「『わたしはある』という方」(出エジプト3:9-15)
齋藤五十三師
お祈りします。
天のお父さま。御名が崇められますように。神の御国が来ますように。いつもと変わらぬ礼拝、しかし、生涯二度と繰り返すことのない今日というこの礼拝のひとときを感謝します。どうぞこの時、私たちが耳を澄ませて確かに、神の言葉を聴き取ることができますよう、聖霊の助けをお願いいたします。語るところの足らなさを、どうか聖霊なる神が補い、神の言葉の内にあなたと出会うことが出来ますように。生ける御言葉、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン
はじめに
出エジプト記三章は、我らがモーセが神と出会う場面です。当時、イスラエルの子らは、エジプトの奴隷で、レンガ作りなどの強制労働に悲鳴を上げていました。かつてモーセは、そのエジプトのイスラエルの家に生まれましたが、不思議な導きでエジプト王ファラオの娘、つまり王女に拾われ、その息子として育ったことでありました。
王女の息子とはいえ、彼はやはりイスラエル人。成人の後、同朋イスラエルの苦しみを見るに見かねて助けようとするのです。しかし、あえなく挫折。今度は命を狙われる身となり、シナイ半島のミディアンという荒野に逃れ、そこで羊飼いとなり、すでに四十年の歳月が流れていました。
そんな落ちぶれたモーセに、三章冒頭で突然神が現れ、イスラエルを助け出せと命じていく。それが今日のストーリーの背景です。
9-10節 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。
この神の命令に、モーセはどのように答えていったのでしょう。英雄というイメージが強いモーセですが、意外や意外、彼は恐れおののき、尻込みしていく。
本日はそんな、恐れるモーセと神のやり取り、特に13-14節の対話に目を留めていきます。
1.「その名は何か」:問いかけるモーセの不安
13節 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。
最初にこの箇所を目にした時、私が真っ先に抱いた疑問は、モーセが思わず口にした問いかけの意図でした。「彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」モーセはなぜ、こんなことを聞くのだろうと。
というのも、次の四章終わりでモーセが実際にエジプトでイスラエルの子らと対面した時には、神について「その名は何か」と問われたとも、それが問題になったとも、一切記されていないのです。もちろん、「その名は何か」と問われた事はあったかもしれません。しかし少なくとも、それは大きな問題とはならなかった。そんな取り越し苦労と思えることを、モーセはなぜ尋ねていくのだろう。
そこから透けて見えて来るのは、モーセの胸の内の不安です。「イスラエルの子らは私に聞くでしょう」とは言いながらも、実はこの問いかけは、モーセが心に抱える不安が形になったものに過ぎない。そう、不安なのです。たとえエジプトに行っても、誰が私を信頼してくれるだろうと、彼は胸の内に不安を抱えていた。
振り返ると、モーセがミディアンの荒野に逃れて四十年が過ぎていたのです。エジプトで王女の息子として育ったのも今は昔。しかも、そのエジプトを捨てて一人逃れ、すでに四十年が過ぎていた。「何を今さら」と
…。それが11節の絞り出すような一言、「私は、いったい何者なのでしょう」との泣き言にも繋がっているのです。
…。それが11節の絞り出すような一言、「私は、いったい何者なのでしょう」との泣き言にも繋がっているのです。
とにかく挫折を経て、今ここにいるのは、かつての胸を張って生きていたモーセではなかった。今やただの羊飼い。彼はすっかり小さくされていたのです。
そんなモーセですから「イスラエルの子らを導き出せ」との神の言葉に、モーセの胸は不安ではちきれそうでした。「イスラエルは誰も私を信用しないだろう」と、そこで思わず尋ねる。「その神の名は何か」と聞かれたら、何と答えればよいのでしょう
