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泣かなくてもよい

「泣かなくてもよい」
ルカの福音書 7:11-17

天の父なる神さま、尊いお名前を賛美します。一週間の歩みを終えて、今日も礼拝の場に集うことができました。私たちは生きていると様々な困難、悲しみ、苦しみに遭います。けれども私たちはひとりではないこと、あなたが共に歩んでくださっていることを思うときに、週に一度、こうして御前に集い、心を込めて礼拝したいと思わされることです。しばらくの時、心を静めてみことばに耳を傾け、生けるパンであるあなたの養いを受けることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。

このナインという町で起こった出来事は、4つの福音書の中でルカだけが記してます。先週お話ししましたように、ルカはこの福音書の中で、貧しい人、女性や子ども、老人、病人にまつわる記事を多く取り上げています。そしてその視点がとても優しい。またこの記事は、前に書かれている百人隊長のしもべがいやされる記事に続いています。イエスさまは、身分の高い百人隊長のような人であろうと、今日のやもめのように身分の低い人であろうと全く関係なく、あわれんで助けようとなさいます。そしてもう一つ特徴的なのは、イエスさまが癒しの奇蹟を行うときには、たいてい頼まれ、請われてそうするのですが、今回に限っては違います。この母親はイエスさまに生き返らせてほしいと頼んだわけではないのです。おそらくイエスさまが近くにいらっしゃるのも知らなかった。イエスさまの方が、埋葬に向かうこの一団に気が付き、あわれみの心がわき上がって、死人をよみがえらせるというこの特別な奇蹟を起こされたのでした。さてその様子を詳しく見てみましょう。

7:12イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。

確かに医療がまだ発達していないこの時代、病気などで大きくなれないまま亡くなっていく子どもが少なくない時代でした。けれどもこの母親の息子はすでに大きかったのようです。14節では「若者よ」と呼びかけていることからもわかります。また彼女は夫にも先立たれて、息子と二人暮らしでした。女性が一人で生計を立てるのは難しい時代です。それでも何とか女手一つで育てあげ、やっと働いて生計を助けることができる年齢になったころ、息子は死んでしまいました。病気だったのか、事故だったのか、理由は書いていないのでわかりません。最愛の息子を失ったことはもちろん大きな悲しみでしたが、その上これからの生活のことを思うと途方に暮れるしかなかったことでしょう。町の人はそんな不幸なこの女性に同情しました。「その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた」と書いてあります。当時は埋葬に向かう行列には必ず「泣き女」と呼ばれる人たちがつきそう習慣がありましたが、おそらくこの時は、本当に多くの町の人々が純粋に彼女に同情し、進んで付き添っていたと考えてもいいでしょう。

最愛の人を失う悲しみは想像を絶するものがあります。先日もご紹介したPBAラジオのWhat the Pastorsを聞いていた時、ゲストの加藤常明先生(86歳)が、奥さまのことを話していました。先生は2年間奥さまを介護して、その後天に送りました。先生がその時のことを振り返って言われたことが非常に印象深かったです。先生は奥さんのいない生活についてこんなことを言っていました。「妻のいない生活は、もう悲しいなんてもんじゃない。苦しいんだ。」と。この母親も同じでしょう。悲しみを通り越して、苦しかったと思うのです。 

7:13 主はこの母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

イエスさまは、埋葬に行くその行列を見たとき、そして棺の横で悲しみに暮れるその母親が泣きながらとぼとぼ歩いているのを見たときに、すべてを理解しました。遺体に近づくと汚れるという律法もありますから、普通の宗教家は見て見ぬふりをして通り過ぎたことでしょう。イエスさまが話された「よきサマリヤ人」の譬えは皆さんもご存知だと思います。ある人が強盗に襲われて半殺しの目にあって、道端で横たわっていました。するとそこに祭司が通りかかりました。けれどもその人がもし死んでいたら身を汚すことになる。それでは大切な自分の職務が果たせなくなると思い、見て見ぬふりをして通り過ぎて行きました。次にレビ人もやって来ましたが、レビ人も宮に仕える聖職者です。ですから同じく道の反対側を通り過ぎて行きました。彼らは自分の聖なるお役目に影響を与えたくなかったので、関わり合いたくなかったのです。けれどもイエスさまは違いました。その母親を見て、憐れに思い、近寄って「もう泣かなくてもよい」と声をかけ、棺に触れました。本当の愛には計算がありません。先ほども言ったように、誰もイエスさまに頼んでいないのに、あわれみの心を抑えきれず、思わず彼女に声をかけたのです。

