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主の教えに驚嘆し

「主の教えに驚嘆し」
使徒の働き13章4~12

天の父なる神さま。あなたの尊いお名前を心から賛美致します。本格的な暑さを迎えていますが、今週も私たちを礼拝の御座へとお招きくださったことを心から感謝致します。そして今私たちは、あなたのみことばを待ち望んでいます。どうぞこの時、心を静め、開かれた心をもって神の言葉に聴くことができますように、聖霊の助けをお与えください。語るこの小さな者をあなたがきよめてください。その欠けたところを聖霊なる神が補ってくださり、神のことばをまっすぐに解き明かさせてくださいますように。期待いたします。生けるみことばイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

アンティオキア教会は、聖霊の促しによって、バルナバとパウロを宣教のために送り出す決心をしました。そして二人は、教会のみなさんに派遣の祈りをしていただいて、いよいよ第一次伝道旅行に出発し、まずはアンティオキアの港セレウキアに移動しました。アンティオキアは、ローマ、アレキサンドリアに続く大都市でしたから、その港は多くの貿易船が出入りしてさぞにぎやかだったことでしょう。彼らはそのセレウキアの港からキプロスに向けて出港しました。キプロスといえば、バルナバの出身地です。実は5節に出てくる、助手として同行するヨハネもキプロス出身で、なんとバルナバのいとこでした。(コロサイ4:10)ヨハネはマルコとも呼ばれていて、前にも二度登場しているのですが、みなさん覚えているでしょうか。ペテロが投獄されていた時に皆がマリアという人の家に集まっていたのですが、そのマリアの息子(12:12)として一度目は紹介されています。また二度目はバルナバとパウロが救援物資をアンティオキアからエルサレムに届けた際に、本人が希望したのか、バルナバのスカウトだったのかわかりませんが、マルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキアに戻って来たと書いてあります。(12:25)パウロの宣教スタイルは、いつも若い人を同行させるものでした。若い人に身の回りの世話をしてもらいつつ、弟子訓練をしていたのかもしれません。そう言えば水戸黄門もそうじゃないですか?助さん格さんを連れて、日本全国旅をして世直しに回っていましたね。

 さてキプロス島の東岸サラミスに着くと、パウロとバルナバは、まずはユダヤ人の諸会堂(シナゴーグ)で神のことばを語りはじめます。えっ?ユダヤ人?異邦人伝道をするんじゃなかったの?と思われるかもしれません。けれどもイエスさまも「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)とおっしゃっていましたし、パウロもその優先順位を守っていたようです。また、信仰の土台のあるユダヤ人に伝道するのは、ある意味効率がよかったとも言えるでしょう。彼らは旧約聖書の創造主である唯一の神を信じていましたから、「イエス・キリストが神の御子、救い主」であること、「イスラエルが待ち望んでいたメシヤ」であるということ、その一点を信じればよかったのです。まあ、それが難しいのですが。

またパウロたち一行はこのユダヤ人の会堂(シナゴーグ)を拠点とし、伝道活動をしていました。会堂の起源は、イスラエルが捕囚の民となったころにさかのぼります。イスラエルの民は、バビロンやアッシリアなど、あちこちに離散しました。そしてエルサレム神殿が崩壊した後、ユダヤ人たちの礼拝の場となったのです。今でもシナゴーグでの礼拝はそれがどこにあっても、エルサレムの方向を向いてなされているらしいです。また会堂では、安息日に何度か礼拝が行われ、律法の書と預言書、つまり旧約聖書が読まれ、教師(ラビ)と呼ばれる人がその解説をしました。それぞれに専属ラビがいたようですが、飛び入り説教も大歓迎だったようで、パウロのような名門神学校(ガマリエル門下)を出ているような人が訪れたら、ぜひぜひ何か一言お話しくださいということになったようです。ちなみにイエスさまご自身も、会堂でお話しをしたことが何度もあります。そういうわけで、パウロたち一行は、どこに行ってもまずはユダヤ人の会堂を拠点に伝道メッセージを語りました。会堂にはユダヤ人だけではなく、「神を敬う人」という異邦人や改宗者も一定数いたようです。それも伝道には好都合でした。

さてパウロたち一行は、キプロス島の東海岸サラミスから出発し、伝道しながら、陸路で150㎞ぐらいの西海岸のパポスに到着しました。ここに至るまでなんのエピソードも書かれていないので、ひょっとしたら思ったほどの収穫がなかったのかもしれません。ところがこのパポスでハプニングが起こりました。

この地方も例にもれず、ローマ帝国の支配を受けていましたが、地方総督としてこの辺りを治めていたのがセルギウス・パウルスでした。彼は賢明な人で、おそらくイエス・キリストに強い関心を持っていました。そして自分が管轄するキプロスにそのキリスト教の伝道者、パウロとバルナバが来ていることを聞き、ぜひ彼らを招いて神のことばを聞きたいと願ったのです。

