「お心一つで」
ルカの福音書 5章12-16節
天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。残暑が厳しい中ですが、私たちは1週間の務めを終えて、こうして御前に安らぎ、礼拝する恵みに与からせていただきましたことを心から感謝します。どうぞしばらくの時みことばに集中し、あなたのみこころを悟らせてくださいますように。また語るこの小さな者も聖霊のみ助けの中で強められ、大胆にあなたのみことばを語らせて下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
今日からしばらくルカの福音書から説教をさせていただきます。ルカの福音書は使徒の働きと同様ルカが記した文書です。イエスさまの誕生から昇天までを記した「ルカの福音書」が第一巻、イエスさま昇天後の使徒たちによる福音宣教の様子を記したのが「使徒の働き」で第二巻となります。また歴史家だったルカは、これらの二巻の文書を歴史的側面から整理して書いています。実際ルカの福音書、使徒の働きのはじめには、自ら「綿密に調べて順序立てて書いています」と言っています。そしてルカはパウロと行動を共にしていた時期も長かったですから、ただ出来事を書き連ねるだけではなく、神学的見地をもってこの二巻を書いたとも言われています。
またルカは医者でもありました。彼はきっと人道的で、貧しい人や身寄りのない人、未亡人や社会的に差別されていた人などを診る、そんなタイプのお医者さんだったようです。そのせいでしょうか。ルカの福音書には、多くの女性や子ども、老人、貧しい人、罪人と呼ばれる人、病の人が出てきます。
そして最後にもう一つ、ルカの福音書の特徴としてあげられるのは、「神の国」への言及が多いということです。しかもその「神の国」は非常に逆説的です。「神の国」に招かれている人は、高貴な人でも富む人でも知者でもなく、貧しく、社会から疎外されている人、いつも後回しにされる人、社会の底辺にいる人、「罪人」と呼ばれ人々から敬遠され、軽蔑されている人々なんだと言っているのです。今日の個所もそんなルカが描いたイエスさまと、イエスさまに癒しを求めて近づくツァラアトを患う人が出てきます。
5:12
さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
舞台はガリラヤ地方です。ガリラヤ地方はユダヤ地方に比べると、宗教的には決して注目される場所ではありませんでした。農業、商業共に栄えていたようですが、旧約聖書では表舞台に出る地域ではなかったために、ユダヤ人からは相手にされない地域でした。けれどもイエスさまの公生涯の多くはこのガリラヤでの宣教活動に費やされていまます。そして、イエスさまがそのガリラヤ地方のある町に行かれた時、一人の全身ツァラアトに冒された人に出会います。
ここでこのツァラアトについて少し補足説明を致しましょう。この病気は、ヘブル語ではツァラアト、ギリシャ語ではレプラと呼ばれる重い皮膚病なのですが、当時非常に恐れられていた病気でした。日本語の聖書では長く、らい病と訳されてきましたが、このツァラアトは、家の壁や衣類にも感染するというので、らい病とは違うだろいうことになり、新改訳聖書で言うと第三版以降、直接ツァラアトと表記することになりました。けれどもこの病気が非常に人々に恐れられていたことに変わりはありません。この病が発症すると人は目の前が真っ暗になり、絶望にさいなまれました。どうしてでしょうか。理由はいくつかあります。
①病気自体が深刻でした、重い皮膚病ですから痛みかゆみ、悪臭などがあったことでしょう。また容姿が変わってしまう可能性もあります。また一度感染したら最後、特効薬も治療法もありませんでした。旧約聖書レビ記の14章には、ツァラアトが治った際にはどういった手順で社会復帰するかという細かな規定が書かれていますが、実際自然治癒で治った例は聖書にも他のこの時代の文書にも見当たらないのです。
②社会から隔離されました。感染拡大防止のため彼らは生まれ育った町から出て行かなくてはいけませんでした。隔離された郊外の村で暮らさなければいけなかったのです。もちろん家族とも離れ離れです。そして止む終えず町に入る時には、今でいうソーシャルディスタンスを保たなければいけません。2メートルとかそんな距離ではなかったでしょう。人々が不用意に近づかないように、「汚れた者、汚れた者」と叫びながら歩かなくてはいけませんでした。
③宗教的に汚れた者とされました。なぜかこの病気の診断は、旧約聖書時代から祭司が行いました。そうするように律法に規定されていたのです。そして祭司が判定する検査結果は、「陽性」「陰性」ではなく、「汚れている」「きよい」と出ました。そして「汚れている」と判定されれば、礼拝のコミュニティーから疎外されました。もう礼拝の集いには入れないのです。彼らにとって礼拝は特権であり、誇りでした。その礼拝の交わりに入れなくなるというのは、社会的宗教的死を意味していたのです。
どうでしょうか。これらのことを考えると、この病気にかかった途端、絶望しかないのではないでしょうか。けれどもこの5章に出てくる男性はイエスさまの噂を耳にしました。「すごいお方がこのガリラヤ地方に現れた。彼は言葉にも業にも力があり、病人を癒し、悪霊追い出しもするらしい。そしてお優しいお方で貧しい者や弱い者を顧みてくださる。」と聞いたのです。ほとんどあきらめていた人生でした。けれどもその人生に一筋の光が差しました。彼はこのお方に一縷の望みをかけたのです。そして彼は人々に白い目でみられることを覚悟で町に入って行きました。もちろん「汚れた者、汚れた者」と叫びながらです。そしてイエスさまが通りかかるのを今か今かと待っていたのです。そしてとうとうイエスさまがいらっしゃいまさした。一目でそのお方だとわかったことでしょう。彼は近づける限界まで近づき、そこで跪き、ひれ伏してお願いしました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」一目でツァラアトとわかる様相だったことでしょう。無視されたらそれで終わりです。ところが、イエスさまの反応は想像を絶するものでした。
