてこのことは、どう考えてもマイナス、宣教の後退と思われることです。ところがどうでしょうか。会堂に集まれないことをきっかけに、多くの教会はインターネット上で礼拝を公開し始めました。今まで礼拝というものは、信仰のある人、会堂まで足を運ぶことのできる熱心な求道者のものでした。またあらゆる条件、身体的条件、時間的条件、交通手段などの条件がそろっている人のものだったのです。ところが今はどうでしょうか。今まで条件がそろわず、教会で礼拝できなかった人、またそれほど熱心がなかった人も、パソコンやスマホを開けて、共に礼拝しているのです。そう、今まではまさに「ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばが語られていなかった」状態でした。けれどもこのマイナスにしか思えない状況の中で、福音が意図せず広がっているのです。神さまのなさることは、いつも私たちの固定観念を打ち破るものですね。
22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
全くの異教の地で福音が広まり、全く信仰の下地のない人々が救われ、教会を形成しようとしていると聞いたエルサレム教会は、すぐにバルナバをアンティオキアに遣わしました。エルサレム教会は、自分たちの管理が行き届かないところで、正統的な信仰が失われ、彼らが異端に走ってしまうことを懸念したのでしょう。そしてバルナバに様子を見に行かせたのです。
バルナバは初期のエルサレム教会の中心人物でした。「慰めの子」と呼ばれているように、人にやさしい人格者でした。24節にあるように、「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人」だったのです。またホスピタリティーあふれる人で、自分の田畑を売ってその代金をささげ、教会の福祉し尽力しました。また、迫害者サウロが回心した後、彼のことを怖がるエルサレム教会に紹介したのもバルナバでした。そして好都合なことに、彼はキプロス出身の外国生まれのユダヤ人だったのです。異邦の地アンティオキアに派遣するにはもってこいの人物です。
バルナバはアンティオキアに到着し、「神の恵み」を見て喜びました。「神の恵み」というのは、人の努力や功績によらず、神が下さった祝福のことです。バルナバは救われた大勢の人々に「神の恵み」を見たのです。彼はアンティオキアの群れに、「心を保っていつも主にとどまっているように」と励ましました。キプロスという異郷の地で信仰を保ってきたバルナバだからわかるのです。異郷の地で心を堅く保っていつも主にとどまるということは、そんな簡単なことではありません。それはこの日本という地で信仰を守っている私たちも体験的に知っています。日本のクリスチャン人口は相変わらず1パーセントに届かない。こうして会堂での礼拝を休止して、家庭礼拝に切り替えて思うことは、家族でただ一人信仰を守っている方が多いということです。ひとりで説教を読み、ひとりで賛美を口ずさんで礼拝を守っている姿を想像すると、みなさんすごいなと思います。クリスチャンとして異教の地で生きることは戦いの連続です。偶像礼拝はしない、日曜日は最優先で礼拝に行く、決して豊かでない中で毎月決めただけ献金をする、あらゆる不正には手を染めない、いじめには加わらない、猥談にも加わらない。…日本の国で心を堅く保っていつも主にとどまるというのはなんて難しいのでしょう。ですからバルナバは彼らを励ましました。励ましが必要だからです。
25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
こうしてバルナバは教会の基礎をつくることに着手しました。おそらく1年ぐらいは一人で牧会し、信徒教育をしたのでしょう。初期の信徒教育は非常に重要です。教会の体質を作るからです。しかしどんどん新しい人が加わる中で、バルナバはこれは一人では手に負えないと判断しました。助けてくれる人が必要だと。こうして彼はサウロを呼びに行ったのです。バルナバはパウロが異邦人伝道に召されていたことを知っていましたし、彼の豊かな神学的知識、そして教える賜物についてもよくわかっていました。ですから何としてもアンティオキアに来てもらって、教会の基礎固めを手伝ってもらいたかったのです。そしてバルナバは、自ら160㎞も離れたタルソまでサウロを迎えに行きました。いえ、彼がどこにいるのか捜すところから始めたので、思ったより時間がかかったことでしょう。とにかくパウロをアンティオキアに連れてきて、共に1年間、人々を教え教会の基礎を固めたのです。彼らは何の下地もない人々でしたから、なかなか骨だったと思いますが、何の下地もない分まっさらなキャンパスに絵を描くように、素直にみことばを吸収し、イエスさまを主として生きることの何たるかを学んだのでしょう。いつの間にか、彼らはまわりの人から「キリスト者」つまり「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。自称したのではありません。クリスチャンではない人が、彼らにつけたニックネームが「キリスト者」だったのです。意味は「キリストに属する者たち」「キリスト党」「キリスト派」もっというと「キリスト狂」「キリスト親衛隊」「キリストお宅」です。別に尊敬を持ってこう呼んだわけではないのです。むしろ侮蔑のニュアンスを含んいました。「あの人たちは何者?」「ああ、あの人たちはキリスト者だよ。口を開けばキリスト、キリストって、まったく融通の利かない、くそ真面目な奴らさ」という感じでしょうか。
私はここで一つのエピソードを思い出しました。私は中学生のころ水泳部でした。まじめな部員でよく練習し、成績も悪くなかったのですが、いつも日曜日の礼拝と試合が重なるのが悩ましいところでした。牧師である父も母も、日曜日は礼拝を優先させるようにとは強く言わなかったのですが、私はまだ洗礼は受けていなかったものの、小学校3年生のときにすでにイエスさまを信じる決心をしていましたし、イエスさまも教会も大好きでしたから、日曜日に礼拝を休みたくなかったのです。ですから日曜日の試合当日、私は妥協策として、礼拝の前にやっている教会学校だけ出て、その後の礼拝はお休みして大急ぎで試合会場に駆けつけることにしました。ところが、私が到着する頃には、私の出場種目はすでに終わっていたのでした。先輩はわたしを見るなり言いました。「ああ、キリストさんがいらっしゃった」と。キリストさん…。今思うと、当時のクリスチャンが人々に「キリスト者」と呼ばれたというのはこういう感じだったのかしらと思うのですがいかがでしょうか。ちなみに最初の試合でこのような経験をした私はこの後どうしたと思いますか?「どうせ間に合わないならもう試合はいいや、今後は礼拝行こっ!」と決めてしまったのです。
信仰生活が長い方なら、きっと同じような経験をしたことがあるでしょう。仕方ないです。私たちは日本国民である以上に天国民ですから、天国の価値観で生きています。生きる目的も違うのです。世の中から浮いてしまってもある意味仕方ないです。私たちはともすると、まわりの人に「さすがクリスチャン」と言われることが証しになるのだと思いがちです。けれども必ずしもそうとは言えません。アンティオキア教会は爆発的に成長しましたが、彼らは、まわりの人に「さすが!」とは言われていなかったでしょう。そして実はイエスさまも言われませんでした。イザヤ書では苦難のしもべとしてのイエスが描かれています。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」イエスさまを一生懸命愛すると、イエスさまのようになってきます。そしてまわりの人々からもイエスさまのように扱われるのです。私たちは「キリスト者」です。またそう呼ばれることは私たちにとって勲章です。さあ、私たちは今週も「キリスト者」として胸を張って生きていきましょう。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を賛美します。初代教会は、迫害を通して散らされ、散らされた場所で福音を宣べ伝え、多くの教会が誕生しました。そして「地の果てまで」とイエスさまが言われたように、東の果てに住む私たちにも福音が伝えられ、救われ、こうして教会に連なっています。どうぞ私たちもこの異教の地にあって、大胆に「キリスト者」として生きていくことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
説教者:齋藤千恵子
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