…。ここで彼は明らかに、胸の不安をかき消そうと、自分のために尋ねています。心の動揺を鎮めるため、彼は必死です。「その名は何ですか」、つまり「私にそんなことを命じる、あなたはいったい誰なのですか」と、実は彼自身が神を疑っている。こう尋ねるモーセは、今や、自分が何者か分からないほどに心が揺れてらいたのです。「私は、そんな大それた者じゃない」と、ひざががくがくと震えるほど、彼は大きく揺さぶられていたのです。
…。ここで彼は明らかに、胸の不安をかき消そうと、自分のために尋ねています。心の動揺を鎮めるため、彼は必死です。「その名は何ですか」、つまり「私にそんなことを命じる、あなたはいったい誰なのですか」と、実は彼自身が神を疑っている。こう尋ねるモーセは、今や、自分が何者か分からないほどに心が揺れてらいたのです。「私は、そんな大それた者じゃない」と、ひざががくがくと震えるほど、彼は大きく揺さぶられていたのです。
2.「わたしはある」-自存の神-
この揺らぐモーセに対する神の答えが14節です。
「神はモーセに仰せられた。わたしは『わたしはある』という者である。」
一読して「えっ、何これ」と、戸惑いを抱いた方も少なくないと思います。確かにこれは、よく分からない答え。
ここで神が言われたご自分の名前「わたしはある」。これはヘブル語からの翻訳ですが、元の言葉の意味を十分くみ出す翻訳は不可能と言われる名前です。いや、私たちにしてみれば、これはおよそ名前とは思えない響きでしょう。
それはモーセにしても同じだったと思う。私は、モーセがこの意味をすぐに悟ったとは思いません。しかし、それでもこれはモーセにとって、実は最も必要な答えだったのでした。この名前の持つ意味は、まるで葡萄酒を何十年も寝かせるかのようにしてモーセの胸に染みわたり、「わたしはある」という、この名前を握りながら、モーセはこの後の困難な旅路を歩いていくことになるのです。
「わたしはある」。それはご自分で存在する自存の神の名前であると言われて来ました。私たち人間は一人で生きていけないし、何かに支えられて生きていますが、そんな私たちと全く違い、神は何ものにもよらず、ご自分で存在しておられる。だから揺らぐことがない。しかもこのお方、そんな揺るぎなさを独り占めにして、ただ御自分だけで存在しているのではないのです。神は揺るがない手を伸ばして、揺らいでいる人々に寄り添いながら、そうやって歴史の中に足あとを残して来られました。3章の6節そして15節で繰り返される、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というもう一つの神の名が、そんな歴史の足あとを物語っています。
思い出してください。神は、行き先を知らずに旅に出たアブラハムの手を取り、荒野の井戸掘りで一生を終えた寄留者イサクを支え、兄を騙して逃げた、あの頑固なヤコブとも寄り添っていった。その神が、「モーセ」今度はあなたと共にある。「わたしはただ、自分だけで『ある』のではない。あなたとともにも『ある』。イスラエルらは必ずあなたに従おう」と。この励まし、この約束が、モーセの心の内でこの後じっくりと漬物のように漬け込まれ、出エジプトの旅路を支えていくことになるのです。
3.神が語られるように神を知る
モーセはこの時点では、共に「ある」神の恵みの大きさに、まだ気づいていなかったと思います。それは彼が口にした言葉を見ればすぐに分かります。6節ですでに神から、このお方は「アブラハム、イサク、ヤコブと共にある神」だと聞いているのに、13節で神に問う時には、「あなたがたの父祖の神」と何とも味気ない。アブラハム、イサク、ヤコブを導いた生き生きとした御業が、まだモーセには分かっていないのです。しかも、「私たちの父祖の神」と言うならまだしも、「あなたがたの父祖の神」とは、まるで他人事。自分がそこに入っていない。「とともにいる」との神の約束を聴いたのに、モーセはどこか他人事です。彼はまだ、共にいる神の恵みに気づいていない。
モーセというと、出エジプトの英雄というのが私たちの抱くイメージだろうと思います。しかし、ここにいるモーセは未だ信仰者として成熟していなかった。こうした神の言葉に直に触れるのも、初めてだったのではありませんか。
