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主が御使いを遣わして



「主が御使いを遣わして」

使徒の働き 12章1~11節

 

天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。梅雨空の中、今週も兄弟姉妹を励まして礼拝へと導いて下さり、みことばによって私たちを養ってくださることを心から感謝します。私たちの地上での歩みは、絶えず大なり小なり問題が絶えませんが、主はそんな中でも私たちといつも共にいて下さり、主にある平安をくださり、具体的な助けを与えてくださるので感謝します。今日もみことばの中で主からの励ましを受けたいと思っています。どうぞ私たちの心を整え、みことばに集中させてください。しばらくの時、御手にゆだねます。感謝しつつ。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

 

「そのころ」とはいつのことでしょうか。アンティオキアで異邦人教会が設立し、エルサレムの教会からも認知され、ますます異邦人伝道が盛んに行われていたころです。実はそのことがますますユダヤ人から嫌われる原因となりました。キリスト教会の構成員が、ユダヤ人だけの時はまだよかったのです。ところが、そこにギリシャ語を話すユダヤ人が加わり、そのうちユダヤ教に改宗した外国人が加わり、そしてさらには、ユダヤ教を介さないで直接キリスト教信仰を持つ外国人が加わることによって、伝統を重んじるユダヤ教の指導者たち、また選民意識を持ち排他的なユダヤ人たちの反感を買いました。そしてますますエルサレムでの迫害が激化していったのがこのころです。

 

 そしてこの時、ローマの属州であるユダヤ地方を治める王は、ヘロデ(ヘロデ・アグリッパ一世)でした。聖書の中には、何人かヘロデ王が出てきます。イエスさまが生まれた時、2歳以下の男の子を皆殺しにしたあの残酷なヘロデ王は、このヘロデ・アグリッパ一世の祖父に当たり一般にヘロデ大王と呼ばれています。ヘロデ・アグリッパ一世については、次の次の説教で、また詳しくご説明したいと思いますが、今日押さえておきたいことは、この三代目のヘロデ王はこの時代、激しくクリスチャンを迫害したということです。しかも迫害の理由は、ユダヤ人に気に入られるためだったのです。彼はクリスチャンを迫害することによって、ユダヤ人のご機嫌取りをしたのです。

 そしてとうとう12使徒の一人、ヤコブを殺しました。あまりにあっけない。教会は彼のために祈る猶予さえ与えられなかったのです。本当に不意打ちのようにヤコブは殺されました。自分の人気取りのために、支持率の維持、上昇のために不正が行われ、人々のいのちか軽んじられるというのは、政治権力を握る者によくあることなのかもしれません。また政治家が自分の支持率が下がってくると、外に共通の敵を作り出して、意識をそちらに向けるというのもよくある話です。とにかくユダヤ人によるキリスト教会の迫害はもともとあったのですが、そこに政治権力が絡んで、ますます国家的な迫害に発展していきました。そしてこのヤコブの一件がユダヤ人に喜ばれたのを見て、ヘロデ王はさらにペテロも捕えにかかったのです。

 それは種なしパンの祭りの時期でした。この祭りの時期というのは過ぎ越しの祭り以降の7日間です。ヘロデは、多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まるこの時期を狙って、教会にとって一番の打撃になるであろうペテロを捕えて牢に入れました。そしてこの種なしパンの祭りの7日間が過ぎたところで、彼を民衆の前に引きずり出して公開処刑しようと企てたのです。ヘロデは4人一組の兵士四組に、24時間体制でおそらく交代で番をさせ、厳重に見張らせました。二人はペテロの両手それぞれと鎖でつなぎ、二人は門番をしていたようです。あまりに厳重です。ひとりの男の監視にこれほど神経を使うだろうかと疑問ですが、彼らにしたら、キリスト教徒はそれほど得体のしれない、何が起こるかわからない輩(やから)だったのです。そうでした。イエスさまは、多くの番兵に見張られ、墓には大きな石で封印されたにもかかわらず、予告通り三日目に墓を打ち破って出て行ってしまったのでした。イエス・キリストを信仰する彼らも何が起こるかわからない…信仰のない彼らにとっても、最大級の警戒をさせてしまう、そんな恐れを抱かせる存在でした。こうしてペテロは厳重な監視の中、牢に閉じ込められていました。

 

 そして教会はその間、ペテロのために熱心な祈りを神にささげていました。ペテロ救出作戦を練っていたわけではないのです。思い出してください。時は過ぎ越しの祭りから種なしパンの祭りの頃です。クリスチャンたちはユダヤ教の習慣に従って、こうして祭りの時期には家の教会で集まって種なしパンを食べつつ祝っていたのですが、彼らにとって今年の種なしパンの祝いは違う意味を持っていたのでしょう。数年前の今頃、イエスさまは弟子たちと最後の食事をされ、その晩ゲッセマネの園で祈られ、そのまま不当な裁判にかけられ、次の日の朝には十字架につけられたのでした。そうです。彼らにとってこの祭りの時期は、イエスさまの十字架と復活を覚えて礼拝し祈るときとなっていたのです。そしてちょうどペテロの投獄を知らされ、イエスさまの受難と重なり、彼らはペテロのために寝ないで祈っていました。後にみ使いによってペテロが牢から救出された後、この祈りの場に行くと、みな起きていましたから、彼らは祈りを切らさないようにずっと祈っていたことがわかります。

