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どうしてこわがるのか


「どうしてこわがるのか」
マルコの福音書4:35~41

新型コロナウイルスが武漢で猛威を振る始めたのが1月末のことでした。その頃はまだ多くの日本人は、対岸の火事ぐらいにしか受け止めていなかったのですが、その後数か月、いや数週間で恐ろしい勢いで世界中に感染が拡大しました。特にイタリアでのパンデミックは世界を震撼とさせました。そして3月に入ると、日本でも多くの感染者が出ました。身近な芸能人が死んだことによって、これは他人事ではないと私たちは不安と恐れに包まれたのでした。
そしてそのころ、私は一つのみことばに励まされていました。それは「どうしてそんなに恐がるのです。信仰がないのはどうしたことです。」とのみことばでした。その聖書箇所を確かめたくて聖書を開きましたが、この「どうしてそんなに?」というフレーズがないのです。なぜかと思ったら、2017年版では「そんなに」の部分がなくて「どうして怖がるのですか」になっていたのでした。とにかく私はこのみことばでずっと励まされてきたので、今日はこの個所から説教させていただくことにしました。お祈り致します。

この世界をその主権をもって統べ治めておられる天のお父さま。あなたの尊いお名前をこころから賛美致します。緊急事態宣言が延長され、私たちは今も不自由な生活を強いられ、今まで経験したことのないような不安と恐れの中で生活しております。けれども私たちは、この世界を大きな御手をもって治めておられる主を知っています。そして今日も主権者なる主のみことばに聞き、励ましを受け、またみことばに従うために、礼拝しております。どうぞ、みことばによって私たちを強めてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

35さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
その日イエスさまは一日群衆にお話しをされました。あまりにも大勢の人が押しかけたので、イエスさまは小舟に乗って湖から岸辺にいる多くの人々に向かって話しをしたのです。これはイエスさまが好まれた説教のステージでした。マイクや拡声器など音響設備の何もない時代です。おそらく湖からの風がイエスさまの声を遠く、広く岸辺まで運んでくれたのでしょう。そして一日お話しをされて夕方になったので、イエスさまは「さあ、もう休もう!」…とは言われなかった。なんと「向こう岸へ渡ろう!」と言われたのです。実は向こう岸には悪霊に憑かれている人がいて、イエスさまの助けを必要としていました。5章2節を見ると、「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出てきてイエスを迎えた」とあります。すぐでした。ですからイエスさまは、何としても今晩中にガリラヤ湖を渡ってしまいたかったのです。
 けれどもそのようなイエスさまのご計画は、おそらく弟子たちには知らされていなかったと思います。それでも弟子たちは、イエスさまがそうおっしゃるならと、そのままイエスさまを舟にお乗せして向こう岸に向かったのです。弟子たちのいいところですね。理解できなくても納得できなくても、イエスさまがそうおっしゃるならと従う姿が福音書の各所で見られます。

37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
このようなガリラヤ湖の突風はよくあることなのでしょうが、予測のつくものではなかったようです。予測できていたら舟を扱うことではプロの、もと漁師である弟子たちは、無理に出航しなかったでしょう。突風に舟は大揺れに揺れ、波をかぶり、舟の中は水浸しになりました。いや水浸しどころか舟は水でいっぱいになったとあります。弟子たちは命の危険を感じました。これはまずいことになった。舟が沈むかもしれない!そうなって初めて弟子たちはイエスさまのことを思い出しました。「イエスさまはどこだ?」「イエスさまが舟を出せと言ったのだ!」「こんな時に、いったいどこで何をしているんだ!」とイエスを探し始めました。

