Ⅰペテロ2:1-3
今日は新船橋キリスト教会の年間聖句からのメッセージです。この年間聖句は私が赴任する前に決まっていましたので、もうここから説教されているかと思っていたのですが、どうやらまだのようでしたので、二カ月の会堂での礼拝休止期間が明けて、みなさんで集まることができるようになったら、一度皆さんとこの聖書箇所から学びたいと思っていました。今日はそれが実現できて感謝です。それではお祈りします。
生けるみことばなる主イエス・キリストの父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。日増しに暑さが厳しくなるこの季節、長いステイホームの時期が終わり、そろそろと外に出始めた私たちですが、こうしてあなたご自身が私たちを呼び集めて下さり、再びともにあなたを礼拝する恵みに与からせていただいていますことを心から感謝します。どうぞしばらくの時に、私たちの心を整えてく下さり、あなたのみことばの豊かさを味わせて下さりますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
さて、このペテロの手紙ですが、誰がどんな背景の中で書いたのか、少し見てみたいと思います。この手紙を書いたのはペテロです。また時代背景は、ローマによるクリスチャン迫害の兆候が表れ始めた頃でした。実際ペテロはこの手紙を書いて間もなく殉教したと言い伝えられています。そんな困難な時代を生きるクリスチャンたちに向けて、ペテロは足腰の強い信仰者となるように、迫害の中でも与えられた新しいいのち、救いを手離すことがないようにと語っています。
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
「ですから」とは何を指しているでしょうか。1章に答えがあります。まずは1章3節を見てみましょう。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」次に23節です。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」
この二つの聖句に使われてる共通した言葉は何でしょうか。そうです「新しく生まれた」ということです。つまり「ですから」というのは、「あなたがたはすでに新しく生まれたのですから」ということです。
私たちはすでに新しく生まれたのですから、「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と聖書は言っています。「悪意」とはすべての悪い思いのことです。他の人を傷つけ害を与えようとすることです。「偽り」は、人をだましたり、ごまかしたり、ずるい行いをすること、またそうしたいという思いです。「偽善」は何でしょうか。この語源はもともと舞台俳優のことを指すようです。当たり前のことですが、舞台で演じている人物は、本来の自分とは違います。私たちは誰も、人によく見られようと演じるのが上手です。我ながら天性のものがあると思います。私たちは生まれながらの女優、俳優なのです。自分を良く見せようと演じる、それが偽善です。そして「ねたみ」、本当にねたみぐらい私たちの心を苦々しさせるものはありません。私たちは自分より他の人が褒められたり、評価されたり、愛されたりするだけで、まるで自分がけなされたかのように思い、心中穏やかでなくなるものです。考えてみれば、アダムはサタンに神へのねたみを引き起こされ、禁断の実を食べ、罪を犯しましたし、アダムの息子カインも弟アベルをねたんで人類最初の殺人者となりました。ねたみは人類の根源的な罪なのかもしれません。そして「悪口」、これは人への誹謗中傷のことです。最近一人の女子プレオレスラーが、ネット上で誹謗中傷を受け、自殺に追い込まれました。もちろんネット上ではみな匿名です。けれども神さまの前に匿名ということはあり得ません。ですから気を付けましょう。神は私たちの罪を完全に暴かれるお方です。聖書はこれらに代表されるような罪をみな捨ててしまいなさいと言っています。
そうです。捨てていくのです。この言葉の語源は「脱ぎ捨てる」との意味があるようです。新しく生まれた私たちは、生きている間このような罪、古い性質、生き方を捨てていく作業をしなくてはいけません。Ⅰヨハネ1:9にはこうあります。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」私たちは、イエスさまを信じ、新しく生まれていても、この地上に生き、この肉体を持っている限り、罪を犯さないでは生きていくことができません。でもだからといって罪を犯しても仕方ないのだと開き直ってもいいのでしょうか。このⅠヨハネのみことばにあるように、私たちは日々、神さまの前に罪を告白し、それを脱ぎ捨て、赦していただかなければならないのです。
うちの子どもたちは4人とも子どものときアトピー性皮膚炎でした。ちょうどそのころ、「体質改善」ということがさかんに言われていました。人のからだの細胞というのは、約3カ月ですべて入れ替わるらしいのですが、そのためには良い細胞を新しく作り、悪い細胞を死滅させ、細胞全体を入れ替えなければいけないという考え方です。これは新しく生まれたクリスチャンの歩みに似ているかもしれません。私たちは新しく生まれたときから体質改善を始めています。古い習慣や考え方、罪の性質を聖霊によって示される度に、神さまの前に告白して日々それらを捨てていくのです。そしてその上で新しい純粋な霊の乳によって、健康な、神さまのDNAを持った細胞を作っていくのです。からだの体質改善は3カ月サイクルですが、魂の体質改善は一生続くでしょう。これを神学用語で「聖化」と言います。私たちが人生のゴールを迎える時、体質改善は終了します。そして栄光のからだをいただきます。完全にされます。それまでこの魂の体質改善を続けて、ますますイエスさまに似た者になっていくのです。
さて、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。私は4人の子どもを母乳で育てましたので、とてもよくわかります。生まれたばかりの乳飲み子は、それこそ成長に必要なものすべてを母乳、あるいはミルクから摂取します。お水さえ飲みません。そして母乳やミルクを飲んで、赤ちゃんは生命を維持するだけではなく、成長していくのです。だいたい3,4カ月で体重は倍になります。ものすごいペースです。また知能や運動機能も発達します。私たちの霊も同じです。 成長のためには「純粋な霊の乳」が必要なのです。
