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一歩を踏み出す



「一歩を踏み出す」

ヨハネの福音書3章16節

 

さて今日はバイブルキャンプデーですので、まずは私のキャンプにまつわる信仰の証しをしたいと思います。

私は牧師家庭に生まれました。両親は青森県五所川原市の出身ですが、結婚してすぐに岐阜に引っ越したので、私は岐阜で生まれ育ちました。ちなみに松平先生は同じ教団の隣町の教会の出身で、私も先生のご両親とは面識があります。確か先生も兄弟が多かったと思うのですが、私も5人兄弟の二番目長女です。家は牧師家庭にありがちの貧乏人の子沢山で、牧師夫婦は家庭を顧みず、伝道牧会に励むのが美徳とされた時代に育ちましたので、両親はいつも忙しく、厳しくしつけられはしたけれども愛情いっぱいで育ったという自覚はありません。そんな私がイエスさまを個人的な救い主として信じたのは、小学校3年生の夏でした。

はじめて教団のバイブルキャンプに参加したのです。岐阜の山奥、淡墨桜で有名な根尾にあるキャンプ場です。もともと私は超が付くほど恥ずかしがりやでした。幼稚園の頃から吃音もあったので外では口数も少なく、泣き虫で人間関係はいつも受け身でした。ですから今思うとキャンプの雰囲気になかなかなじめなかったのかもしれません。楽しいプログラムについてはほとんど記憶がないのです。ところが一人のカウンセラーの先生に信仰を導いていただいたことだけ覚えています。赤沢先生という名前でした。髪はショートカットで黒縁眼鏡をかけたやせ型、歳の頃は40代?の女の先生でした。赤沢先生は、お部屋の先生ではなかったのですが、キャンプファイヤーの後を利用して、個人的に丁寧に信仰を導いてくれました。イエスさまがわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。それは、私の罪の身代わりだったということ。そして3日目によみがえってくださり、信じる者に新しいいのちをくださることを教えてもらいました。いつも教会学校で聞いていたはずなのに、その時は今までになく新鮮に響いてきました。兄弟が多く、いつもケンカが絶えませんでしたし、いい子ちゃんぶったり、ずる賢く他の兄弟に罪を擦り付けたり、親の愛を求めて他の兄弟に嫉妬したり、意地悪をしたり、自分の罪を自覚するのは難しいことではありませんでした。私はその先生に導かれるまま、自分の罪を告白し、悔い改めの祈りをし、イエスさまを心にお迎えしました。それまでも天地を創造されたまことの神さまのことは疑ったことはありませんし、その神さまがいつも私のことを見ていてくださるということも知っていました。ただ、その神さまのまなざしは私にとってとても厳しく、私はそのまなざしにいつもおびえていたような気がします。きっととても厳しかった両親を重ねていたのでしょう。

 

そんな私にカウンセラーの先生がヨハネ3章16節のみことばが書かれたカードをくださいました。そのカードには、ところどころ白抜きになっている部分があって、そこに自分の名前を入れるように言われました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、(千恵子)を愛された。それは御子を信じる(千恵子)が滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そうなんだ、天地を作られた神さまは、みんなの神さま、教会の神さま、うちの神さまだと思っていたけれど、それだけじゃない、私の神さま、私を愛してくださってひとり子イエスさまを与えて下さった天のお父さまなのだとわかりました。

 

幼いころの小さな信仰の決心でしたが、それは確かに神さまに覚えら、受け入れられました。そしてその時から、私の心に聖霊を通してイエスさまが住まわれました。キャンプが終わって、家に帰るなり、わたしは両親にイエスさまを心にお迎えしたことを報告しました。両親はとても喜んで、その赤沢先生にお礼を言おうとして、キャンプの担当の先生に問い合わせました。ところが不思議なことに赤沢という名前もそれらしい名前のカウンセラーもいなかったというのです。私は黒縁眼鏡でショートカットの…と説明するのですが、やはりそんな風貌の先生はいなかったというのです。私の記憶違いでしょうか。あるいは天使?今も謎のままです。

 