38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
弟子たちはイエスさまを見つけました。なんと舟の後ろの方で上着か何かをくるくると巻いてそれを枕にして寝ておられたのです。彼らは唖然としたことでしょう。そして次第に怒りがこみあげてきました。「先生、わたしたちが死んでも、かまわないのですか!?」と気色ばんでイエスさまを非難したのです。
ある人はイエスさまは狸寝入りをしていたのではないか、こんな嵐で寝ていられるわけがないと言います。そうして弟子たちの信仰を試したのだというのです。果たしてそうでしょうか。聖書には書いていないのでわかりません。書いてないことは無理な解釈をしない方がいいでしょう。私も寝つきのいい人なのでわかるのですが、本当に疲れているときは気絶するように一瞬で眠りに入り、寝入ってからの1~2時間ほどは本当に眠りが深くて、ちょっとやそっとでは目が覚めません。実は主人のいびきは地鳴りのように大きいのですが、先にわたしの方が寝てしまえば全く気にならないし、目を覚ますこともありません。イエスさまは舟に乗り込んですぐに寝始めたのでしょう。一日話しをして疲れておられたのと、何しろ向こう岸に着いたらすぐに悪霊との対決が待っています。私たちと同じ生身の身体を持つイエスさま、今のうちに休んでおかなければと考えるのは当然でしょう。そして一瞬で寝落ちしたと考えるのはそれほど無理なことではありません。
それでは弟子たちのこの反応を皆さんどう思われるでしょうか。私たちはイエスさまがどういうお方か知っているので、むしろ弟子たちに対して「なにもそこまで言わなくても…」と思います。実はマタイやルカにも同じ記事がありますが、もうちょっと丁寧な言い方をしています。マタイでは「主よ、助けてください。わたしたちは死んでしまいます。」と言っていますし、ルカでは「先生、先生、私たちは死んでしまいます。」となっています。どちらかというとイエスさまに助けを請う言い方です。どうしてマルコだけこんな無礼な言い方なんでしょうか。ある注解者は、マタイやルカに比べると、マルコは一番初期に書かれたので、イエスさまに対する弟子たちの態度、ことば遣いが、より当時のまま描写されていると言っています。マタイやルカが福音書を記したときには、私たちと同じで、すでにイエス・キリストというお方のイメージが出来上がっていたために、その言葉遣いに尊敬が現れているのではないかというのです。つまり当初の弟子たちを含む人々は、マルコが記しているようにイエスを軽んじ、イエスに対して無礼で、反抗的であったということです。
とにかく弟子たちの態度は非常に失礼です。しかしながら、私たちは弟子たちに同情的な見方もできるでしょう。例えば、深刻な悩みや不安があって眠れない夜、同じ状況にあるのにぐっすり隣で眠っている人を見ると腹が立ちませんか?人がこんなに悩んでいるのに片や高いびきで寝ている、なんて神経の図太い奴だとイライラしても致し方ありません。この場合、舟を出そうと言ったのはイエスさま、責任をとってよと言いたくもなるでしょう。
またこの時の弟子たちはちょっとしたパニック状態です。いきなりの突風、波が逆巻き舟の中に容赦なく流れ込んでくる。舟の中に入った水を、弟子たちが総動員で汲み出しながら、やばいこれは本当に沈むかも!もと漁師だからこその感が働き、事態の深刻さがよくわかる。そしてパニックに陥っていったのではないでしょうか。
パニックの心理というものがあるようです。パニックの中でデマが流れ、思考能力を失った人々が奇異な行動をするのは災害時によくあることです。今回のコロナ騒ぎでもマスクや消毒薬の買い占めどころか、トイレットペーパーや紙おむつが店頭から姿を消したことは記憶に新しいところです。また共通の敵を作って攻撃する、魔女狩りのようなことをするのもパニック時に見られる群集心理のようです。このように弟子たちはパニックに陥り、その批判はイエスさまに集中しました。

39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
 イエスさまはまず、起き上がって弟子たちのパニックのもとを取り除いてくださいました。風に対して、また湖に対して父親が子どもを叱るように「黙れ!静まれ!」と言ったのです。英語の聖書(NKJ)を見るともっと優しい印象を受けます。“Peace! Be still!” 「平安に!落ち着きなさい!」という感じでしょうか。するとまるで親に叱られ、しゅんとして悪さをやめる子どものように、風は止んですっかり凪になりました。それは風や湖だけでなく、パニックになっている弟子たちに語られたかのようです。弟子たちに「落ち着きなさい、心を静めなさい。」そう言われているようです。

