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7月, 2020の投稿を表示しています

私はあるという方(出エジプト3:9-15)

「『わたしはある』という方」(出エジプト 3:9-15 ) 齋藤五十三師 お祈りします。 天のお父さま。御名が崇められますように。神の御国が来ますように。いつもと変わらぬ礼拝、しかし、生涯二度と繰り返すことのない今日というこの礼拝のひとときを感謝します。どうぞこの時、私たちが耳を澄ませて確かに、神の言葉を聴き取ることができますよう、聖霊の助けをお願いいたします。語るところの足らなさを、どうか聖霊なる神が補い、神の言葉の内にあなたと出会うことが出来ますように。生ける御言葉、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン はじめに  出エジプト記三章は、我らがモーセが神と出会う場面です。当時、イスラエルの子らは、エジプトの奴隷で、レンガ作りなどの強制労働に悲鳴を上げていました。かつてモーセは、そのエジプトのイスラエルの家に生まれましたが、不思議な導きでエジプト王ファラオの娘、つまり王女に拾われ、その息子として育ったことでありました。  王女の息子とはいえ、彼はやはりイスラエル人。成人の後、同朋イスラエルの苦しみを見るに見かねて助けようとするのです。しかし、あえなく挫折。今度は命を狙われる身となり、シナイ半島のミディアンという荒野に逃れ、そこで羊飼いとなり、すでに四十年の歳月が流れていました。  そんな落ちぶれたモーセに、三章冒頭で突然神が現れ、イスラエルを助け出せと命じていく。それが今日のストーリーの背景です。  9 -10 節  今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。  この神の命令に、モーセはどのように答えていったのでしょう。英雄というイメージが強いモーセですが、意外や意外、彼は恐れおののき、尻込みしていく。  本日はそんな、恐れるモーセと神のやり取り、特に 13-14 節の対話に目を留めていきます。 1 .「その名は何か」:問いかけるモーセの不安   13 節 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。  最初にこの箇所

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの両親マリヤとヨセフもヘロデ大王による二

一歩を踏み出す

「一歩を踏み出す」 ヨハネの福音書 3 章16節   さて今日はバイブルキャンプデーですので、まずは私のキャンプにまつわる信仰の証しをしたいと思います。 私は牧師家庭に生まれました。両親は青森県五所川原市の出身ですが、結婚してすぐに岐阜に引っ越したので、私は岐阜で生まれ育ちました。ちなみに松平先生は同じ教団の隣町の教会の出身で、私も先生のご両親とは面識があります。確か先生も兄弟が多かったと思うのですが、私も 5 人兄弟の二番目長女です。家は牧師家庭にありがちの貧乏人の子沢山で、牧師夫婦は家庭を顧みず、伝道牧会に励むのが美徳とされた時代に育ちましたので、両親はいつも忙しく、厳しくしつけられはしたけれども愛情いっぱいで育ったという自覚はありません。そんな私がイエスさまを個人的な救い主として信じたのは、小学校 3 年生の夏でした。 はじめて教団のバイブルキャンプに参加したのです。岐阜の山奥、淡墨桜で有名な根尾にあるキャンプ場です。もともと私は超が付くほど恥ずかしがりやでした。幼稚園の頃から吃音もあったので外では口数も少なく、泣き虫で人間関係はいつも受け身でした。ですから今思うとキャンプの雰囲気になかなかなじめなかったのかもしれません。楽しいプログラムについてはほとんど記憶がないのです。ところが一人のカウンセラーの先生に信仰を導いていただいたことだけ覚えています。赤沢先生という名前でした。髪はショートカットで黒縁眼鏡をかけたやせ型、歳の頃は 40 代?の女の先生でした。赤沢先生は、お部屋の先生ではなかったのですが、キャンプファイヤーの後を利用して、個人的に丁寧に信仰を導いてくれました。イエスさまがわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。それは、私の罪の身代わりだったということ。そして 3 日目によみがえってくださり、信じる者に新しいいのちをくださることを教えてもらいました。いつも教会学校で聞いていたはずなのに、その時は今までになく新鮮に響いてきました。兄弟が多く、いつもケンカが絶えませんでしたし、いい子ちゃんぶったり、ずる賢く他の兄弟に罪を擦り付けたり、親の愛を求めて他の兄弟に嫉妬したり、意地悪をしたり、自分の罪を自覚するのは難しいことではありませんでした。私はその先生に導かれるまま、自分の罪を告白し、悔い改めの祈りをし、イエスさまを

教会は祈っていた

「教会は祈っていた」 使徒の働き 12 章 12 ~ 17 節   天の父なる神さま、御名を心から賛美申し上げます。梅雨の季節、蒸し暑い日が続いておりますが、私たちの健康を支えて下っていますことを感謝します。東京では新型コロナウイルス感染者が 100 名を超す日が続き、熊本では大雨で川が氾濫し、大きな被害を出しました。神さまそれぞれの大変な状況にある皆さんに上に神さまの具体的な助けがありますように。神さま、私たちはこのような不安が絶えない時代にあって、あなたの御手のうちに守られ、こうして礼拝をおささげするために集められましたことを心から感謝します。しばし日常のこのような不安、雑念から私たちをしばし解き放ってくださり、あなたのみことばに浸らせてくださり、あなたのみこころを行うことのすばらしさを体験させてくださいますように。心からお願いします。感謝しつつ。主イエス・キリストの御名によってお祈致します。アーメン   12 節は、 「それがわかったので」 で始まります。ペテロは何がわかったのでしょうか。それはこのすぐ前の 11 節を見ればわかります。 「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」 自分がこうして解放されたのは、主が助けてくださったからだと告白しています。すっかり目が覚めて正気に戻ったペテロは、すぐに仲間のところに向かいました。そのままどこか遠くに逃亡することもできましたが、彼はそれをしませんでした。彼は知っていたのです。教会の仲間が自分のために祈ってくれていたということを。そしてペテロは祈ってくれていた仲間に、神さまがどんなふうに自分を救ってくださったのか報告したかったのです。祈り合っている仲間、教会というのはそういうものです。私たちが宣教師だったころ、4年に一度いつも祈ってくださっている皆さんに宣教報告をするために教会訪問しました。また毎月教団から発行される教団誌『世の光』に宣教報告を載せました。それは皆さんの祈りが、この異国でどんなふうに答えられたのかを報告するためです。ペテロはそのように祈りの場へと急いだのです。 さて、ペテロが向かったのは、「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」でした。この家は裕福な家で、広いお屋敷を持っていま