今だったら、小三の子どもでも明確な信仰決心をしていれば、洗礼を授けるのでしょうが、当時は子どもに洗礼を授ける習慣はなかったので、洗礼をもって決心を表明することなくそのままとなりました。また、信仰決心した当初はとてもうれしくて自分が変わったような気がしたのですが、しばらくするとその熱も冷め、相変わらず私は自己中心で、ずる賢く、罪の中にいました。イエスさまのことは大好きで、教会学校の先生の熱心な指導もあって、毎日聖書を読み祈る習慣はありましたが、自分の罪深さを見る時、救いの確信はなく、洗礼を受けていないので、誘惑を受けても、自分はクリスチャンだからと拒絶することもできず、中途半端なままなんとなく周りに流されていく日々を送っていたのです。もちろんその後も毎年バイブルキャンプには参加し、そして年中行事のように信仰の決心をするのですが、山を下りると、日常生活の中でその満たされた感じは薄れて行きました。

 

そして中学一年生の夏、私の両親は私を松原湖バイブルキャンプに送ってくれました。母教団は、東海三県に20教会ぐらいしかない小さな教団でしたから、いつの間にかキャンプに新鮮味を感じなくなってしまっていたからです。カウンセラーも講師も、牧師家庭の私にとっては、〇〇ちゃんとこのおじちゃん、〇〇ちゃんとこのおばちゃんで、親同士も仲がいいので、何か相談しようものなら、たちまち親に伝わってしまうという危険性もありました。私がそんなことを親に話して、キャンプに行くモチベーションが上がらないと言うと、それならということで、松原湖バイブルキャンプに送ってくれたのです。今思うと教団のキャンプに比べるとキャンプ費も高い、交通費もばかにならない松原湖へよく送ってくれたなと思います。

 

松原湖バイブルキャンプには、たくさんの中学生がいました。それだけでも新鮮で、同じ年頃の人たちと賛美をしたり、信仰の話しをするのがとても楽しかったです。私はその時のお部屋の先生やお友だちに日ごろ自分が考えていることを分かち合いました。「私は小三の時にイエスさまを信じる決心をしています。天地万物を創造された真の神さまのことを疑ったことはないし、イエスさまが歴史の中に存在し、最後は十字架に架かられて死なれたことも、また三日目に復活されたことも歴史上の出来事として信じてるし、礼拝や教会学校も休んだことがありません。毎日聖書を読んでいるしお祈りもしているんだけど、これって信仰なの?教会で洗礼を受ける人たちの証しを聞いていると、何だかもっと違う何かがあるような気がしてならないんだけど、それって何なの?私は救われてるの?」

お部屋の先生は若い人でしたので、今思うとこの子は手ごわいなと思ったのでしょう。次の日にわたしを講師の先生のところに連れて行きました。その時の講師の先生は、なんと下川友也先生でした。実は一昨年台湾から帰って来たばかりの頃、北海道に行く機会があったのですが、その時に日高にお寄りして下川先生を訪ねました。その際、松原湖ではじめてお会いした時の話しになったのですが、先生はその時のことを覚えておられ、「なんか難しい顔をした、いかにも牧師の娘という感じの子だな~」と思った言うのです。とにかく私はお部屋で話していたことをそのまま下川先生に話しました。先生はうんうんとうなずきながら聞いていましたが、私の話しを聞き終わると、こうおっしゃいました。「川村さんは、もうクリスチャンとして歩み出したらいいんじゃないの?」と。つまりいつまでも立ち止まってごちゃごちゃ言ってないで、一歩踏み出せばいいんじゃないの?劇的な回心がなくても、感動がなくても、確信がなくてもいい、そのままクリスチャンとして歩み出しなさい。そんなことを言ってくださいました。何かがストンと落ちました。そうか、いいのか。私はクリスチャンとして歩みはじめていいんだ。きっかけなんていらない。いや、私は小学校三年生の時にイエスさまを信じている。大事なのは、クリスチャンとして、神の子どもとして歩み始めることなのだとわかったのです。そしてこのことは私を洗礼を受ける決心に導きました。実はそれ以降もいろいろあったので、結局洗礼を受けたのは中三になりましたが、この時のキャンプでの出来事が私にはとても大きく、信仰の大きな一歩を踏み出すきっかけとなったのです。