それでも同時に、たとえ未成熟のモーセでも、彼の成長の伸びしろは、やはり大きいとも感じました。彼は13節で「私は彼らに何と答えればよいのでしょうか」と、神に尋ねていますね。彼が、このように自分の言葉でイスラエルに神を説明しようとしなかった。むしろ神の言葉によって神を知らせようとした。私はここに神の人モーセの、まるでダイヤモンドの原石時代を見ているような思いもしたのです。
胸に手を置いてみると、私たちは誰かに神を伝える時、しばしば自分の思いが先に立ち、自分の言葉で神を説明しようとします。それは、たとえ聖書から、と言って語る場合も同じです。いつの間にか、自分の語りたいことを語り、それを聖書の中にも読み込みながら神を語ろうとする。そんな時、人はしばしば「神にはこんな方であって欲しい」と。神にはただ優しい方であって欲しいとか。厳しい方ではあって欲しくないとか、そういう自分の願いさえ神の姿に投影してしまいます。そう、神の言葉に道を譲らず、むしろ神はこんなお方であって欲しいと、自分の思いや願いが先に立ってしまうのです。
でもモーセは、神が伝えるように神を知ろうとした。そして、神が知らせて下さる、その通りに神を伝えようとした。これは、聖書を学ぶ者にとって大事な基本姿勢です。モーセは臆病で、まだ輝きを放ってはいなかったかもしれない。それでも彼はダイヤの原石でした。神の知らせて下さるように神を知り、神を語ろうとした。だから彼は、四十年という出エジプトの重みに耐えることが出来たのでした。
「彼らに何と答えればよいのでしょうか」、このモーセの問いかけに対し神は、御自分の「ある」という揺るぎなさを伝えます。この方は、アブラハム、イサク、ヤコブの旅路に共に「ある」お方。この方は7節、神の民の痛みを知るお方であり、だから9節、人々の叫びは確かにこの方に届いている。そして12節「モーセ、あなたとともに『ある』」と言うのであり、15節「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と、共に歩む神の名を永遠のものとして、今を生きる私たちにも届けて来るのです。
そう。神は「わたしはある」というお方。だから、私たちもこのお方のもとに重荷を下ろすことができる。この「ある」というお方は、あなたの痛みも知っている。人知れず口にしたあなたの叫びも、この方には届いている。今から後、とこしえまで、この方は、あなたと共にある。
(「足あと」のスライド)
「わたしはある」、この神の名を思いめぐらす中、私は一篇の詩を思い出しました。ご存知の方も多いかもしれません。英語名フットプリンツ、歌にもなった「足あと」の詩です。
夢の中で旅人が人生の砂浜を歩いていたのです。そこには寄り添う主の足あとがいつもありました。しかし、人生の苦しい道のりに差し掛かった時、足あとが一人分しかないと気づく。そして不安になって尋ねるのです。「主よ、私を捨てたのですか」と。それに対する答えがこれでした。「わたしはあなたを決して捨てたりはしない。足あとが一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
結び
「わたしはある」という方。神のモーセに向けたこの励ましは、旧約版の「足あと」の詩。いや、正確に言えば旧約、新約を通じて神はいつもご自分の名を「ある」と示されるお方だった。この方はいつも私たちと共にある。ただ私たちが気づかなかっただけなのです。
私たちはモーセから学びたいと思います。それは自分の願う神を求め、思い描くのではなく、神の言葉を通して神を知ろうとすること。そうです。聖書の教える通りに神を知り、その通りに伝えていきたい。そんな御言葉を慕い求める営みの中でこそ、「わたしはある」という揺るがぬ神との本物の出会いを、私たちは経験していくことになるのです。
お祈りします。
「これが永遠にわたしの名である」。天のお父さま、私たちの願う神ではなく、ただ、あなたのお語りくださるままにあなたを知ることができますように。私たちを聖霊で満たしてください。生ける御言葉のイエスさまが、いつも私たちに語ってください。キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン
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