 そして面白いことに寝ていたのは当事者のペテロでした。彼は両側の頑強な兵士に挟まれ、両手はそれぞれの兵士と鎖でつながれいたのです。そして明日は処刑されるというその前夜、平安のうちに寝ていました。仲間のヤコブが殉教していましたので、自分も同じように明日処刑されるのだろうと思っていました。ヤコブは剣で殺されました。自分はどんな方法で処刑されるのだろうと考えていたかもしれません。またイエスさまと一緒にいたころイエスさまが語られていたことを思い出していたかもしれません。「義のために迫害されるものは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。」「迫害する者のために祈りなさい」「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」そんなことを思い起こしながら、それでも不思議な平安が与えられて眠っていたのです。ある意味、この時点で教会の祈りは聞かれていました。彼らは、「ペテロを救い出してください」とだけ祈っていたのでしょうか。私はそうは思わないのです。私たちだったらどう祈りますか?この教会の誰かが信仰のゆえに投獄されて明日には処刑されるとわかっていたら、どう祈るでしょうか。もちろん「救い出してください」と祈ります。それだけでしょうか。きっとこう祈るでしょう。「平安を与えてください」「勇敢に信仰を貫き通せるように」私たちはそのように祈るのではないでしょうか。ペテロが処刑される前夜、平安のうちに眠っていたのは、教会の祈りが聞かれて、ペテロに不思議な平安が与えらえていたからなのです。

 

 ところが神さまは、祈っている本人たちが想像もできないような方法でペテロを救ってくれました。7節「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。」暗い冷たい牢に光が差しました。「光よあれ!」と言って世界を創造された父なる神さま。「私は世の光です」と言われたイエスさま。私たちの心の照らす聖霊さま。牢屋の暗闇も私たちの心の暗闇も神さまに照らせない暗闇はありません。御使いはペテロのわき腹をつついて彼を起こしました。彼はまだしっかりと目覚めていません。夢うつつです。イエスさまの十字架前夜、ゲッセマネの園でイエスさまと祈っていた時、何度も眠りこけて、イエスさまに起こされたな~なんて思っていたかもしれません。すると両手の鎖がポロリと外れました。番兵たちはそれに気づかず眠りこけていたのでしょうか。御使いは幼稚園に行く前の子どものようにペテロに言います。「さあ、帯をしめて」「履物をはきなさい」「さあ、上着を着て」何だか懐かしいです。ペテロは寝ぼけていたので仕方がありません。御使いの指示の一つ一つが心地よく、はいはいと支度を整え、「私について来なさい」と言われるがまま、御使いについて行きました。彼らは第一、第二の衛所を通り、町に入る鉄の門まで来ると、門がひとりでに空きました。こうして彼らは外に出て、一つの通りを進んで行くと、御使いはもう大丈夫だろうと思ったのでしょう。ペテロを離れて行ったのです。

 ペテロはやっと目が覚め、正気を取り戻しました。「えっ、今までのこと全部現実のことだったの?」もうびっくりです。こうしてペテロは告白しました。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、ユダヤ人の民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ!」「ハレルヤ!」

 

 状況は八方ふさがりでした。両手は鎖でつながれ、門番が厳重に見張っていました。私たちにもこのような経験があるでしょう。困難の中でどこにも出口がない、八方ふさがり、四面楚歌の状況の中で、途方に暮れることがあるでしょう。けれどもこの時、教会は知っていました。ふさがっていない場所が一つだけあることを。天です。天の窓は彼らに開かれていたのです。私たちも八方ふさがりのとき、ふさがれた壁を見て、その壁の分厚さと高さに圧倒されるときがあるでしょう。そんな時は上を見上げてみましょう。天の窓はいつも開かれており、私たちの祈りはダイレクトに天に届いているのです。

旧約聖書創世記のヤコブのことを思い出します。ヤコブは兄エサウをだまして怒りを買い、殺されそうになって郷里を追われました。彼はその旅路で恐怖と孤独の中で、冷たい地面に横になり、石を枕にして寝たのです。すると彼は夢を見ました。一本のはしごが地に立てられていて、その端は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていたのです。そして天から御声が聞こえてきました。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」そしてヤコブは目を覚ますなり言いました。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

私たちも人間的な手立てを尽くし、もうどうしようもならないと思ったその時には、絶望しないで、天を見上げましょう。そうすれば天の窓が大きく開かれていることに気づくでしょう。そして祈るのです。神さまが御使いを遣わして、牢を照らしたように私たちの失望しそうな真っ暗な心を照らし、神さましか与えることのできない平安と脱出の道を与えてくださいます。そして私たちは最後には信仰告白と賛美に導かれるでしょう。「今、本当のことが分かった。」「主は私を救い出してくださった」と。 祈りましょう。

 

 天の父なる神さま、あなたは私たちが八方ふさがりで身動きが取れなくなっている時、上を見上げなさいとおっしゃってくださり、実際に天の窓を開いて待っておられ、そこから御使いを遣わして私たちを助けてくださることを感謝します。そうです。主は私たちが祈ることを待っておられます。どうぞ主に期待し祈りつつ、この地上での生を最後まで全うすることができますように。そして御国に上げられるときには、今本当のことが分かったと信仰を告白し、高らかに主を賛美することができますように。感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

説教者:齋藤千恵子

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