40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
マルコの福音書にはアクティブなイエスさまが描かれています。イエスの教えよりも実際にイエスさまがなされたことが次々と躍動感をもって記されているのです。この4章に至るまでも、病気の人を癒したり、悪霊に憑かれた人を解放してあげたり、いろいろな奇蹟が書かれています。ところが弟子たちは、そばでそんなイエスさまを見ながらも、イエスさまがどういうお方かというところまで理解が追いついていなかったのでしょう。
彼らが理解していなかったことは三つ。一つはイエスさまが力ある「神の子」だということ。病気を治したり、悪霊を追い出したりするだけじゃない、自然界をも従わせることができる権威と大能を持つ神の子だということがわかっていなかった。そして二つ目は、その神の子イエスさまが共におられるとはどういうことなのかがわかっていませんでした。力あるイエスさま、自然界をも支配される主権者イエスさまが共におられれば怖いものは何もないはず。イエスさまが安心して寝ておられる舟が沈むわけがない、弟子たちはそれが理解できていなかったのです。そしてもう一つ、イエスさまがどんなに弟子たちを愛しておられるかということがわかっていなかったと言えます。「私たちが死んでもかまわないのですか!」とはそういう意味です。私には子どもが4人いますが、もし子どもに「私が死んでもかまわないの?」と言われたらショックですよ。「かまわないわけないじゃない!あなたが死ぬぐらいなら代ってお母さんが死んでもいい!」そう言いますよ。…そうでした。イエスさまは滅びに向かう人を罪と死から救うために十字架で代わりに死んだのです。イエスさまは断じて、弟子たちが「死んでもかまわない」なんてことはないのです。イエスさまは弟子たちのことばを聞いて悲しかったのではないでしょうか。ひょっとしたらイエスさまは声を震わせながら言ったのかもしれません。「どうして怖がるのですか、まだ信仰がないのですか」こんなに愛しているのに、まだわからないのですか。この命がけの愛が、まだわからないのですか、信じられないのですかと。

41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」
風や波への恐れが、今度はイエスさまに向かいました。彼らは少なくともイエスさまが知ってほしかった一つめのこと、イエスさまが風や湖までが言うことを聞く権能を持っておられることが分かったのです。わかって非常に恐れました。そして互いに顔を見合わせながら言うのです。「いったいこのお方はどなたなのだろうか。」と。
 実はマルコの福音書の一貫したテーマは 「このお方はどなたなのか」です。そして最初と最後にその答えを書いています。マルコの福音書の初めは、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。そして最後は、十字架の一部始終を目撃した百人隊長が「この方は本当に神の子であった。」との告白が記されています。マルコはイエスさまのみわざを次から次へと記することを通して、このお方がどなたなのかを私たちに知らせているのです。
イエスさまは私たちにも問いかけています。「わたしは誰か」と問いかけておられます。私たちはそのイエスさまの問いかけに、確信をもって答えることができるでしょうか。「あなたは神の子、イエス・キリストです!」すべてを支配し、その御手を持って私たちを守り、いつも私たちに関心を持って見つめておられ、あふれるほどの愛ももってケアしてくださるお方だと告白できるでしょうか。そのイエスさまが私たちの人生という舟に乗ってくださっています。いえ、実は私たちがイエスさまという舟に乗せていただいているのです。ですから文字通り「大船に乗った」つもりで安心して人生の航路を楽しんでいいのです。
 新型コロナウイルスのせいで、私たちは今恐れと不安の中にあります。でもイエスさまはおっしゃいます。「どうして恐がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と。イエスさまを信頼しましょう。イエスさまの愛に信頼しましょう。イエスさまは消して私たちに無関心ではない。愛して気にかけて、共にいて守ってくださるお方です。お祈りします。

「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
すべてをその大能をもってご支配してくださっている天の父なる神さま、あなたの尊いお名前を心から賛美します。あなたはその力強い御腕をもって私たちを守り、変わらない愛で今日も私たちに目を注いてくださっていますことを心から感謝します。不安と恐れが満ちているこの時代、この国にあっても、私たちはこの主を見上げて、希望をもって、平安のうちに歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

説教者:齋藤千恵子

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