この「深くあわれみ」というイエスさまのあわれみは、この女性に同情してぞろぞろとついてきた町の人々とは全く違うあわれみでした。二つの点で違いました。
あわれみの程度が違いました。この「深くあわれみ」という言葉のギリシャ語は、「内臓」という単語に動詞がくっついたものです。つまり「内臓が動かされること」を意味します。はらわたが揺り動かされ痛む状態。ある注解者は「腸がちぎれるような」と表現していました。イエスさまが行きずりの人にどうしてこれほどまでに動揺されるのか、私たちには理解できません。私たちは霊きゅう車とすれ違う度に、心に痛みを覚えるでしょうか。葬儀をやっている横を通り過ぎてあわれみの心がわいてくるでしょうか。ニュースで事件に巻き込まれ死んでいく人のことを聞いて、どれほど心動かされるでしょうか。私たちの当事者意識とはその程度のものなのです。ところがこのイエスさまの痛みはどうしたことでしょう。そうです。この痛みは、当事者のそれです。息子を亡くしたこの母親の痛みでした。イエスさまは、息子を亡くして悲嘆に暮れているこの母親の痛みをご自分の痛みにしたのでした。加藤先生のことばを借りれば、この母親の苦しみを自分の苦しみにしたのでした。母親の痛みが、苦しみがイエスさまに乗り移ったかのように、イエスさまは痛み苦しんだのです。私たちは苦しみの中にある時、悲しみに暮れる時、神さまが遠くで傍観しているようにしか思えないときがあります。けれどもそれは間違ったイメージです。神さまのあわれみは、当事者のそれなのです。悲しみ、悲嘆に暮れるあなたと同じ悲しみと痛み、苦しみを神さまも感じておられるのです。
イエスさまのあわれみは、解決のあるあわれみです。イエスさまは「泣かなくてもよい」とおっしゃいました。私たちにはそんなこと言えません。泣かない代わりに差し出せるものが何もないからです。けれどもイエスさまの「泣かなくてもよい」には根拠があります。代わりに差し出せるものがあるのです。それは何でしょうか。14節を見てみましょう。

7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

イエスさまは死を解決することができるお方です。イエスさまは埋葬に向かう一行を止め、棺に触れられました。すると棺を担いでいた人たちは驚いて立ち止まりました。この時の棺は蓋のない担架のようなものでした。そして担いでいた人たちは一旦それを地面に置いたでしょう。イエスさまはそこに横たわっている遺体に言いました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。

人々は驚いたことでしょう。死んでいた若者が起き上がって、ものを言い始めたのですから。若者は開口一番何を話したのでしょうか。気になりますが、何も書いていませんから想像するしかありません。「ここはどこ?何が起こったの?」の類でしょうか。イエスさまはその若者の手を取り、立ち上がらせ、母親に彼を返しました。さて、ここで「返された」と訳している言葉は、実は原語では「与えた」という言葉です。イエスさまは母親にもう一度その子どもを与えたのです。そうでした、子どもは神さまからの賜物でした。子どもに限らず生きとし生ける者はすべて神さまのものです。