 

さて、今日のテキスト、ヨハネの福音書3章16節の前には、ニコデモとイエスさまのやり取りが書かれています。ニコデモはユダヤ人の議員でした。超エリートです。信仰熱心で皆から尊敬される人です。彼はイエスさまが巷で教えられていること、また行っている業を見聞きする中で、このお方は何か違う。このお方なら、自分が必死に追い求め努力しても得られない何かを教えてくれるだろう。そしてこのお方ならそれを提供してくれるかもしれない。彼はそう思ってイエスさまを訪ねたのでしょう。また立場がありますから、誰にも気づかれないように、夜にそっとイエスさまを訪問しました。彼は言います。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」はい、模範解答です。けれどもどことなく他人行儀で、客観的で、一般論を言っているだけのようにも聞こえます。イエスさまはそんなニコデモに直球ストライクを放ちます。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることがはできません。」戸惑うニコデモにくり返しイエスさまは言います。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」イエスさまはご存知でした。傍(はた)から見たら完璧な人生、完璧な信仰に見えるニコデモが、それでも満たされず、救いの確信も平安もないのはどうしてか、見抜いていたのです。

彼に欠けていたのは、新しく生まれることでした。もう一度赤ちゃんになることです。彼は新しく生まれるには、あまりに多くのものを積み上げてしまっていました。多くの知識、多くの経験、地位、自信、人々の信頼、自分なりの考え方、価値観…。だから彼はこのまま、できれば自分の人生の延長線上に信仰を積み上げたかったのです。今まで積み上げたものを捨てて、新しく生まれるなんて実はまっぴらごめんだったのです。イエスさまは10節で言いました。「あなたはイスラエルの教師なのにそのことがわからないのですか。」ある意味、イスラエルの教師だからわからないのです。そして11節で言います。あなたは求めているようだけど、結局自分の意思で「受け入れていない。」のだと。そして12節では「信じていない。」のだと、痛いところを突いています。

 

何を受け入れるのですか?何を信じるのですか?それが3章16節にあります。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神さまがイエスさまをくださったのは、私が滅びないで永遠のいのちを持つためだと信じるのです。またⅠヨハネ5章12節にはこうあります。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」神は私たちが「キリストにある新しいいのち」「永遠のいのち」を持つために、必要なことは、そのイエスさまを信じて一歩踏み出すことです。誰も自分の意思や努力で生まれてきた人はいません。生まれることに関して私たちは徹底的に受け身なのです。それは神さまからのプレゼントだからです。プレゼントを差し出された私たちのするべきこと、それはありがとうございますと受け取ることだけです。今まで積み上げてきたもの、自分の考え、価値観、そういったものは新しく生まれるためには何の役にも立ちません。救われるためにはそれらを後ろに置いて、一歩踏み出すしかないのです。迷いがあるなら迷いのあるまま、わからないことがあるならわからないまま、それを後ろにおいて、とにもかくにもこちらに手を伸べているイエスさまの手を取ることです。そして一歩を踏み出すのです。中学生の私がごちゃごちゃ理屈を言うのをやめて一歩踏み出したように、踏み出すのです。一歩を踏み出せない理由はたくさんあるでしょう。家の事情、恐れ、将来の不安。でも一歩を踏み出す理由はひとつだけです。それは新しく生まれるためです。そしてそれは非常に価値のあるの決断なのです。

今日のお話は信仰生活の長い私には関係のないお話しだったと思わないでください。神さまが皆さんに迫っている一歩は何でしょうか。心当たりがあるでしょう。さあ、信仰の深みに漕ぎ出しましょう!祈りします。

 

私たちにひとり子をお与え下さり、罪と死から私たちを救い出し、新しいいのちをくださいました天の父なる神さま。あなたは御子をお与えになったほどに私たちを愛してくださいました。そのご愛に感謝いたします。神さまは今朝、お一人お一人に語ってくださっています。どうか私たちが差し伸ばされたイエスさまのみ手を取り、それぞれの一歩を歩み出すことができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン


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