「純粋な霊の乳」、信仰生活の長い方はお気づきでしょう。訳が変わっています。新改訳聖書第三版では「純粋なみことばの乳」でした。もともと二通りの訳し方があって、2017年版では別訳を採用したということなのですが、内容としては変わりません。「霊の乳」と言えばみことばを指すのは当然のことですから。また「純粋な」というは「混ぜ物のない」「偽りのない」「曲げられていない」という意味です。私たち大人は偏食をします。食べ物の好き嫌いがあり、栄養があるとわかっていても嫌いなものは食べないし、からだには悪いとわかってはいても食べたいものは食べたいのです。けれども赤ちゃんはそんな選り好みはしません。ミルクだけを飲むんです。ミルクは完全食ですからそれだけで必要かつ十分です。ですから純粋でなくてはなりません。
1955年森永ヒ素ミルク事件がありました。その頃は母乳よりも人工乳で育った子の方が賢くなるとの考え方が出始め、多くのお母さんたちは赤ちゃんに人工乳を与えていました。けれどもその森永のミルクには、大量のヒ素を含んだ工業用の第2リン酸ソーダが、安定剤として混ぜられていたのでした。その時の被害者が生きていれば65歳です。親も80代後半でしょう。ずっと後遺症に苦しんでいると聞きます。 母乳はそれだけで完全食なので、混ぜ物をしてはいけないのです。今の人工乳は、極力母乳に近づけることはしても、余分なものは決して入れません。混ぜ物をしたら大変なことになるからです。
私たちの霊の乳、みことばには混ぜ物がないでしょうか。その成分に偏りがないでしょうか。もちろん聖書そのものは純粋です。けれども問題は私たちの聖書を読む時の態度です。「このみことばは好き」「このみことばは私には合わない」「聖書はこう言ってるけど、私はそうは思わない」そんなことを言って選り好みしていないでしょうか。一部の栄養分だけを摂取していないでしょうか。私たちは耳に心地よいみことばだけでなく、耳に痛いみことばも、純粋な霊の乳として飲みましょう。いえ、ここでは「慕い求めなさい」と言っています。これは原語では非常に強い命令的な言い方です。私たちが、食欲がないからと言ってご飯を食べなかったり、偏食がひどかったりすると病気になってしまうのように、自分の都合や気分に任せていると、いつまでも私たちの信仰は成長しません。純粋な霊の乳をそのままいただきましょう。
さて、私たちが霊の乳を慕い求める目的は何でしょうか。それは「成長し、救いを得るため」だと書かれています。冒頭で申しましたように、このペテロの手紙が書かれた時代は、迫害の時代でした。もし当時のクリスチャンたちが、みことばによって武装し、足腰の強いクリスチャンになっていなければ、信仰を保つことさえできなかった時代でした。だったら私たちは大丈夫、迫害もないし、と思うでしょうか。いいえ、もし私たちが守られた環境にいるとしたら、それこそみことばの飢餓に陥りやすいので気を付けてください。赤ちゃんはおなかが空くと、大泣きしてミルクを求めます。けれども空腹を感じなければ機嫌よくしています。迫害下のクリスチャンは、常に空腹でした。みことばがなければ生きていけないほど魂の空腹を感じていました。ですからむさぼるようにみことばを求めたのです。私たちが恵まれた環境にあって空腹を感じていないとしたら、それは逆の意味で危機的です。自分の飢餓状態に気づいていないからです。気づいていないだけで実は魂は栄養失調、やせ細っている可能性があります。赤ちゃんがミルクを飲まなければ、成長しないどころか、死んでしまうように、私たちも霊の乳を飲まなければ、霊的に死んでしまうのです。聖書がここで語気を強めて言っているように、私たちはみことばを慕い求めましょう。それによって成長し、救いを得るためです。「救い」はスタートでもありゴールでもあります。私たちはイエスさまを信じてすでに救いにあずかっています。そこは大丈夫です。心配しないでください。けれども私たちはその救いをしっかりと握ったまま、成長し、ゴールに達しなければいけません。
2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
ここにも私たちが霊の乳を慕い求める理由が書かれています。それは、主が慈しみ深い方であることを、確かに味わったからです。みなさん、思い出してください。イエスさまを信じて信仰を持った時のことを。私たちはみことばを通して、主の慈しみ深いこと、恵み深いことを味わったのではないでしょうか。それこそイエスさまの愛に圧倒されて、イエスさまを信じる決心をしたのではないでしょうか。詩編119:103にはこんなみことばがあります。「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」赤ちゃんがお母さんの胸に抱かれて、安心してお乳を飲んでいる姿が目に浮かびます。私たちがみことばを味わう時、神さまとこのようなぬくもりのある霊の交わりが与えられます。それはとても甘美なものです。至福の時です。赤ちゃんがこうしてお母さんの胸に抱かれて、霊の乳を飲み、からだだけじゃない、心も養われていくように、私たちもみことばをいただきながら、その霊の交わりの中で、知識だけじゃない、神さまのご人格に触れるような経験をし、心と魂が養われ、成長させられて行くのです。
今年度の私たちの教会の年間聖句はⅠペテロ2:1~3です。私たちは夜寝る前に一日を振り返って神さまの前に罪を告白し、捨てましょう。そうして朝ごとに心のご飯、みことばを味わいましょう。私たちはそれによってますます成長し、キリストに似た者になっていくのです。お祈りします。
みことばによって日々私たちを養い育ててくださいます天の父なる神さま。尊いお名前を心から賛美します。今日のみことばをありがとうございます。私たちは古い人を日々脱ぎ捨て、みことばによって新しい人を着て、成長させていただきたいと思っています。どうぞ今週の私たちの信仰の歩みも導いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
説教者:齋藤千恵子
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