わたしは台湾で何度か葬儀に出ましたが、一つ印象的な葬儀がありました。61歳の一人の姉妹が突然の心臓発作で天に召されました。大変仲の良いご夫妻だったので、ご主人はずっと泣き通し、声をあげて泣く場面も幾度もありました。そんな葬儀の式次第の表紙には、子ロバの写真が載っており、説教題は「主がお入用なのです」でした。イエスさまが十字架を目指し、エルサレムに入城する際子ロバに乗られたのですが、弟子たちが子ロバを連れてくるときに、もし、誰かに引き止められたらどうすればいいですかとイエスさまに尋ねます。するとイエスさまは「主がお入用なのです。」と答えなさいと言いました。葬儀のメッセージをされた先生はこう言いました。「主が御国でのご用のために、姉妹を必要とされたのです。この姉妹は、今頃御国のイエスさまのおそばで、喜んでお仕えしていることでしょう。」と。そうなのです。私たちは子どもに限らず、みな主のものです。そして主が御国で私たちを必要とされる時に、私たちは天のお父さまのもとに帰ります。私たちはみな神さまのものだからです。けれどもイエスさまは、母親の悲しみを見てあわれみ、もう一度息子を母親に返されました。ここにイエスさまの深いあわれみを見ることができます。

7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。

どうして人々は「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」と言ったのでしょうか。それは旧約聖書の代表的な預言者エリヤとエリシャが、子どもを生き返らせているからです。エリヤは飢饉の間、ツァレファテというところのやもめに養われました。そのやもめには一人の男の子がいたのですが、病気になってついに死んでしまったのです。エリヤはその息子が生き返るように3度祈り、その祈りが聞かれその男の子は生き返りました。(Ⅰ列王記17章)そしてもう一人の預言者エリシャにも同じようなことがありました。エリシャは自分に親切にしてくれたシェネムというところに住む女性のために祈り、子どもが与えられました。ところがその子が少年になった頃、急に頭が痛いと言い出し、死んでしまいました。母親は、エリシャにこんな悲しい思いをするなら子どもなんていらなかったのにと文句を言います。ところがエリシャはその子のところに行き、祈ると、その子は生き返ったのでした。(Ⅱ列王記4章)けれどもこの預言者たちは祈ってきかれただけでした。その子たちを生き返らせたのは神さまでした。イエスさまの場合はどうでしょうか。イエスさまは預言者たちとは違います。イエスさまご自身に力があり、そのことばに権威があったからです。

では「神がご自身の民を顧みてくださった」とはどういうことでしょうか。当時はイスラエルが再建されるときには大預言者が現れると信じられていました。ですからイエスさまの奇蹟を見たときに、人々はこのお方こそイスラエルを再建してくださる救世主だと思ったのです。それで「神がご自分の民を顧みてくださった」と言いました。そしてこの話しは、またまたユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まったのです。

私たちは、この当時の人々のように、死人を生き返らせるその不思議だけに注目してはいけません。イエスさまの深いあわれみにこそ目を留めるべきです。イエスさまは「死」が私たちにもたらす絶望をただ見ていることができませんでした。そしてイエスさまの湧き上がる愛とあわれみは、どうにかしてこの「死」とその原因である「罪」を解決しなければという決意に向かわせました。そして十字架への道を目指したのです。イエスさまは十字架にかかって人の罪を背負い、身代わりに死に、私たちの罪を解決してくださいました。そして三日目によみがえることによって、私たちに永遠のいのちを与えてくださったのです。もはや死もなく悲しみもない天国への希望を与えてくださったのです。

今日はこの後、○○くんの洗礼式があります。〇〇くんはあかしの最後で一つのみことばを紹介しれくれます。Ⅱコリント5:15のみことばです。「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」イエスさまは人類の敵「罪」と「死」を解決してくださいました。そしてそのイエスさまは、聖霊によって信じる私たちの内に住んでくださいます。そして私たちが痛み悲しむ時、ともに痛んでくださいます。それだけではない。その痛み悲しみを希望に変えてくださいます。そして私たちは感謝をもってこのお方のために生きるのです。お祈りします。

あわれみ深い天の父なる神さま、あなたは私たちの悲しみをわかってくださり、憐れんでくださるので感謝します。そしてそれだけでなく、その悲しみを自ら負ってくださり、感謝と希望に変えてくださるので感謝します。どうぞこの主に信頼し、これからもあなたについて行くことができますように。主イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン

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