5:13
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
イエスさまは遠くでひざまずく哀れな男に気が付きました。そして彼がツァラアトに冒されているいることもすぐに分かったことでしょう。イエスさまはその人に近寄り、なんと手を伸ばし、彼に触ったのです。「さわった!」ツァラアトの男は、まさかと思ったことでしょう。このツァラアトに罹ってから、誰も自分には触ろうとしなかった、家族でさえもそれをしなかった。ところがイエスさまは近づき、ためらうこともなく、ひざまずく彼の上に手を置いたのです。彼はひれ伏したまま顔をあげることもできず、その目からは涙があふれ、ぽたぽたと落ちて乾いた地面をぬらしたことでしょう。
そしてイエスさまはおっしゃいました。「わたしの心だ。きよくなれ」。このツァラアトの男は、わかっていました。このお方には、私を癒してくれる力も権威もおありになると。ただ、それをこのお方が望むかどうか、そのご意思があるかどうか、そう願ってくださるかどうか確信が持てなかったのです。なぜならこのお方はあまりにきよく、気高かく、罪も汚れもないお方だからです。だから「お心一つで」と彼は言いました。「もしみこころなら、わたしをきよくすることができます」「あなたがそう望まれるのなら」「そのご意思があるなら」If You are willing,と言ったのでした。そしてイエスさまは、そのことばにそのまま答えるように言いました。「わたしの心だ。きよくなれ」と。「あなたがいやされることをわたしは望みます。「それは、わたしの願いです。」「いやされなさい。きよくなりなさい。」イエスさまはそう答えられたのです。そして、たちまちツァラアトが消えました。
5:14
イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
5:15
しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。
しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。
5:16
だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。
だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。
宗教的に汚れているものに触ることは、彼らの律法では禁じられていました。自分も汚れてしまうからです。けれどもイエスさまはその律法を無視してツァラアトの男に触れました。イエスさまはいいのです。汚れたものに触ることによってご自身が汚れるようなお方ではありませんから。言ってみればイエスさまご自身が律法です。律法に縛られる必要は全くありません。そういう意味でイエスさまは地上では自由人でした。それが時に宗教家たちの反感を買ったのです。けれどもこのいやされた男はこれから健康な身体で社会に帰っていくのです。家族のもとに帰るのです。ですからイエスさまは言われました。「行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証明のため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」先ほども言いましたが、このツァラアトという病気だけは特別で、祭司が全快認定をするわけですから、祭司のお墨付きがないと社会に、また家族のもとに帰れないわけです。ですから、イエスさまはすぐにその規定に従い、手続きをしなさいとおっしゃいました。そしてもう一つお願いしたことがありました。「誰にも話してはいけない。」ということです。イエスさまは、「不思議なことを行うヒーロー」にはなりたくなかったのです。また愛国主義者たちが熱狂し、政治的なメシヤ(救世主)としてイエスを担ぎ上げるのを避けたかったのもあるでしょう。けれども「人の口に戸は立てられぬ」とはよく言ったものです。彼は、イエスさまに言われたことを頭の片隅に置きながらも「ここだけの話しだけど…」と話してしまったのでしょう。よくあることです。大勢の群衆がイエスさまの話しを聞くために、また病気を癒してもらうために集まって来たようです。イエスさまは、まだ宣教を始めたばかり、十字架に向かう道はまだ長いのです。イエスさまは、人々を避けて、寂しいところに行って祈られたのでした。
「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたイエスさまは、わたしたちにもそうおっしゃってくださっています。私たちが心身ともに健やかに生活することは神さまのみこころです。それは神さまの望みであり、願いです。けれどもそれだけでなく、私たちの罪で汚れた真っ黒なこの心がきよめられて真っ白にされることが、イエスさまの願いです。イエスさまはそのために十字架に架かって下さり、血を流され、その血潮によって私たちの真っ黒な心を洗ってくださいました。そして雪よりも白くしてくださるのです。神さまには私たちをきよくするご意思があります。それは神さまの望みです。問題は私たちが、その神さまの愛とあわれみを信じて大胆に恵みの御座に出るがどうかです。まわりの人に白い目で見られようと、反対されようとイエスさまに会うために御前に出て来たこのツァラアトの男のように、私たちも今日恵みの御座に出ましょう。
愛とあわれみに富んでいらっしゃる天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。あなたは、社会から見放され、疎外され、何の望みもなく生きていたツァラアトの男に近づき、触れ、「わたしの心だ、きよくなれ」とおっしゃってくださいました。イエスさまは今も同じ愛とあわれみの心をもって私たちに近づき、触れて下さり、きよめてくださるので感謝します。罪に汚れた私たちですが、大胆に恵みの御座に出ます。どうぞきよめてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン
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