ところがそれを邪魔する人がいました。側近のバルイエスでした。彼はユダヤ人であり、偽預言者、そして魔術師だったとあります。当時は身分の高い人が、お抱えの学者や哲学者、魔術師、占い師などをそばに置いて、お伺いを立てる習慣があったようです。バルイエスは、総督がユダヤ教に興味をもっていたことをいいことに、ユダヤ人の宗教家として近づき、助言などを行い、自分の地位を確立していたようです。バルイエスの「バル」というのは「子」という意味ですから、「イエスの子」ということになります。また「イエス」というのは「神(ヤハウェ)は救い」という意味もありますから、「救いの子」との意味もあると言えるでしょう。(ちなみに福音書に出てくる盲人「バルテマイ」は「テマイの子」という意味です。)彼は偽預言者、つまり偽物でしたから、本物がご主人さまに近づいては困るわけです。自分がいつも出まかせを言っていることがばれてしまうからでしょう。そこで、パウロたちが総督に話しをしていると横槍を入れて、邪魔をしました。そして信仰から遠ざけようとしたわけです。

するとパウロはとうとう切れました!けれどもこれは人間的な怒り、感情の爆発ではありません。正義の怒りでした。聖霊に満たされて彼をにらみつけ言ったのです。「ああ、あらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちた者、悪魔の子、全ての正義の敵、お前は主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか!」お前はイエスの子なんて名前を持っているが、とんでもない、悪魔の子だ!パウロはそう言ったのです。

ここで注目したいのは、バルイエスが「主のまっすぐな道を曲げ」ていたということです。ここに落とし穴があります。今の時代、多くのキリスト教異端があります。彼らの教えはみな、キリスト教から派生していますが、それは「曲げられた」ものです。私たちが大事にしている聖書は、長い歴史の中で聖霊によって守られ、歴代のキリスト教会が細心の注意を払い後代に伝えてきたものです。また聖書を基にしている教義、教理も何度も何度も、教会の代表者たちが集まって、祈りつつ会議をし、整理されてきたものです。けれども異端はそれを無視し、曲げました。「主のまっすぐな道を曲げる」、これはサタンの常套手段なのです。例えば悪魔がエバを誘惑した時にはこんな具合でした。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか?」まず蛇はそのように神のことばを曲げました。神は何と言われたのでしょう?「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」そうおっしゃいました。ところがエバは神のことばを少し曲げた蛇の罠にまんまと引っかかりました。彼女は言うのです。「私たちは園の木を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と神は仰せられました。」どうですか。本当に微妙に曲げられていることに気づいたでしょうか。サタンの罠にまんまと引っかかったエバがここにいます。こうして人は罪を犯し、人類に罪が入ったのです。私たちは「神のまっすぐな道を曲げる」というサタンの策略を見抜かなくてはいけません。

パウロはバルイエスに言います。「『見よ、主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。』するとたちまち、かすみと闇が彼をおおったため、彼は手を引いてくれる人を探し回った。」パウロは怒り心頭でしたが、それでも悔い改めのチャンスを残していることに気づいたでしょうか。パウロは「しばらくの間」目が見えなくなると言ったのでした。永遠ではない。悔い改めれば、再び見えるようになる…、そんな可能性も残しています。パウロ自身もダマスコ途上でイエスに出会い、しばらく目を見えなくさせられたことを思い起こしていたかもしれません。バルイエスは、かすみと闇に覆われた世界で、自らを省み、悔い改め、この後「まっすぐな神の道」に立ち返ったと信じたいです。

総督は一連の様子を見ながら、主の教えに驚嘆し、信仰に入りました。パウロの怒りに恐れをなして信仰に入ったわけではない、目が見えなくなるという奇蹟を見て信仰に入ったわけでもない。総督は「主の教え」に驚嘆し信仰に入りました。今まで、バルイエスを通して曲げられた教えを聞いてきました。けれどもそれは、一時的な気休め、上っ面の慰めにはなっても、自分を変える力にはならなかった。肝心な救いへの道、真理が曲げられていたからです。けれども今、パウロを通してまっすぐな主の道、主の教え、みことばを聞きました。そして彼はそのまっすぐな主の教えに驚嘆し、主を信じ、救われたのです。

私たちは「主のまっすぐな道」を信じているでしょうか。聖書のことばは、時々私たちにはハードルが高く感じるかもしれません。ここをちょっと曲げれば、ハードルが下がる。少しばかり修正すれば、この部分を削除すれば、もうちょっと受け入れやすくなるし、伝道しやすくなるのに…。そう思って、主のまっすぐな道を曲げて受け止めていないでしょうか。あるいは曲げて人に伝えていないでしょうか。私たちには絶えず、そのような誘惑があります。でも、曲げられた道には、何の力もありません。特に魂の救いに関しては、何の助けにもなりません。私たちは「主のまっすぐな道」を受け入れましょう。そしてこの道を歩みましょう。そしてこのまっすぐな道を人々に伝えたいと思います。お祈りします。

生けるみことばなるイエス・キリストの父なる神さま。尊いお名前を心から賛美します。第一次伝道旅行に出かけたパウロの旅路は、初めからサタンの妨げに遭い、霊的な戦いを強いられたものでした。主よ、私たち信仰者の歩みは、絶えずみことばを曲げようとする誘惑にさらされています。けれどもまっすぐな道こそ力があり、人々を驚嘆させるものであること、そして本当の救いに導くことができるということを今日学びました。どうぞ、私たちも堅く、このまっすぐな主の教えに立つことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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